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クロノシスタスを操る名演。栗原麻樹ピアノ・リサイタル

栗原麻樹ピアノリサイタル

満を持しての東京文化会館

2023年5月23日東京文化会館小ホールにて栗原麻樹ピアノ・リサイタルが催された。

栗原麻樹と言えば、15歳でフランスに渡りコンセルヴァトールに首席入学し12年間フランスで学び、国際コンクールでも二回の優勝を果たしている日本を代表するピアニストである。

栗原麻樹コンサートチラシ表
栗原麻樹コンサートチラシ裏

プログラムが魅せる美

〜ラフマニノフ生誕150年、プーランク没後60年に寄せて〜と冠されたコンサートでは、プーランク二作品、ラフマニノフが二作品が演奏された。

コンサートは2部構成。前半には、プーランクのノベレッティ、ナポリ、ラフマニノフの幻想的小品集より三曲を抜粋して演奏された。3楽章、3楽章、3曲と演奏されることにより、徐々に徐々に彼女が魅せる音楽の様式美や色彩に、そこにいる全てが深く埋没し心と精神が酔わされ、現実から遠ざかっていく。

そして、休憩を挟み、ラフマニノフの『楽興の時』の全楽章の名演。その全ての演奏を終えた彼女は、大きな偉業を成し遂げたエネルギーに満ちていた。

フランシス・プーランク「3つのノベレッティ」

タイトルのノベレッティは短篇小説の意味を指し、シューマンの8つのノベレッティを倣ったものである。

栗原麻樹は、フランスでプーランクの唯一の弟子にあたるガブリエル・タッキーノに師事しており、プーランクの演奏や解釈において真っ当にその系譜を受け継いでいる数少ない日本人の1人である。

プーランクは近しい家族や友人に向けてたくさんの曲を作曲しているが、この3楽章もそれぞれ彼自身の知人に捧げられている。どの曲も愛らしく、それでいて忘れられない苦味のようなものがあるのは、人がもつ癖を他者が愛してみているような感覚なのかもしれない。

2023年1月29日、栗原麻樹さんの師であるガブリエル・タッキーノがこの世を去った。プーランクを演奏している、どの瞬間の彼女も、愛情と敬意と悲哀に満ち、凛とした私的な愛情を真っ当にフランス音楽の様式に当てはめていた。

第一楽章はハ長調。真っ白な光の中で、あまりに柔らかなほぐれた心でメロディが奏でられていく。例えば人生に忘れられない素敵な時間があって、それを閉じ込めていられる箱があって、その箱を内緒で我々に見せてくれたかのような儚い幸せの香りがした。

二楽章は変ロ短調、まるで推理小説の短編のようにシニカルで小気味がよいリズムの楽曲だ。一楽章の終止からの、二楽章への移り変わりが鮮やかで素晴らしいのに、どこかページを捲るような潔さも感じ取れた。フランス人が議論自体を楽しむような知的な遊びを感じた。

三楽章はプーランクの残した最後のピアノ独奏曲である。プーランク自身の人生や彼の関わってきたすべての愛に深く祈りを捧げているような慈愛に満ちた楽曲のように感じた。人の人生は短く、消えてしまうともとには戻ることができない。それでも、彼女のような音楽家がいれば、プーランクもガブリエル・タッキーノもコンサートホールのその瞬間は受け継がれていけるのかもしれない。東京文化会館が静かに涙を流していた。

フランシス・プーランク「ナポリ」

その作風の広さから「修道僧と悪童が同居している」と形容されるプーランク。このコンサートのプログラムにおいては、私的な短篇小説の次は、“イタリアナポリへの旅と空想“である。
プーランクは作曲についても人生についても悩みつづけ、勉強しつづけ、固定されないたくさんの様式で珠玉のピアノ小品を数多く残している。

一楽章と二楽章が先に作曲され、イタリア奇想曲が追加され三楽章形式になった。

一楽章「舟唄」
言わずもがな、イタリア・ヴェネツィアのゴンドラの船頭が船を漕ぎながら歌っていた唄をさしている。芸術の素晴らしいところは、自身では行ったことがない国や時代に連れて行ってくれるところだと思うが、このフランスからイタリアへの旅はあまりに“音楽“だった。

音楽は頻繁に乗り物に例えられる。歩きであり、バスであり、車であり、舟である。それは時間芸術の止まらない歩みと、歴史の動きと、変わらない何かを模しているように思う。

クラシックが演奏されるコンサートホールは、唯一音楽が音楽のまま演奏される日々の雑音や労働が消えていく場所であり、その空間においてどう音と反響と聴衆をコントロールするかが、コンサートピアニストの手腕であると考える。

栗原麻樹はその能力と、感覚に、世界的にも稀なくらい秀でている。ナポリへの旅から、観客は栗原麻樹の奏でる音の舟唄に飲み込まれ始めた。

残響は時計の秒針のように、ピアノの構造上、舞台上手から客席上手、下手、そして舞台の上手へと、3秒ほどの時差を持ちながら回転していく。
その反響のスピードと、回転のスピード、もっというならピアノからフォルテにかけての範疇を超えた全てを、船頭としてコントロールしていた。

二楽章「夜想曲」
夜であり、夜は自由であり、夜に終わりがなく、空想には限りがない。

この演奏会においてのピアニスト栗原麻樹の大きな変化は、楽器としてのピアノの音域ごとの奏法の丁寧な棲み分けにあると感じた。
弦の一つ一つの太さや、鳴りの違いを、その音域ごとに弾きわけながら、全く別のスピードで客席に伝えるのである。それは、同時に別の種類の風が優しく頬をなで、耳をくすぐり、やがて無音の、のちに朝を感じる。こんなことが成し得て良いのであろうか。

そして「イタリア奇想曲」である。

栗原麻樹はテクニックに妥協がない。

それでも、珠玉の瞬間を聴衆にむけて手のひらを差し出してくださる時がある。わかりやすく煌びやかで、エネルギーに満ちていて、音が粒たち、ピアノを弾くということにテクニックが必要なことを思い出させてくれる。世界が求める、コンサートピアニスト栗原麻樹が今生きていることを思い出させてくれる。

奇想曲。気まぐれな形式にとらわれない形式のなかで、あまりに活き活きと泳いでいたと感じる。演奏し終わった瞬間の彼女の身体が印象的だった。

こうしてプーランクの二作品が終わる。
ここで休憩を挟まないのは、なぜかと疑問に思っていたのだが、彼女は一流だったことを知らしめられた。

インターバルは観客のためにあるのだ。

休むことなく、ロシアにいく意義がある65秒の幕間。この先により過去の、150年前の、ラフマニノフへの旅のための三曲が演奏される。

セルゲイ・ラフマニノフ「幻想的小品集」

舞台下手から袖に入ってまで何秒だったのだろうか。(私は65秒だと思う)それは、プーランクのナポリからの、ロシアの大作曲ラフマニノフのピアノ曲への旅である。

舞台に戻った時の彼女の光の輝きと覚悟に魅了され息をするのを忘れてしまった。なんと誇らしい振る舞いでピアノまでたどり着くのであろうか。

小作品集の中から演奏されたのは三曲。「エレジー」、「鐘」、「道化役者」。エレジーの第一音で、““が概念ごと変化した。

もちろん、栗原麻樹の才能とテクニックとして特記すべきなのは、年代によって、国によって、作家ごとに演奏を変える知性と、覚悟の深さなのだが。私の想像を遥かに超えて、空間に音が奏される、音楽というそれごとがあまりにも変わってしまったのである。

それは、一音目を聴いた瞬間に驚愕した。

『これから演奏するラフマニノフは私にとっては技巧曲ではありません。』

という、あまりにも淑やかなメッセージを感じたからである。仮にそうだとするならば、聴衆としての我々は休憩前にラフマニノフを超絶技巧曲の作曲家としてではなく、ロシアの代表する人物として意識を変える義務があるのである。

ラフマニノフはピアニストを映しとる鏡であるのかもしれない。ピアニストはラフマニノフを通して、ピアニストを知る。栗原麻樹はラフマニノフに自分を映して、私たちを、“私たちが生きている今“を知らせてくれたのかもしれない。

ロシアは冬に包まれた大国であり、春を心から喜ぶ。そのための忍耐を、彼女はすべてを引き受けていたと考える。主題が再現されている間はその主題を手放さず、同時に別の主題を、掴んで掴んだら離さず、物事の終わりを丁寧に喜ぶ。

その様式美が、すべての音から流れ込んできた。

それは、鐘であると思いたかったし、思える余裕がまだあったのかもしれない。

世界一有名なあの『鐘』は、あまりに繊細に、全ての人々が聞こえるppで、たくさんの人が見落としてしまうfで、かつ鐘の主題の意味合いを全く変えることなくなり続ける。信じたくないような美しさがそこにはあった。

道化役者で一部が終えた。

戯けてみせること、このプログラムのまだ中腹であること、全てを飲み込んで、『道化』というものへのリスペクトを強く感じた。終止する彼女の美しさを20分閉じ込めたく思える、素晴らしいプログラムの前半だった。

栗原麻樹ピアノリサイタル〜後編〜

リサイタルは2部にわかれるのが通常の形式である。三曲の名演を経て、席を立ち、上野の空気を吸い、ここが間違いなく2023年の東京の上野であり、私がそこに存在することを確認する。

休憩中にロビーでは、ワインが飲めるように戻っていた。

赤ワインをいただき、明らかにメインディッシュであるところの休憩後に向けて神に挨拶と、今までとこれからの自分の非礼を謝る。
いよいよ、メインプログラムが始まる。

クロノシスタス

クロノシスタスと言う言葉をご存知だろうか。
時計の秒針が止まって見える、時間の流れがゆっくりになるのではなく、止まる、あの瞬間。
メインプログラムで彼女は、間違いなく、時間を何度も留めてみせていた。そこにいる全ての時間が予期せず止まり、動き出していた。

セルゲイ・ラフマニノフ『楽興の時』

第一番 アンダンディーノ
耐え忍ぶ、と言っても失礼にあたらないのだろうか。ここまで長くフレーズや主題や手段を扱っている演奏を生まれて初めて聴いた。
楽曲のアナリーゼ(理解)は難解であり、難曲を弾きこなすのことはナルシズムを伴う。
全てを排除し、書かれたままを、極寒のロシアの空気を流れる音の速さで演奏していた。氷の一楽章、もしくは、空気が凍る早朝の故郷を感じた。

第二番 アレグレット
すべての音が細やかに粒立ち、指定された難解なダイナミクスが鮮やかなに塗り分けられている名演。クレッシェンドも、ppも埋もれてしまったり、感情に溺れてしまいがちなのだが、どこにも頼らず孤独の中で氷柱のように閃り、いつの間にか終わってしまっていた。

第三番 アンダンテ・カンタービレ
重く辛い人生の苦悩と、終わることがないように思われる極寒の冬。あまりの絶望感と体感する寒さに、恐怖すら覚えた。重さを表現するためには、対比として軽さを作りがちだが、栗原麻樹はそれをしない。グラビティとしての重さ、伸し掛かり剥がれようがない重さを演奏し切っていた。
押し寄せる高音の煌めきの瞬間、彼女は重力だけでなく時間も操り、時を止めていた。そして、誰もがそれを共感したであろうことが驚愕である。

第四番 プレスト
六楽章あるなかでも、最も演奏されることが多い第四番『プレスト』は、演奏会で映え、テクニックに満ちている楽曲である。
この曲をあれだけ弾きこなしているのにも関わらず、彼女の演奏にはナルシズムが排除されていた。全ての瞬間において、真摯で、個人の感情において起こりうる小さな畝りのようなものが一切ない鬼火のような演奏。プレストの音の連続の中で、こんなにも長いフレーズでの演奏が可能なのであろうか。擦弦楽器を思わせるフレーズの長さがあった。テヌートにも妥協がなく、届かない技巧は1ミリも許さない世界トップクラスの演奏家のプライド、いや、当然の振る舞いだとする気品を感じた。冬の女王であった。

第五番 アダージョ・ソステヌート
長い冬の終わる少し前の、祈りのアリア。連続して奏される左手のアルペジョが、あまりに美しく和声感と音量感がマイクロレベルでシビアに保ち続けられていた。この楽章の間ずっとである。メロディは祈りを込めた宗教画のように、ゆっくりと会場に春の訪れを植え付けていく。

第六番 マエストーソ
歓びに満ちた荘厳なフィナーレ。まるでロシアの大地全ての氷が溶けて、草が花々が天まで伸びていくかのようなスケールの大きさを感じた。
全ての音が、次へ、次へと、明日へ、未来へと、光り輝き、生命の生命たる増幅と脈動が会場中を包み込んだ。

チェーホフの台詞を引用する。

「あれを聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。……それがわかったら、それがわかったらね!」(三人姉妹より)

次回のコンサート予定

今世紀を代表するピアニストとして語り継がれるであろう栗原麻樹の次回のコンサートは大阪で開催される。ぜひ、コンサートホールでこの感動と奇跡を体感して欲しい。

ご予約とsnsはこちらから。今後の活躍にも注目ください。

(文章:伊藤靖浩)

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