散文ー報復と許しについて



最近、時々タイムラインでこのような主旨のポストを見る機会がたびたびあった。
誰の描いた漫画の切り取りかわからなかったのでRPしなかったが、今回検索してみてこちらで引用元が明示されていたので散文を書くことにした。

https://nlab.itmedia.co.jp/nl/amp/1805/02/news101.html

漫画『猫のお寺の知恩さん』(オジロマコト)からの1シーンと書かれている。内容はこうだ。
「どんな良い人間でも、きちんとがんばっていれば だれかの物語では悪役になる」という2コマ。

もちろん前提として、理不尽な仕打ちをされた時、つまり侵害を受けたとき、当然法的に調停や訴訟を検討・実行することや警察に相談することはこの日本という国では権利が認められている。だからそういう件についてまでこの論理を持ち込もうとしているわけではないことを事前に明記したいと思う。

ずっと考えている。大抵の人間と同じく、私も地道に、なんとか誠実にきちんとがんばりたいということを心がけて、人生を今日ここまで紡いできた。
私の人生を正しいものにしようとすればするほど、誰かの人生では悪役になる。あるいは悪に変換される。正しいことを言おうとすること、しようとすることは、誰かにとっての何かを阻んだり邪魔になることなのだと思う。あるいは相手の価値観によって、私の価値観を否定される場合もある。その時、「どちらが正義か」を何らかの力でねじ伏せようとしたとして、それはもう、「正義から逸脱を始めているのではないか?」という可能性を、ちゃんと思考が行き届く人間でありたいと思う。

いわゆる民事に関わることやいざこざ、トラブル、行き違い、価値観の不一致、相互理解の破綻などについての話をしたいと思っている。そういう禍根は、長らく当事者の互いの関係を蝕み、片方が片方を違法でない程度に嫌がらせしたり、そうとならなくともジメジメした悪口陰口の応酬となることがまま起こり得る。それもまた、「誰かにとっての悪役になること」であり、立ち位置の良いところからの自らを潔白さを主張することは、正義の刃という凶器あるいは狂気で他者を傷つけていく、いわば正義からかけ離れた自分自身を顧みなくてはならないと考えている。

罪、とは何か。
清廉潔白と信じている人間は危うさを孕んでいる。危ういのでなく、危うさを孕んでいるるという言い方が事実に近いように思う。
正義があっても私刑(リンチ)や報復を行うことは、自身の正義を汚しても守りたいものやいのちがあるからだという、「自らの手を汚す」感覚を自覚していることが人間にはーーひいては表現者である詩人には、必要なのではないだろうかと、最近考えている。

寛容性について考えている。私はバカのつく生真面目なところがあったり、同様な正直者の側面が強いらしいということは長年の友人たちから一様に指摘されている。どちらかと言うと理系思考なので、会計などは割り勘が「普通の感覚」である。奢られたり奢ったりすることは、対等な人間関係を侵害する可能性がある危惧について認識している側なので、大きな金額を甘えることには抵抗があるし、一方的負担を与えられることにも抵抗がある。ギブアンドテイクがベースだが、それをかっきりきっちりやることは人間付き合いにおいて角が立ちやすい。だから歳を重ねていくにあたって、そのあたりのキッチリ感を少しでも緩くしなくてなるまいと勉強してきた。

その一方で、許しというところでの融通の利かなさも性格上感じており、それは他者にとって憎悪や攻撃対象や敵認定の要素になり得るだろう。
それは自分にとって正しいことを地道にやってきても、誰かにとっては敵であるのだ。

詩作していくにあたって、人を包み込む詩を書くには、潔癖ではいられない、ということを近年感じている。どういうことかというと「清濁を併せ呑む感性」と「他者への寛容性」「自分への許容性」を『生きるとは何か』『罪とは何か』そんな観点から考えていくことが必要なのだはないかと思っている。

今回のこの散文はスクショで全文をタイムラインに流したいくらいだが、一旦noteに収納してリンクを公開することで一旦私の中の整理と成長として書き出したいと思う。

ああ、結局何を言いたいのが分からなかった、という人も当然いると思う。
白黒はっきりつけること、0か100かしかできなかった私がここまでグレーグラデーションのことを書くようになったということ自体が、成長だと思っている。なので、結局白のことか黒のことかよく分からないな、という印象は的確だと思う。


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