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砂漠の教室

「塩を食うおんなたち」「ブルースだってただの唄」と読み続けてきて、「水牛の本棚」に掲載されていた「砂漠の教室」を読んだ。

上記2冊の本も、心に残るところはたくさんあったのだけれど、「砂漠の教室」はそれ以上に、心に残った。藤本さんがこれを書いた年から43年がたった今でも、日本はあいかわらずそのままの日本で、異質のものはすべて同化させることを信条として成り立っているように見え、私自身も無頓着にその貧しさの中にいるような気がした。

藤本さんがイスラエルの地に降り立ち、ヘブライ語を学びながらいろいろな人に会い、町で暮らし、その暮らし方に驚いたり感心したりしながら過ごすさまを読むのは、私が台湾や韓国に降り立った時に感じたことに似ていて、初めて嘉義に降り立った時、ソウルに着いた時を思い出したり、自分もその地に降り立ったような気持ちになった。それで、あまりよく知らないイスラエルという異国の地の旅行記を楽しむように読んだ。

しかし読み進めていくうちに、アメリカ生まれのユダヤ人の夫とアメリカで暮らす藤本さんが、イスラエルの地に降り立つ意味が少しずつ見えてくる。イスラエルの成り立ち、聖書、ユダヤ人。アメリカとは異なる世界の広がりをどうとらえるか。

そして最後の「なぜヘブライ語だったのか」

「ユダヤ人を異族たらしめているのは、偏見でも差別でもなく、彼らの歴史と思想である。ユダヤ人とは彼らの負のアイデンティティのことをいうのではなく、正のそれをいうのである。ユダヤ人はかしこいとか、普遍的な兄弟愛がゆたかだとか、そんな真空的な評価を指すのではない。彼らがその異族性を歴史の文脈において支えてきた、そのプロセスそのものを指すのである。「離散」が彼らのアイデンティティではなく、「離散」における生の軌跡が、その創造が、彼らのアイデンティティである。
 そのことは、わたしたち日本人の他者に対する関係の結びかたと密接につながっている。アジアを凌辱することでしか関係をもつことのできなかったわたしたちが、アジアの民族がたどらされた負の歴史で彼らを計ることはあまりにも容易な罠としてある。朝鮮のことも、沖縄のことも、彼らの固有性を蹂躙された歴史がうんだひずみとして考えてしまうのだ。ふたたびあやまちを犯さぬためにといいつつ、他者をこちらの思弁の材料にしてしまう。差別がなくなれば、日本列島の在日朝鮮人問題はなくなり、すると朝鮮人もいなくなる、というようなサルトル流の奇怪な論理に乗って平気でいることのできる素質を、わたしたちは充分にそなえていると思うのだ。他者とのまじわりといえば同化しか思い浮かばない貧しさを、どこかでうち破りたいのだ。天皇を頂点としうるところの同族意識をひそませつつ在ることのできるわたしたちは、その延長として、没民族的な万国普遍のイデオロギーもらくらくと手にすることができる。いつまでたっても、わたしたちは他者にその正当なる顔を認めることを潔しとせず、わたしたちの具象の、抽象の両世界を、他者の見えない顔の上に塗りつけ重ねていることになる。
 ヨーロッパ文明と一まとめにして呼ばれているものの中に異族の確固たる、べつの流れがあることを認めたとき、わたしの中には、それまで西洋のものとして受け取ってきたさまざまな思想に、それぞれ正当な歴史の場を返してやらなければならない必要が生まれた。一度、じぶんが馴れ馴れしくしてきたものから身を引き離さなければならないと感じた。引き離すナイフはヘブライ語であると、わたしのあまり頼りにならない直観がいった。」

長すぎる引用になってしまったけれど、この章を読んだ時に、ハッとした。「塩を食う女たち」「ブルースだってただの唄」にも流れていたものが、ここにもある。そしてそれは日本にも、自分の身にも刺さってくることだった。

「わたしは、たとえば、朝鮮語を学ぶべきだと、頭では知っている。けれども、それはおそろしいことだ。学んだところで、いまのわたしになにができるのか。わたしたちのような歴史を背負うものが学びうるのか。学ぶことが、その言語を母国語とする相手を傷つけることにならないという保証があるのか。」

わたしは背景を知りながら、そのことには無頓着に日本で、台湾で、韓国で、直接法で(日本語だけで)日本語を教えた。台湾語も韓国語も習わないまま。それは無神経なことだった。そこで生活するうちに、家族となるうちに異なることを異なるまま愛する良さを知った。それを教えてくれたのは、韓国の家族であり、自分の夫であり、今の家族の暮らしだ。反面今の日本の変わらなさ、気づかなさに悲しくなることも多いし、どうしたらいいのかわからなくなることも多い。特に2018年あたりからのヘイト本、日本会議、DHCなどの言動には怒りも覚えたし、怖くなった。この流れは過去のアジアの国々に対してだけではない、女たちにも、福島にも、沖縄にも、海外からの留学生、技術研修生たちにも同じ仕打ちをしているように思う。

この本は「水牛の本棚」で公開されていて、読めるので、ぜひたくさんの人に読まれてほしい。



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