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宮崎市を行く!(後編)八紘一宇の塔とは?



【中編までのあらすじ】

宮崎で仕事が終わり、空いた時間でどこかへ行こうと思っていた。
神話の地を堪能したいのだが、時間はそれほど無い。ならばと前から行きたかった「みそぎ池」のある江田神社へ向かった。
「みそぎ池」を間近に見て感動したが、もう少しだけ時間がある。
宮崎市内の「八紘之基柱あめつちのもとはしら」(通称「八紘一宇の塔」)を目指すことにした。

【ヤシを植えた人】

そういえば、宮崎駅からのメインストリートの街路樹はヤシである。
これって昔からあるのだろうか、と妙に気になった。

この南国・宮崎を象徴する光景だが、植えられたのは1967年(昭和42年)と意外に新しい。
その頃には、新婚旅行の地として大人気の観光地だった宮崎県。
南国イメージ確立のため、宮崎観光の父・岩切章太郎氏が進めたのだという。宮崎の海岸線にあるフェニックスもこの人が進めたのだというからすごい。

神話の地であり、現代的な南国の風景も楽しめる宮崎を確立したのか。


【空高く聳える「八紘之基柱あめつちのもとはしら】」


八紘之基柱あめつちのもとはしら」(通称「八紘一宇の塔」)があるのは平和台公園という場所だ。

東南アジアの仏塔のような神秘的なフォルム

公園に行くと、もう見間違えのないほど巨大な塔が見える。
なんと高さは37㍍もある!

【八紘一宇?八紘為宇?】

以前、紀元2600年記念事業で東京に緑地の遺産が生まれたと書いた。

この塔も、その紀元2600年記念事業で生まれたものだ。
神武天皇の故郷でもある宮崎県の意気込みは高く、「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」を立ち上げ、相川勝六知事が「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を作る事を提案した。

さて、ここで言う「八紘一宇」とはそもそも何だろうか。
もともとは神武天皇が即位する際の「橿原奠都かしはらてんとみことのり」には「八紘あめのしたおおひていえとせむ」とある。
世界を家のようにしていこう、という平和的な理想である。

「日本書紀」では「掩八紘而為宇」で四文字にすると「八紘為宇」となり、「八紘一宇」にはならない。

では、「八紘一宇」と言い始めたのは誰なのか?
日蓮宗の「国柱会」「立正安国会」を率いた宗教家・田中智學だ。

田中智學


国柱会は宮沢賢治や石原莞爾も所属した有名な団体で、大きな影響力を誇った。
そもそも仏教者じゃないかと現代だと突っ込まれそうだが、田中智學は「天皇を天照大神の延長であると見るのが日蓮聖人の説であるから、日蓮主義者は天皇の徳と政治とが一致するように努めなければならない」と説明している。そして「国柱新聞(大正2年3月11日号)」において「八紘一宇」という四字熟語を発表した。
世界中を家のようにしよう、という「八紘為宇」から、世界を一つの家にしようという「八紘一宇」だとイメージが変わる。
昭和十五年に近衛内閣が「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国ちょうこくの大精神に基づく」と公文書でも発表し、国家的にかなり流布していった。
だが、それが日本の侵略的なイメージの誤解につながった。少なくとも敵国から利用されてしまった。
私は、もともとは「八紘為宇」だったことを大切にしたいと思う。

【サッカー日本代表のエンブレムを戦前に作った天才】


話を戻す。
そこで志願したのが彫刻家日名子実三ひなごじつぞうだった。

日名子実三は、サッカー日本代表のエンブレムとなっている八咫烏のデザインを作ったことでも有名。


私はこのエンブレムが戦前からあることに心底たまげてしまった。
日名子は知事の勧めで宮崎県内を巡り、宮崎神宮の御幣を見てインスピレーションを感じ取った。そして、語弊に盾を組み合わせたデザインを作り上げた。


正面には秩父宮雍仁ちちぶのみややすひと親王(昭和天皇の弟君)の筆による「八紘一宇」の文字が刻まれ、武人の「荒御魂あらみたま」、商工人の「和御魂にぎみたま」、農耕人の「幸御魂さちみたま」、漁人の「奇御魂くしみたま」の四神像が配されるユニークなデザインだ。

※こんなにいろんな魂があるんかい、と思った方は以下の記事をご参照

場所について、当初神武天皇が東征直前まで在住された地「皇宮屋こぐや」を考えていた。
そこから少し北の現在の土地となった。

昭和14年5月20日から工事を開始して、昭和15年11月25日に完成した。名所としてお札にも描かれる。

しかし、翌昭和16年に大東亜戦争が勃発した。
敗戦後に、「八紘一宇」という理念が危険視されたこともあり、「八紘一宇」の文字と、武人の象徴であった荒御魂あらみたま像が撤去されてしまう。そして「平和の塔」という名前にされ、一時はロッククライミングの練習場にされるほど衰微したという。
確かに登りたくなるのは少しわかるけれども・・

岩切章太郎像

だが、先ほどヤシを植えたと紹介した岩切章太郎により、荒御魂像も「八紘一宇」の文字も元通りにされた。
抗議に来る左派に岩切章太郎は、日名子実三の作品だからもとに戻すのが当然と主張したという。

ちなみにこの塔は、1964年(昭和39年)9月10日には、東京オリンピックの聖火リレーのスタート地点となっている。
「世界平和を謳うオリンピックの精神と『八紘一宇』は同義」として平和のシンボルとして親しまれたのだ。
右翼だとか左翼だとかではなく、文化を現在に活かす岩切章太郎の力がすごいと思う。

【宮崎ブーゲンビリア空港で冷や汁を食べて帰る】

ブーゲンビリア空港に来ると、さすがに垢抜けた空気に満ちている。

宮崎は美味しいものがたくさんあるけど、何故かその中から「冷や汁」をチョイス。
空港だけに素朴な料理にしては高い。でも、ホッとする味だった。

記紀編さん1300年として祭りのジオラマが出来ている。

この祭りこそが神話と現代を結びつけるものなのだろう。
「神話の地」と言っても、過去の神話の地ではない。
現代に蘇生させ続けることが何より大切なのだろう。
岩切章太郎、日名子実三のチャレンジがそれを示している。

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