見出し画像

当事者性の消費について

先日、自分の感知しないところで自分自身の経験が「事例」として扱われていることを間接的に知る機会があった。
わたしの(文字通り)人生をかけたケア経験が、「Aさんの場合…、Bさんの場合…」などと話されているのを知ると、正直複雑な気持ちになる。

ヤングケアラーや若者ケアラー当事者の中に研究者や支援者を嫌厭する人が一定数いるのは、こういった「自分を研究対象、調査対象、支援対象として見られることへの居心地の悪さ」も関係しているかと思う。

わたしが実名で自分のケア経験を語るのは、実はこのことも理由の一つになっている。わたし自身の経験を、匿名のだれかの経験として社会に消費されたくない。そんな気持ちが、この活動を始めた頃からわりと強くあった。

心ある先輩は、「利用されないようにね」と言う。

自分の経験の資本は自分の中にしかないのだから、それを話すことは消耗することとも言える。
まさに「身を削る」思いで話すこともあるし、そうしたほうが人の心をより動かせるような錯覚も得られる。

この2年ほどで急速なヤングケアラーブームが巻き起こり、わたし自身、時によっては自分を消費されている実感も体感もあった。
実際に一度わたしの話を聴いた方やマスコミはもう次は聞く必要もないと大抵思うだろう。もっと別の人の話を。もっと違うパターンの事例を。より過酷な経験を。尽きることなく追求し、ブームが去れば興味も失われる。消費とはそういうものだと思う。

じゃあなんでこの活動をしているのか。
それは紛れもなく、過去の自分がそうだったように、家の中で、家族のそばで、自分の人生の理想と現実の狭間で苦しみながらケアをしている人のなにかしらの安らぎにつながってほしい、という強い思いがあるからだ。

実名で発信をするのもそのため。
「ヤングケアラー」という言葉が広まって、初めて自分がしていることを表す共通の記号をもてたように、万が一わたしと同じ思いの人がいたら、わたしの発信にアクセスしてもらいやすくするため。ただそれだけのため。それ以上でもそれ以下でもない。

ましてや、今まで素通りしてきた大人たちに自分がやってきたことを知ってもらうためでも、目立つためでも、個人の研究を深めてもらうためでもなんでもない。

自分の経験は自分だけのもの。自分の言葉も自分だけのもの。
その気持ちを強くもたなければ、容易く消費されてしまう。
いちばん言葉を届けたい人を見失ってはいけない。年の瀬に、そんなふうに考える。

#ヤングケアラー #若者ケアラー
#ヤングケアラー支援
#ヤングケアラーわたしの語り

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?