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「スパイダーマン:NWH」感想:大いなる風呂敷を広げるには大いなる責任が伴う

ネタバレアリです。
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MCU版スパイダーマンはその出自からして他のスパイダーマン映画とは別のものだった。

そもそも現行のマーベル映画はマーベルコミックスにおいて(映画化する程の)人気がなかったヒーロー達への1種の救済として作られた。アイアンマンを皮切りに、ハルク、キャプテンアメリカ、マイティ・ソーらの「オリジン」が描かれた1作目、それに付随する物語としての2作目が作られたり作られなかったり。彼らの運命を変えたのが「アベンジャーズ」1作目で、あのグルグル地面を這うようなカメラワークで並び立つ「アベンジャーズ」達のシーンが1つの到達点であり、全ての始まりである。そこから新たなキャラクターの追加や世界観の拡大を行い、そのファンタジーといえる設定の中に現代社会を重ね合わせるような描写を加えることでマーベルシネマユニバースは異常といえる程の熱狂を引き起こした。その熱狂の立役者といえるのがトム・ホランド演じるマーベル版スパイダーマンである。

先ほど書いたように「そこまでの人気が無い」ヒーロー達をその世界観の豊かさクロスオーバーの面白さをもってスターダムに押し上げたのかマーベル映画であった。その場に満を持して表れたのか世界的ヒーロー、老若男女の「親愛なる隣人」スパイダーマン。

「シビル・ウォー」においてアイアンマン・トニースタークにスカウトされる、という形でスクリーンに登場したトム・ホランド版スパイダーマンはその軽妙な喋り、アクションやユーモアの才溢れるトム・ホランドの演技、CGを駆使したアクションによって驚くほどすんなりと「アベンジャーズ」シリーズに参加した。
単独1作目「ホーム・カミング」はトニースタークとの関係性を軸に、今までの映画スパイダーマンで見られなかった''友人との交流''という要素を交えながら大人から巣立とうとする若者の奮闘劇として完成度の高い作品となった。
続く「インフィニティ・ウォー」「エンドゲーム」では中心的メンバーとして扱われ、最後にはトニースタークを看取るという大きな役割が与えられた。
「エンドゲーム」から1年と経たずに封切られた単独2作目「ファー・フロム・ホーム」では恋愛という目線でピーター・パーカーの成長が描かれた。また、ピーター・パーカーがトニースターク亡き世界における「ヒーロー」のあり方を検討していたり、この映画自体が「フェーズ3」の最終作として「ヒーロー映画とは虚構っしょ?」という命題に対する自己批判的な役割を与えられていたりと、「スパイダーマン」という作品以上の意味合いを持ってしまったともいえる。

マーベルという世界観の中でいち青年の成長譚を語りながら、世界の危機や状況について語らないといけない。その命題をなんとか乗り越えて来たのが「ホーム・カミング」「ファー・フロム・ホーム」であり、「ニューヨークの中で戦う親愛なる隣人・スパイダーマン」というスケール感を大きく飛び越えた、飛び越えてしまったのもこの2作であった。

こうざっくりとマーベルユニバースにおけるスパイダーマンを振り返ると、このMCUスパイダーマンは「オリジン」が描かれていないと分かる。もっというと通過儀礼が済んでいない。トビーマグワイア版「スパイダーマン」における見過ごした悪人が叔父を刺すシーン、「アメイジングスパイダーマン2」におけるグウェンを救えなかったシーン…喪失と向き合い「大いなる力には大いなる責任が伴う」ことを実感するという通過儀礼。それを乗り越える、乗り越えれなくとも再びマスクを被る。「アメスパ2」が名作たる所以はそこにある。「みなさん、蜘蛛に嚙まれて色々あってヒーローになったんですよ!知ってるでしょ!!」としてマーベル制作陣が描かなかったトムホランド版の「オリジン」は描かれるのだろうか。

予告を見ると過去の敵大集合・ドクターストレンジ参戦と上記のように改めて「オリジン」を書き直すような物語は望めないなと勝手に思っていた。無事、裏切られました。

今回の「No Way Home」で描かれたのは望んでいた「トム・ホランド版スパイダーマン」のオリジンであった。前作で世界に正体が割れドクターストレンジに助けを求めるも、結果として別世界から過去作のヴィランがやって来る。そいつらを捕まえて檻にぶちこんだは良いが元の世界に返すと全員死んでしまう…。そこでピーターは「大いなる力」を用いて半ば強引に「そいつら」をケアし、悪性を取り除こうとする。結果「そいつら」は暴走し、ピーターの自身の善性を疑わない危うげな「若さ」はメイおばさんの死を招いた結果となる。ここで登場したのが「大いなる力は大いなる責任を伴う」という一節。「スパイダーマン」という力がもたらした愛する肉親の死という結果に落胆し、マスクを取るピーター・パーカー。

今作においては「力」と「若さ」がもたらす危うさが甚大な被害と取り返しのつかない結果によって非常に大きく表現されていて、「大いなる力は大いなる責任を伴う」という言葉に向き合うという「スパイダーマン」としての通過儀礼があまりに克明に描かれ過ぎている。前2作で十分ではなかった「オリジン」描写が3作目においてここまで濃密に描かれるのは嬉しい誤算であった。

ここから再びマスクを被るまでの展開はご存知ウルトラCである。トビーマグワイア&アンドリューガーフィールドの登場。彼らも喪失を経験し「大いなる力は大いなる責任を伴う」という言葉と向き合ってきたヒーローであり、それは「スパイダーマン」「スパイダーマン2」「スパイダーマン3」「アメイジングスパイダーマン」「アメイジングスパイダーマン2」を見た我々が良く知っている。彼らのトムホランドに対する言葉は涙無しには見られなかった。何よりネッドとMJの存在は大きく、喪失を埋めるのではなく喪失を抱えたピーターを優しく包み込むようなふたりの存在は「MCUスパイダーマン」の救いであり強みだ。

自由の女神像における戦いも「倒す」のではなく「救う」ことを目的としたもので、親愛なる隣人・スパイダーマンの「隣人愛」みたいなものを表現したかったのかな~など考えながら見ていた。3人のスパイダーマンに違和感を感じなかったのは「スパイダーバース」を経ていたからだろう。
少しモヤモヤしたのはグリーンゴブリンに刃を立てなかったシーンなのだけど、あそこは自らの意思でホバーバイクを突き立てるのを止めて欲しかったかなと。

最後は世界中がピーター・パーカーのことを忘却して幕を閉じる。誰かの親友であり、恋人であるピーター・パーカー=スパイダーマンではなく誰しもにとっての「親愛なる隣人」=スパイダーマン。ヒーローは孤独であり、その孤独を振り切るようにスパイダーマンはビルとビルの間を叫びながらスウィングする。どこまでも拡大して行くだろうと思われた「MCUスパイダーマン」がこのシーンで終わることは「スパイダーマン」映画として自分が求めていた理想形である。

過去作品のキャラクター大集合、様々なサプライズやファンサービスを交えながらMCU版スパイダーマンとしてのオリジンを真っ当に描き切る。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』、傑作です。

★★★★★

ここからはTwitterで言いたいことです

「最初にトーキングヘッズがかかって「勝ったな…」と思った」

「仮面ライダーの映画で”佐藤健衝撃の登場”をネタバレ踏んだ上で見てしまった私としては、アンドリューガーフィールドの出演を事前情報なしで見れたのでまじであの日の悲しみが消えてくような気がした」

「最後の展開が仮面ライダーゼロノス過ぎて最高」

「平成仮面ライダー冬映画特有の掛け合いがスパイダーマン同士でなされていてムズムズした(シックスセンスとしてのムズムズではない)」

「トビーマグワイア版スパイダーマンは体の中で糸を作っているって設定が拾われてて良かった」

「メイおばさん可愛いなぁぁぁ」



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