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歌は、どこから来るの? 『ブータン山の教室』(パオ・チェンニ・ドルジ監督)は、ただの遥かなる山の呼び声映画ではない。

トップの写真は、リンクした映画公式サイトから拝借しました。

幸せの国、ブータン王国、と聞いたことはあるけれど、実際ブータンてどこにあるの?

こちらのリンクは、映画『世界で一番美しい村』。ネパールの山村の話でしたが、ネパールとブータンは、お隣同士。文化もよく似ている。標高3000mを超える山岳地帯に、永い時を変わらぬ暮らしを続ける村々がある。

リンクばかりで見づらいですが、こちらは少女マンガに稀なるチベット仏教と少年僧の成長と生活を描いた作品で、始めは1000年前くらいの話かと思って読んでたら1945年の話だった!と驚いたんですけども。どんだけ閉鎖的にしていれば、ここまで昔ながらのままでいられるのかと。

ブータン王国も「独自の文化や伝統を頑なに守ってきました。インターネットとテレビが解禁されたのは、1999年。」(映画パンフレット監督インタビューより)とあるように、20世紀後半になるまで自給自足の農業国として立国していたそうです。

『ブータン山の教室』は、そんな頑なに自国の文化と宗教的な暮らしを守り通してきた国が、近代化を受け入れ変容する、現代のお話。首都ティンプー(人口10万人)で教師の仕事に不満を持ちながらも好きに暮らしていた若者ウゲンは、突如、超僻地、標高4000mを超える遥かなる山の彼方、ルナナ村へ派遣されることに。

お話自体は、よくある形式ですが、バスで行ける限界点、ガサの街から八日をかけて、ラマと自分の足で歩くしかない山奥へ山奥へ、村人に連れていかれるウゲンの旅は、淡々と克明に描かれる一種ドキュメンタリのようでもあり、ロードムービーのようでもある。何も知らないわたしたちは、ブータンの自然や環境ー山の雪がどんどん減ってしまってるー地球温暖化の不安も挿入されながらー社会と人身の状況などをウゲンと共に体験していく。

こんな道を八日間もかかってたどり着くのか…

出演しているのは、実際にルナナ村に住んでいる人たち。住民56名。7000mを超える中央アジアの山々に囲まれた、美しい村…。だけどいったいこの村の人たちは、いつからここに暮らしているんだろうか。2000年くらいは経ってるんだろうか…もっとだろうか…だとしてもどこから行き着いて来たのだろうか…悠久の歴史に想いが馳せてしまうように。想像がつかない。

上にリンクした『日本語の起源』大岡晋先生の本は、諸説あまたある日本人の源流を中央アジアの言語に求めたベストセラー。ずっと昔に読んだのでほんど覚えてませんが、チベットやブータン、ネパールのあたりから、南下して日本に流れてきた説は、意味と音が同じ言葉が多い。着物の形をした民族衣装とか、説得力がありました。

なんでもかんでもリンクを貼ってすませるな。ほんとに見づらくて申し訳ないですが、ブータンの着物と相似する衣装とともに、想起させられたのは、音楽ー唄です。

ルナナ村にたどり着くまでの間、都会育ちで、現代の若者ポップスが大好きなウゲンは、スマホの配信ミュージックをヘッドフォンでずっと聴き続けている。しかしやがて電源が切れ、何も聞こえなくなった時。案内をしてくれるルナナの男衆、ミチェンとシンゲの歌声が、焚き火の前に広がっていく。

ルナナ村についてからも、牛飼いの娘、セデュが歌う「ヤクに捧げる歌」が、山の向こうへと響き渡るーその音と調べは、日本の民謡、それもやはり都会ではない地方の古い歌に似ているし、そしてだから頭にすぐに思い浮かんだのは『ナビイの恋』の重要な場面、琉球国時代の男女の恋の歌でありました。

ルナナ村には、電気もほとんどありません。近代的な物や文化は、つい最近入ってきたものであり、ウゲンが教える山の学校の子どもたちは、英語はなぜか得意なのに(ブータンの若者の大半は英語ができるそうです)「CAR」の意味はわからない。車を見たことがないのです。

車はない。電気はない。当然テレビもない。ラジオもない。あるのは自然と牛と伝統的な農作業と村人の暮らし。

ずーっとずーっとそうだったはずの。そのような暮らしの中でー音楽は、歌は、生まれる。人は、歌を唄う。もうずっとずっと何千年も昔から。

なぜだろうか? なんでなんだろうか? 

わたしは、いつも思うんです。どうして人は、何も誰にも教えてもらわなくても、歌を唄うのかって。伝統的に謳われれる歌は、伝承されるから歌えるわけですが。どんな歌にも始まりは、あるわけで。その始まりを始めた誰かは、きっと自分で考えたというか、自分で歌ったんだと思うんですよね。

この全人類を襲う新型コロナの時代に。不要不急の扱いをされる音楽や芸能は、青息吐息の虫の息にされそうな立場です。

だけど、わたしは、思ったのです。この『ブータン山の教室』という映画を見て。音楽は、歌は、ひいては、人の行う「表現」とは。最も人が人であることを証明するべき何事か、なのだと。

セデュがいう。鳥は、何かのために囀ったりしない。ただ囀っているだけ。わたしも山に捧げる歌を唄っているだけ。それを多分、現代風の社会ではー自由ーと呼んでいるように。

「将来の夢は何?」

「先生になりたいです」

「どうして?」

「先生は、未来に、触れることが、できるから」

教師を辞めたい教師ウゲンに 少年ケンチョは、答える。

教育によって与えられる、触れることのできるー未来ーとは何か。

この身体から生まれた歌は いつかどこかに届く。

映画は、確かに、未来に、触れています。












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