私はこんなに怒っている
久々のnote。久々に自分の中の「怒り」を感じて、身体が熱くなっているので、その熱いテンションのままPCに向かって、うずきのままに文章にしてみようと思う。
5歳の息子が通っている公文の先生に、私の怒りをぶつけてしまった。いや、正確に言うと、怒りをぶつけたのではなく、怒りを感じた状態で話をしたものだから、いつもより語気が強くなってしまった、という程度。
公文の先生と1対1での面談があった。そこでのこと。
先に出しておくと、先生は何も悪くなく、先生と話をする中で、私の中にある何かが反応して、怒りを感じた、という話。
公文の先生との面談で火がついた
「学ぶことが楽しくなる」「一人一人に合わせた学習」というところがいいなと思って息子を公文に通わせるようにした。体験教室に行った時の息子もとても楽しそうにしていた。しばらくは息子も楽しそうに通っていたし、毎日の宿題も楽しんでいた。公文の学ぶシステムは良くできていると思う。でも次第に、「公文嫌だ」「宿題嫌だ」というようになり、「ここまでさせて5歳児に勉強させるのもどうなの?」という疑問を持ちながら、先生との面談の場に向かった。
(ちなみに、息子が公文嫌だ、宿題嫌だ、というのは、公文の教え方が悪いのではなく、私の関わりに工夫の余地があるということ。公文自体は良く考え抜かれた素晴らしいシステムだと思うし、このスタイルに合う子はどんどん楽しく学べると思う)
先生は、真摯に私の話を聞いてくださった上で、どのようにしたら学びが楽しくなるか、工夫の仕方など、具体的なアドバイスもくれた。経験豊富で、子ども達への思いも熱く、先生の話は参考にしたいことばかりだった。途中までは順調な面談だった。
が、話が「マスク着用」に及んだ時に、私の中の何かに火がついた。
息子が公文の教室に行きたがらない理由の一つとして、「教室で、マスクをつけたままたくさんお話するのが苦しい」があった。保育園でも、年長になり、小学校でのマスク生活に慣れるため&感染予防のため、身体を動かす遊びの時間とお昼寝の時間以外はマスクという生活が最近始まったところ。
そりゃあそうだよね。マスク苦しいよね。マスク取りたいよね。
私はそちらの気持ちに寄り添ってしまう。
「コロナの感染予防のために必要なんだよ。自分のためにも、みんなのためにも、マスクは大切なんだよ。」
それはわかっている。わかっているけど・・・。
マスク着用が身体に及ぼす悪影響だけではなく、他者とのコミュニケーションや関係性を育む上でもネガティブな影響があることに、私はとても悲しい気持ちになる。
常に顔の半分が隠れている状態。
それが、まだ、こんな小さな子供のうちから、当たり前のように着用しないといけないなんて・・・。
公文の先生も、「小学校に行ったらそれが当たり前になるので、今のうちから慣れておいた方がいいですよね。」と言った。多分、何の気なしに言った一言だし、まぁ、世間的社会的には、当たり前の考え方なんだろう。先生は何も悪くない。
でもそれに私は「カチン」ときた。
同調圧力、当たり前、みんながやってるから、ということへの違和感
これ以上書くと、「公文」に申訳ない。「公文」は何も悪くないのだ。
私が怒っているのは、「公文」でも「公文の先生」でもない。
そして、マスク着用に文句があるわけでもない。家族全員がコロナに罹患し、感染の怖さも知っている。少しでも感染予防になるのであれば、着用も無駄ではない。わかっている。
公文とかマスクとか、個別具体的な対象に怒っているのではない。
この考え方が、本当に、本当に、嫌。悲しくなる。切なくなる。
最近も、「小学校に上がるために、ランドセルをそろそろ買わないと(ラン活というらしい)、在庫がなくなるかもしれないよ」という情報を母からに入手し、そろそろランドセルを買わないといけないなぁ・・・なんて思ってる。
けれども、「ランドセル」って必要??なんで、みんなが揃って「ランドセル」を持たないといけないの?リュックじゃダメなの?
っていう、ヤンキーな私が出てくる。
うん、わかってる。ランドセルが機能的にも優れていて、小学生がランドセルを持つことが良しとされるしかるべき理由がたくさんあることも。そして、ランドセルを作るたくさんの産業がその仕組みによって支えられていることも。
でもさ、「それが常識だから同じようにする」っていうの、もう、ほんと、どうでもいくないですかーーーーーーー??????
って、叫びたくなる私がいる。
そこに、一人一人の子供の気持ちや、それぞれの親の気持ちがちゃんとあって、「うちは色々考えたけど、やっぱりランドセルがいいんです。」ならいいのですよ。
そして、何も疑問を持たずに、3食のご飯食べると同じくらいの考え方で、全く疑問を持たず、小学校に上がるからランドセル買う、というのもまだいい。
でも、もし、「本当にランドセルって必要なの?うちの子はランドセル嫌がってるし、私もランドセル必要ないって思ってるんです。」っていう人が、それでもランドセルを買う理由が、「一人だけ違うと浮いちゃうから。いじめられたらかわいそうだから」という理由なら、それって、ものすごく切ないなと思う。
という私も、きっと、ここの部類に入るのだろう。ランドセル、買うのだと思う。大切な息子が、ランドセルじゃなくて、1人違う鞄をもっていることで、いじめられるくらいだったら、ランドセルを持たせてあげたい。それが親心なんだということも、1人の親として、よくよくわかる。
問題は、そういうふうになってしまった、社会?日本?のシステムなんだと思う。
まぁ、これについては、私は評論家でも専門家でもないので、この場所で語ることは今回はやめておく。
社会や日本のシステムについての怒り、そのもっと奥を掘っていくと・・・
をやり続けていた過去の自分に対して、私は、怒ってるのだと気がついた。
「みんなと一緒」を切望していた過去の私
何を隠そう。ここまで散々書いておいて何なんだが、私は昔、「みんなと一緒がいい」をずーっと目指していた。
詳しく綴ったnoteがあるので、リンクをここに貼っておく。
元々は、結構自分をしっかり持っていて、クラスでも目立つポジションだった私。でも、目立っていたことで仲間外れにされた経験もあったことと、父が転勤族だった関係で、転校生経験が重なり、その場になじめるように、その環境での「フツウのポジション」はどこなのかにアンテナを張り巡らして、目立ちすぎないように、浮かないように、気を付けるようになっていった。
そして、本来であれば、自我に芽生えて、親に反抗心が出てくるはずの「反抗期」も迎えることなく、そのまま大人になってしまった。
元々はしっかり自我を持っていた私が、「周囲に合わせる」を自分のデフォルトにしてしまったことで、おきざりになってしまったその自我は、何十年もかけて蓋をされて、たまに爆発してはまた蓋をして、扱い方をわからないまま30代を迎えていた。
その後、カウンセリングやコーチング等を通じて、少しずつ自分を取り戻し、ようやく「自分はこうしたい」がわかるようになった。遅すぎる反抗期も迎えることができた。
このnoteを読んでいただくと分かると思うが、私はむしろ、大勢にそまりたくない、もしろ、はみ出したい、出る杭になりたいタイプかもしれない。「自分」をしっかり持っていたいし、それを表現したい人だ。
なんてことない、実は、
という言葉は、私にとっては、何十年も自分の頭の中に同居していた、大切な相棒だった。しかも「周囲とすぐなじめる」「協調性がある」「親しみやすい」という周りからの誉め言葉も一緒についてくるものだから、この相棒さんも、なかなか離れたがらずに、すっかり居座ってしまった感じだ(コーチング用語で、”サボタージュ”とも言う)。
今もこの相棒さんの残り香を自分の中に感じることもある。
完全に追い出す必要はないのかもしれない。この考え方が役に立つこともある。
でも、この考え方を持っている人、あまりにも多くないか??特に日本人。
国民性もあるんだろう。
だけど、もう、そろそろ、「みんな」とか、「普通」とか、「世間体」みたいな考え方、少しずつ、手放していってもいいのじゃないかな?
「周囲から浮かないように」を動機にしている限り、本当の個性は出てこない。没個性の集団なんて、全然面白くない。
怒りの奥には願いがある
公文の先生とランドセル案件があったことで、社会・日本のシステムについて、そして、過去の自分に対して怒っている私、それに気がつくことができた。ありがとう公文、ありがとうランドセル。
怒りは2次感情と言われる。その奥には、不安、悲しみ、寂しいなどの1次感情が眠っている。
そして、その1次感情の裏には、「本当の自分の願い」がある。
私はの怒りの奥には、
がある。
そしてその悲しみの裏には
という願いがある。ということにあらためてたどり着いた。
個性を出した個人個人が、その異なる個性を前提にした上で、どうやって手
を取り、調和をし、シナジーを起こしていくのか。
私はそれが見たいし、その世界に身を置きたいと切望している。
少しずつ、少しずつ、世の中はそちらの方に舵を切り始めている。そういう予感を感じて、ワクワクしている。
白か黒かではなく、きっと今はグレーの期間なんだろう。移行期間。
昭和→平成→令和→??
「そういえば、昔、ポケベルってあったよねー」
「ファミコン懐かしい~ドラクエやりたーい」
そんな感じで昭和の時代が過去になっていくように、いつか
「みんながマスクしていた時があったよねー」
「小学校ではみんなランドセル背負ってたことがあったよねー」
という未来もやってくるかもしれない。
それを願いながら、また、日常に戻って、黒から白への移行期間も体験しながら、そこに喜怒哀楽を感じながら、毎日を味わう私でいよう。
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