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校長7年目にして遅刻をしないと決めた理由

私は昔から遅刻魔であった。
「基本的に理絵は遅れる」と皆の寛大な想定内で許されるほど、例外に漏れることなく、必ず時間には遅れた。わざと遅れた事は一度も無い。遅れようと思って遅れているわけでもない。

高校時代は朝なかなか起きれず、いつも遅刻か遅刻ギリギリに滑り込んでいた。いつも私と一緒に学校に行ってくれていた私の親友は、毎日毎日私のせいで遅刻かギリギリのダッシュをしなければならないにも関わらず、私を見放さず3年間それに付き合ってくれた。

高校は長い坂道をずっと上って行った頂上の小丘にあって、朝は時間が限られているにも関わらず、ずっと立ちこぎで上り坂を上るという大変厳しいものであった。

チャイムと同時に毎朝校門は閉められた。そして校門の外に立ち往生となった生徒たちはそこで先ず叱られ、職員室で反省文を書かされる時もあった。恐らく私は優に100枚ぐらい反省文を書いたのではなかろうか。

基本的に他人のアドバイスを聞いても、最後は自分で決める性格で、自分に落ち度があると気づいた時には反省し、変わろうと昔から自分なりに努力はしてきたが、この「遅刻」だけはどうしても治らなかった。

一応半世紀近く生きてきている私であるから、もう少し人間として進歩があっても良いと思うのだが、どうしてもこれだけは自分で直せなかった。

社会的に地位が高い方々ともお会いさせて頂く機会が今までもあったのだが、コーデイネートして下さった方々に心臓が悪くなる経験を何度もさせた。(反省)

現在学校の校長という立場を長くさせてもらっているが、今までは何年間も生徒と一緒に最後のダッシュをする校長であった。従って私の口からは決して「時間を守ろう」なんて言う言葉は出せないので、いつも副校長先生がその役を担ってくれていた。(反省)

しかし、その私に転機が訪れた。

開校から今年で12年間苦楽を共にしてきた先生の一人が、年老いた御父上の面倒を田舎で見る為に学校を辞する事を決定された。学校側は何度も説得をしたが、彼の意志は固かった。

彼のお別れ会で様々なエピソードが飛び交った。私の相方である理事長は、学校がまだ建設途中である時から、「この学校で働かせて欲しい」と熱心に他県から何度も電話してきたその先生の思い出話をした。私は体育祭で彼が雨が降らないお祈りをしてくれたエピソード(詳しい内容はこちらのリンクから読んでみて下さい。https://ryugaku.myedu.jp/edit/rk/rk13.html)を他の先生方に紹介した。他の先生方の彼へのメッセージやエピソードを聞いていく中で、私が’今まで思っていた以上に、彼が如何に実直で、誠実で、学校の為に一生懸命尽くしてくれていたかが手に取る様に分かった。

何人もの若い先生が、彼が学校に早く来て、校舎前の駐車場で遅れる先生方に「ペルキルの先生なら遅れない」とか、職員室で「ペルキルの先生ならそれはしない」等、注意喚起を常にしてくれていたと言う。

ブータンの場合、口が上手く、アプローチ上手な方々が評価される場合が非常に高く、自分の同僚や、後輩に対してでも、その人が聞きたくない事にあまり触れないのが人間関係を良好に保つコツとされている。ただそれが職場となると、プロ意識とは非常にかけ離れた現場となりがちで、なあなあの関係に陥り、組織として全く進歩がない状況となる。彼は、自分が嫌われてでも、学校の為に言う必要があると判断して、同僚が聞きたくない事を何年間も言い続けてきたのである。そして自分の老親を見ると決意して、自分のキャリアを捨てた。

私は生まれて初めて「遅刻する自分が恥ずかしい」と思った。何をやっているんだろう、私は。

お別れ会の夜、彼に自分の感謝を示す意味で「私はこれから学校に遅れない」と、自分に誓った。

そして、本当にそれから学校に遅れなくなった。最近先生方の出勤時間を早めたのだけれども、自分自身全く問題が無くなった。

結局は自分の決意の問題だったのである。学生時代からいくら怒られても直らなかった遅刻癖は、ドルジ先生の学校への想いが理解出来た時に一夜で直った。私は彼には一生感謝してもしきれない想いがある。私の半世紀に及ぶ「遅刻癖」を一夜で直したのだから。

今は村で毎日お祈りを捧げながら、静かな日常を過ごしているのだろうか。次女と二人で車のボンネットにもたれて星空を眺めながら、今夜そんな事を考えていた。


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