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今日も脆い家の中で。

初めての投稿でこんなネガティヴな内容?ってかんじだけど。

私は21歳の大学生。大学では哲学を専攻している。
哲学は心地良い。知識だけじゃない、私に、社会に、どのように生きるべきかを説に訴えかけてくる。
どうでもいい日常も何か考えるきっかけが溢れていることを教えてくれた。

この哲学を専攻した私の事情は後々語るとして。

私は誰かの力になることが好きだ。


それは何か力になることで返ってくるかもしれないという下心2割、その人の生き生きした瞳を見たいという理由7割、仲良くなりたいという幼稚心1割。
これはどうやら幼い頃から持っている私の特性らしい。
幼稚園の時には、お家に帰りたくないと泣き喚く同級生のバスに慰めるために一緒に乗ったり、小学4年生の時には通学路の側溝にハマった下級生を引っ張り上げ、その子のランドセルまで背負って学校にいった。高校生では体育祭でずっこけた先輩が走り終えると同時に消毒液を持って駆け寄る。
私は「誰かの力に・助けに」と思うとどうやらすぐに動いてしまうタチらしい。
でもきっと、根底には仲良くしたいだとか、下心があるんだろうと思うと自分に反吐が出る。

そんな私の周りでの流行りというか忙しない話題は「就活」だ。
これがハッピーな「終活」ならどんなにいいものかと思うくらい、忙しなく友人たちはESに追われている。
当の私はというと、大学院進学に向けて就活はご遠慮させていただいている状況だ。
誰にでも降りかかるであろう、学生の終了がこんなにも目前に迫っていたとは、友人の存在無しには気づくことができなかっただろう。

この終了を気づかせてくれたのは、友人が大泣きしながらESが通らないこと、就活戦友が敵だったことを話してくれたことだ。
イエスキリストは敵を愛せなどといったそうだが、今だけは愛せなさそうだ。
今まで三色そぼろ弁当のように話題が多かった話もその日から友人たちの中心は就活の話題一色になった。
どうにかしてあげられないものか、その一心で彼女のいいところを話したりESの添削を手伝った。

だけどESを出したこともない私に何を言われても響かないだろうと、自分には根拠になるものがないことを悟った。
私は必死にESを書いて提出した。
その結果わかったことがある。ESで悩んでいた友人の語彙力の凄さや、彼女自身の魅力、志望動機に関連する彼女の過去の壮絶さ。

誰かの何かになりたいと思って始めたさまざまなことで度々気付かされる。


その人は過去の積み重ねを”どのように”形にするのかを悩んでいたり、その積み重ねが”なぜ”掬い上げてもらえないのかとの他者との葛藤に悩んでいるのあって、土台を作ろうとしているのではないことに。
誰かのためを思ってやっていたことで自分の脆さに


土台から探そうとする私にはそりゃ何もないわけだ。
いつもいつも土台を積み重ねようとして違う土地に違う基礎工事をしようとして
すっ飛ばして家を建てる突貫工事。建築期間たった数日。すぐに崩れてしまう。

一体今まで幾つの家を突貫工事し、壊してきたのだろう。
そして今日も私は友人のESに突貫工事した就活という家の中で向き合う。
私は一体いつ家を点検して、問題点を改善し、土台を作ることができるのだろうか。

私は今日も誰かの何かになろうとして、自分の脆さに気づけないままだ



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