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日記『不一致、もしくは』

高校時代、仲の良かった後輩が恋人と別れた時に何が原因だったのか聞いてみると「性格の不一致」だと答えたのがいまだになんとなく印象に残っている。当時は特に何も考えずに笑っていたが、最近この「不一致」についてよく考える。

進学と共に都会に出て、一人暮らしをはじめてもうすぐ5年目になる。学生時代はそんなに深刻に捉えていなかったが、今思い返すと学生時代過ごした田舎町はとても小さな世界だったと感じざるを得ない。田舎に長い間住んだことのある人間にしかわからない、独特な閉塞感。どこへ出かけても自分や自分の親族の知り合いがいて、あちらこちらで知らぬ間に自分に関する噂話が立っている、誰が何をしてどこにいるのかを常に気にしていなければならない、そんな空間だ。もちろんそう感じない人も多くいると思うし、個人差は地域差はあるだろうが、私にとっての地元はそんな空気感を持つ土地なのだ。

地元が嫌いなわけではない。長期休暇があると度々帰省はしているし、両親や地元の友人たちとも連絡はとる。しかしあの土地に戻ってあの空気を感じるために、私のための土地ではないな、と再確認するのだ。人間関係、ご近所付き合い、結婚、子育て、仕事…。あの世界の中で、人々の思う「真っ当な」生き方は私にはできない。

大学に入学して以降、それまでになんとなくモヤモヤしていたことを言語化できるようジェンダーを中心に様々なことを学んできた。それに伴って自分の中で不快感や違和感を示すものが増えていって、それが日常に侵食しつつある。久しぶりに友人と話す機会があって、それ以前は笑って楽しく話せていたように思えることが純粋な気持ちで聞いていられない。自分の人生なのに他人の人生のために生きているような人、自主的に学ぼうという精神がなく人の手助けを待っているような人、自分の価値観が絶対的なものだと信じてそれを押し付けてくる人。言い出したらキリがない。

根本的な価値観が少しずつずれていっているのだと思う。私は自分の人生は自分の好きなことして自分のために生きたいし、そのためにも学問は自分の人生のお供のような存在だと思っている。これは私の価値観なのでこれを人に押し付けるようなことは極力しないように心がけてはいるが、自分の価値観と相反する価値観の人に遭遇するとどうしたら良いのかわからなくなる。それが旧友だったり、長年知ったような人なら尚更だ。「どうして結婚しないのか」「なぜ就職せずに研究を続けるのか」「どうして地元に帰ってこないのか」このような質問が、悪意なくぶつけられる毎日に、何もかも無かったことにして隔絶した日々を過ごしたいとさえ考える日もある。

旧友たちと少しずつずれていく価値観。知らないふりして気づかないふりして笑顔で肯定し続けるほど私は「大人に」馬鹿になれないらしいし、きっぱりと切り捨てられるほど合理的な人間でもないらしい。価値観は多様なものだなんて語っておきながら、自分の容認できない価値観には不寛容な自分がいる。

感性の似たような人としか友人関係が深められる訳ではない、はずである。感性の不一致、価値観の不一致。自分の価値観にとって許容し難いものであっても、黙って頷くのが「大人」なのだろうか。そうだとしたら私の大人への道のりはまだまだ遠く、一歩踏み出すのも億劫になりそうだ。

2021/9/24