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日記『文字と私』

自分は元来「文字」というものが好きな人間なのだと思う。小さい頃、あまり読書が好きではなくどちらかというと外で遊ぶことの多かった兄と比べ、よく一人で読書をしていた私に周りの大人たちが「たくさん本を読んで偉いね」と言ってくれたのが原因なのかもしれないし、ただ本を手に取る機会が多い環境を与えられたせいかもしれない。小学校の時には様々なファンタジー作品やホラー作品を図書館で大量に借りては読んでを繰り返していた。今となってはあまりに稚拙で目も当てられないが、10歳前後にして創作を書いてはインターネット上に掲載して、ネット上の友達を作っていた記憶がある。

小学校高学年に初めて出会ったハリーポッターシリーズをきっかけに映画というものが好きになるようになり、それからアニメや漫画、そして今ではYouTube配信を暇さえあれば視聴している。小学校の時に比べれば本に費やしていた時間の数割はこのような映像作品に割くようになった。一方で、それまでいわゆる紙媒体の、出版社が出版した創作作品ばかりを見ていたのが、個人による創作物、エッセイ、口頭で話したものを文字起こししたもの、論文、考察文…など「文章」として私が咀嚼するものはより多様になっていった。紙の本こそ読む時間は幼少期より減ったものの、「他人が書いた」ものを読む量は増えたとさえ言えるのかもしれない。文章から他人の思考や感情を覗き見るのが好きなのだろうと思う。

今世間の学生は夏休みの期間であるが、私は小学校6年間毎年必ず読書感想文を作成していた。私の通っていた学校は読書感想文や感想画、工作はいわば選択制の課題で、これらのうちどれかを作成すればよかったような気がする。読書感想文は学生たちがよくどのように書けばいいのかわからないということで嫌煙される課題の一つだと言われることもあるが、少なくとも私は好きな課題の一つだった。その作品がどのような作品で、作者の文章から自分はどのようなことを見出し、価値としたのか、自分がどのようなことを感じたのか、これらのことを文章化するのに正解はないからだ。国語の授業では文章を読む感性は人それぞれなのに答えはなぜか一つしかないことへ曖昧な不快感を覚えていた私にとって、何を書いても良い、何を感じ取っても良い空間は一種の自由の場であった。好きに書いた文章が何度か賞をもらい、周りの人間に褒められるといったことも文章を書くことへの肯定感を助長させることになったのだと思う。自分で好き勝手に書くのが好きだと言いつつも、所詮他人からの評価が気になってしまうものである。

「脳で浮かんだ言葉を、より理想的に伝える為に」文章を書くのだと、私の好きな文章を書く人が以前言っていた。その通りだと思う。自分の脳内をより正確に、分かりやすく、自分が好きな言葉選びで伝えたい。その一方で、全てを言葉にすることで野暮ったくなってしまうような気がして適当な言葉で誤魔化すなんて時もある。自分が感じたものを完全に表現するのに、言葉たちをただ折り重ねていくのはあまりに陳腐にも感じるのだ。だからいっそのことエモいだとか尊いだとか曖昧な言葉でぼかしていく。この相反するように思えるこれらの考えが、私の中で共存している。私にとって文字は自由な存在で、どのような言葉にも意味があるのだと信じている。

2021/08/26