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「ディディの傘」ファン・ジョンウン著斎藤真理子訳 亜紀書房

本は「生もの」だ。「ディディの傘」を読んで1番にそう思った。

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今起きていることを、目に見えてはいないけれど確かに始まっていること、続いていることを目に見えるようにすること。

東京オリンピック組織委員会の森会長が記者会見で女性を蔑視した発言を行い、次の日の謝罪会見も謝罪になってないようなひどいものだったため、いろいろな番組でそれを取り上げていて、日曜の朝、それを家族でぼんやり見終わってから、この本を読み終えた。

ああいう発言はよくある。日本は女性蔑視がひどいように言われたが海外でもそれは良くないということが建前としてあるだけで、海外ドラマなんかを見ると実際には女性蔑視が日本よりひどい。

森会長を辞任させればいいのにしていないのは、五輪相の橋本聖子大臣。女の敵は女。

などと言うテレビのコメンテーターがいて、ゲンナリする。

今このタイミングでこの本が読めてよかったと思う。

女性2人で暮らすことに対する隣人の視線。96年に延世大学で警察に包囲された時に女子大生にだけ起こったこと。

キャンドル革命で、政権を倒そうと言う時ですら、「悪女OUT」というプラカードが立ってしまう。

そう言ったひとつひとつがわたしには刺さる。

「墨字」という言葉を目が見えている人は使わない。当たり前に見えていることだから、わざわざ「何も言う必要がない」

セウォル号の追悼集会についても、車壁が追悼集会へ向かう人を、すでに集まった人を、その場を通り過ぎる人を遮断し、分断する。人ではなくモノが置かれることで、通れなくなった不満は集会に向かう。それは、セウォル号の遺族のストライキが疎まれ、批判された過程に似ている。

イ・ギホ著「誰にでも親切な教会のお兄さんカンミノ」の「クォン・スンチャンと善良な人々」の話にも似ている。

そしてそれは311の東日本大震災の時に起きた原発事故に対する反応にも似ている。放射能汚染について訴える側を風評被害や正しく怖がれと言って追いやった構造に。1番苦しんだ人を片隅に追いやって見えなくするやり方に。

「目の眩んだ者たちの国家」の中で「4月16日以降言葉が折れてしまっています」と書いていたファン・ジョンウンさんがペンを取って書いたこの物語。

たくさんの本の引用があり、その本を追って読んでみたくなる。(押井守監督「スカイ・クロラ」の引用もある)

また「ディディの傘」では性別があいまいな感じになっている。チェ・ウニョン著「わたしに無害なひと」の時にも感じたのだが、韓国語の名前だから、日本人のわたしにはパッと性別が区別できないのかなと思っていた。が、斎藤真理子さんの解説を読むと、この本では本当に性別が揺れて書かれているようだ。こうだから当然女性、男性でしょう?と頭の中で決めて読むことができないのが、かえって新鮮だった。






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