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「中途半端に寄り添う」 2024/02/13

この世界のどのくらいの割合の人が自己を表現する言葉に違和感を覚えることなど全くなく過ごしているのだろう。英語圏ではSNSに自分のPronounsを書くこともある。私も実際、Instagramには自分のPronounsを書いているけれど、日本語で暮らしているとそういった表明をすることはほとんどなく、日々の中でちょっとしたズレを感じながら過ごすことになる。名詞も形容詞も自己の、または他者のアイデンティティを表現する際に使われる言葉たちだ。「〇〇な女」「〇〇な人」そういった言葉たち。時に名詞となって、時に形容詞となって、そのズレは私の自己意識を刺激する。「そうではない自分」「そうなりきれない自分」がそこにはいて、中途半端な自分がただその言葉の上で宙ぶらりんになっている感覚を、否応にも突きつけられる。

久しぶりに大好きだと思える漫画に出会った。この作品を読んだから、この言葉を書きたいと思った。PEYO先生の『ボーイミーツマリア』。本当に良い作品でした。

ヒーローになることを目指し、俳優を夢見る主人公はある日、演劇部の公演で青いドレスを着た綺麗な部員「マリア」を見かけて一目惚れをする。マリアに告白をして玉砕したものの、マリアを追いかけ続ける主人公に、マリアは自分が「男」であることを告げる──というところから始まる物語。

「こうでなければいけない」という義務感に苛まれながら生きている人も少なくないんだと思う。もちろんそういった思い込みなのか社会的圧力なのかよくわからない「こうでなければいけない」に打ち勝っている人もいると思うけれど、何かしらの義務感を意識しながら生きている人が多いのではないか?物語はそういった義務感に対して「〇〇じゃないとだめなのか?」と問いかける。自分のように宙ぶらりんの、日常で違和感を覚えるような人々へそっと寄り添ってくれる。

男が男をスキになるのも、男が女の服を着ざるを得ないのも、人と違うから、ヘンだからだめ…そんな世界じゃあ、あいつが立っていられなくて当たり前だよな

『ボーイミーツマリア』

世間で「普通」とされるものは、ある特定の人々によって作られた「普通」であって、その「普通」から外れる人々は排除されていく。主人公はそのような世界に純粋に疑問を投げかけ、周りの人たちは狼狽える。無意識的にその「普通」の中で疑問なく生きていて(もしくは疑問なくこれまで生きることができていて、の方が表現として正しいかもしれない)、それが「普通」だと信じている人たち。「マリア」が立ち上がろうとするのを押さえつけていた人たち。私がこれまで諦めから来る少しの羨望の眼差しを注いでいた人たち。そんな彼らが狼狽えている姿に、なんだかグッとくるところがあった。

こういった違和感を覚えた経験のある人へ。
その違和感のせいで自分は人生の王道から外れてしまったのだと感じた経験のある人はどのくらいいるだろう。よくある例えだけれど、人生が1本のレールだとして、それらの言葉が一つ一つ小石となってレールに置かれていく。そしていつしかそのレールの上に居られなくなってしまう感覚。
全ての人が感じたことがあるはずだ、と主語を大きくする訳にはいかない。けれど私には明確にある。「ああ、もう『普通』の人生は歩めなさそうだな」と。

「こんなにくっついてたら、ほもだってバカにされるかな?」
「オカマ野郎って陰で笑われるかもな でも僕もお前も、スポットライトを浴びちゃいけない理由はないよな」

『ボーイミーツマリア』

それでも「私たち」がスポットライトを浴びちゃいけない理由にはならない、らしい。彼らはそう訴える。あまりに眩しく感じた。その眩しさに慣れるにはまだ少し時間がかかりそうだ。

最後に。他作品も気になってふと調べてみて、PEYO先生の訃報を知りました。あまりに残念。こんなにも優しい物語を描く方に、出会えることなんて中々ないだけに、本当に悲しい気持ちでいっぱいです。
ご冥福をお祈りいたします。

2024/02/13