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「スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース」感想

「スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース」を公開当日の朝に鑑賞した。一度で消化できず、2回3回と重ねて2日に渡ってスクリーンに向かった。「スパイダーバース」シリーズ3部作における2作目、ホップステップジャンプのステップにあたるわけだが、この作品を見た段階でもこれまでのアニメーション作品、スパイディ作品、ヒーロー(マーベル)作品の到達点だと確信できるし、もっと普遍的なジュブナイル活劇としても自分の中で上位に当たるような、凄いもんを見たぞ、という感慨に包まれている。

 この作品を自分の中でどう位置づけるか、と考えながら補助線となるのが前作「スパイダーマン:スパイダーバース」(原題:into the spider-verse)と昨年公開されたトム・ホランド主演のMCU「スパイダーマン:No Way Home」だ。
 
 「スパイダーバース」に関しては「映像表現の豊かさ」と「新たな主人公マイルス・モラレスのオリジン」と「マルチバースの提示」という3つの越えるべきハードルを軽く超えた作品で、名作すぎる、という感想を持った。コミックスという「動かない」前提の絵柄が人間のイマジネーションと技術によってビビットにアニメーションになっている。そういったアクション的面白さは勿論だけど、観客をスムーズに主人公・モラレスに感情移入させる描き方に搦め捕られた。父親への反発と叔父さんへの思い、何かを成し遂げたいけど実力が追いつかない、自分と同じ境遇の仲間と会ったけどやっぱり自分で歯を食いしばってやっていくしかないよね、と等身大のティーンネイジャーとスパイダーマンの間で奮迅する主人公の成長譚が真っ当なヒーロー作品として提示されて大好きになった。
 
 一方で「スパイダーマン:NWH」はは自分の中で消化不良な点があった。メイ叔母さんを失うことでスパイダーマンシリーズの命題である「大いなる力には大いなる責任が伴う」というテーマを打ち出したNWHにおいて、トム・ホランド演じるスパイダーマンは自分の力で憎しみの連鎖を断ち切ることは出来なかった。
 最終決戦時、トムホランドは叔母さんの仇であるグリーン・ゴブリンを圧倒し、その首筋に鋭い刃物を当てがった。その姿は憎しみに囚われた鬼神であり、「親愛なる隣人」からは程遠いそれであった。最終的に先輩であるトビー・マグワイア演じるスパイダーマンがグリーン・ゴブリンの武器を掴むことでトム・ホランドは正気を取り戻し、殺意の連鎖を止める結果となった。  
 トム・ホランド演じるスパイダーマンが大好きだからこそ、トム・ホランド自身での成長というプロットを作りきらなかった「NWH」はマルチバースに活路を見いだしてしまったMCUへのノれ無さも含めて、完璧な作品ではなかったと結論付けたい。言い換えれば過去のスパイダーマンの出演というサプライズ要素にトム・ホランドのスパイダーマンの物語が犠牲になったとさえ思えてしまう。
 また、素直に映像のケレン味が少なかったとも思う。コロナ禍という前提もあるが全編に渡ってセットやグリーンバックが中心に使われていて、MCUの画作りの負の面が強調されていた。「ファーフロムホーム」が欧州の各都市のロケーションを活かしていただけに残念だった。

この2作から、私はスパイダーマンの新作には「主人公が設定やストーリーを動かすための舞台装置にならないこと」「マイルスの物語としての一本筋」、それに加えて「映像や画づくりの納得感」を求めていた。そして「スパイダーマン アクロス・ザ・スパイダーバース」はその要素を十二分に満たしてくれました。


 事前情報として「”スパイダーソサエティ”というスパイダーマンが何百人も大集結する組織が出る」というものがあった。マルチバースという壮大な大風呂敷の極致といえる設定であり、ここに物語の焦点がある=マイルスの話はそこまでメインではない、という予想を立てた。しかし蓋を開けてみると徹底的にマイルスの話であり、同時にマスクを被ってしまった若いスパイダーマンの話であり続けていた。
 
 例えば、メインヴィランであるスポットを追う中で、警察官である父親とスパイダーマンの姿で談笑するシーンがある。素顔のままでは衝突してしまうが、マスクを被りスパイダーマンになり、制服を着て警察官になれば悩みを共有できてしまう。マスクを被る者の悲哀と素直でいられない思春期らしさを印象づけつつ、ブルックリンを守る「親愛なる隣人」であるスパイダーマンらしさを描く「マイルス/若いスパイダーマン」の物語としての説得力を持たせるシーンだ。
 他にも父親の署長就任パーティー、外出禁止の下り、そこから母親に背中を押してもらい一人の青年「マイルス」として成長し始めるシーンなど映画前半にマイルスのキャラの掘り下げがこれまでもかと行われており、いくらマルチバースという風呂敷を広げても「マイルスの物語」としてブレない点が前述した「マイルスの物語としての一本筋」として期待した通りであり、この映画をえらく気に入ってしまった理由である。

 物語はマイルスのいるブルックリンを飛び越え、別のユニバースへと移行する。同時に新たなキャラクターや懐かしいキャラクターが登場する。その過程を私は主人公の主人公らしさを登場人物視点/観客視点両方で捉え直すロードムービーだと認識した。インドをモチーフにしたような「ムンバッタン」ではマイルスのヒーローとしての善性、あるいは周りにいる人を否応なしに救ってしまう「親愛なる隣人」としての素質を描写する。
 スパイダーマン2099が組織したスパイダーソサエティの本拠地であるヌエバ・ヨークでは「カノンコード」というスパイダーマンの宿命が説明される。「マイルスの物語」として経たはずの道や未来は定められたものであり、受け入れる必要があるという。前半でマイルスの等身大の在り方が描かれていたからこそこのシーンの切実さが強調される。同時にフランチャイズされ続けたスパイダーマンシリーズへの自己言及であり、「大いなる力には〜」云々を中心に展開され続けたシリーズへのセルフツッコミである。こういうメタ的な表現と作中の設定を重ねる鋭さはめちゃくちゃ調子の良いMCUで度々見られるよなと。スパイダーマンシリーズの拡大は大量のスパイダーマンという形でビジュアルを伴い観客の目に訴える。建物の中で割拠する大量のスパイダーマン、というビジュアルの滑稽さ。
 ただ、マイルズ少年はこの有象無象のスバイダーマン達からの逸脱を宣言する。確かにミゲル・オハラの言い分に正しい部分はあるにせよミクロな世界を守ることを厭わっては何がヒーローだ、と。仮に予期されない形でヒーローになってしまったとしても今マスクを被り街をスイングする自身こそはスパイダーマンだ、という宣言。「放射性のクモに噛まれ~」という口上と共にスパイダーマンだ、と良い放つ姿はその真っ黒なビジュアルと相俟って新たなスパイダーマンの物語を生むという気概に満ちていた。ヒーロー作品の最も熱くなれる部分である、自分のヒーローとしての在り方を叫ぶシークエンスはこの物語のハイライトだ。

 このマイルスのアイデンティティを巡る作劇は本作で終わらない。最後には悪役として生きているif世界のマイルスが登場してしまう。それでもこの作品に宙ぶらりんな印象が少ないのはもう一人の主人公・グウェンの描き方の巧みさにある。

 映画の冒頭、グウェンのオリジンの語りから始まる。バンドとの距離感、親友・ピーターの喪失、マイルスと同様な父親との確執。そこからスパイダーソサエティに加入し、マイルスを物語の本軸へ引き込む。ストーリーテラーでありつつマイルスとは別角度でスパイディであることの運命を描く。裏主人公として描かれるグウェンは最終的に父親と面を向かって会話することでスパイダーマン/グウェンの二面性をそのまま父親に受け入れられる。同時に「カノンコード」で宿命付けられた「父親の死」という運命を避けた。裏主人公の物語にピリオドを射つことで3部作の2作目、という宿命から来る中途半端さを回避している。勿論続きは気になるが、本作の完成度の高さを担保しているのがグウェン・ステイシー周りの処理の巧みさだ。

 と、作劇の面だけでもマイルス・モラレス/グウェン・ステイシーを中心にティーンエイジャーの成長譚/スパイダーマンの物語としてエモーショナルさと緻密さを組み上げた完成度の高いそれだと分かる。ただこのシリーズで語るべき側面としてアニメーション表現の革新性、というのは避けて通れない。

 表現技法であったり、作品のテクスチャーであったり、作品を完成させるまでの手段であったりはあくまで「過程」であり、作品を完成させるまでに取る選択肢でしかない。ことポップミュージックの歴史に目を向けてみてもビートルズの多重トラックでの録音、Radiohead「KID A」におけるコンピューターとバンド録音を組み合わせた製作体制、始めて録音編集ソフトウェア・プロツールズを用いたTortoise「TNT」など「革新的」と呼ばれつつ名が残る作品の前提には、出来上がった作品の完成度の高さがある。''上位概念にある「表現したいもの」という目的のための革新的な制作方法''という「手段と目的の順接」は欠いてはならないのではないか。

 だから本作も''マイルス・モラレスの異端さ''を表現するために各世界で表現のタッチを変えているし、''街と共鳴し合う親愛なる隣人''というスパイダーマンの真髄を提示するために街のビジュアルやカラーリングが登場人物の行動や動作とパラレルに対応し合う。「マルチバース」という雑多な概念も全員絵柄が違うスパイダーマンが一堂に会す場面を見れば否応なしに腑に落ちてしまう。物語やテーマのための最適な手段として圧倒的なビジュアル表現が施されている。

 このようにキャラクターと世界観と表現技法とストーリーが全て意味を持って有機的に結び付いていて、2時間半という長尺においても台詞や表現に一切の無駄が無く、ノンストップで興奮が持続する。3作目への壮大なフリでありながらいち作品としての満足度が高すぎる。こんな高いハードルを作ってしまい大丈夫なのか…?と心配してしまうほどに完成されたスパイダーマンムービーでした。

 5年間で変わった音楽シーンの反映、とか移民の在り方の表現、とか二重の意味での「ブラック・スパイディ」とか、語りしろはまだ多分にある作品だけど、自分が「スパイダーバース」の続編に求める要素を満たしてくれたことに対する感謝が大きい。「インフィニティ・ウォー」を見た後の感情を体感できているということは「エンドゲーム」の感慨を改めて体感出来る、ということの裏返しだと信じて1年間健康に過ごします。



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