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【 文語体を好む理由について 】

 まず出鼻ですから ぼくがこういうスタイルに落ち着いた原点を 辿ってみたいと思います。

 ぶっちゃけると〝大見得切って長い前口上を述べる〟 みたいな 大上段にかまえた文章が 単純に好き というのがあります。なんだか格式ばっててカッコいいじゃないですか。内容も内容なもんで あんまり砕いて書くと説得性に欠けるってのもある。

 おそらく普段のぼくは そんな文章から出てきそうなイメージとはかけ離れた人間だと思います。もっとボケボケで よくそんなんでまともに生きていられるぁとお叱りくらってばかり。どちらが素の自分か はっきりしませんが、リアルはボケキャラで周りを落ち着かせる(よけいイラつかせる時も多々あるけど;)存在、バーチャル(仮想で自分から不特定多数の誰かに発信する態度)は上記の理由で、かなり気難しい文体になる(内容も)。

 もっと深掘りすると そもそもぼくが育った環境が アングラ全盛だったから その影響があるかもしれません。いえ、厳密には70年代初頭くらいが全盛なんでしょうけど、その全盛期のイズムに一番被れていた時代といいますか。Z世代の人は知らないだろうから誤解されないよう通訳すると この〝アングラ〟っていうのは、今のアングラとは少しちがって「アングラ芸術」「アングラ映画」「アングラ演劇」のような カウンターカルチャーのこと。そうした既成概念をひっくり返す!みたいなムーブメントにシビれていたんですね。そこに集う若者(馬鹿者)たちは、始終アジり倒してましたが、でもほんとうの意味で怖い人たちではなかった。酔狂といってしまっていいのか わからんけど みんなみんな何かしら演じていたんです。その一方でみんなみんな演じてることは ある程度暗黙理解しあってるから、妙な連帯意識があって、おどろおどろしいアジり方するくせ 後ろ向いてベロ出して笑ってるみたいなシニカルな酔い痴れ方でした。

 その名残りなんでしょう きっと。単独で文章書いたりするようになっても ずっとこの調子で アク強いままです。

 平野啓一郎さんの本で「分人主義」という考え方を知り かなり救われました。それまでぼくは壊れたままの人間なんじゃないかと 人知れずずっと悩み続けていたんです。まあ今だと普通に 文章やゲームでキャラ変できる人いますけど 当時はそんなネットも普及してませんでしたからね。

 皆が皆 無理しておなじように 顔を使い分ける必要ないと思うし 世の中には、顔の使い分けが苦手な人も大勢いる。そういう人からみればぼくはかなり怪訝な人間で信用に値しないと思われがちなんじゃないか。

 ですが、じっさいぼくはこうしてちゃんと生活できてるし、多少変わり者には思われますが そこそこ毛のはえた程度の信用ならあります。最低限の常識とモラルをもった人間として一線は越えない人だと。(中身は幼稚だから子どもにはよく遊んでもらってます。)

  ぼくからすれば、顔を使い分けできない人のほうが すごく気持ちがわかるし 好きは好きなんです。元来 器用な性格ではないんで;

 自分は たまたまコミュ障の自分を克服する防衛策として〝演劇〟を学んだだけなんですね。しかもアングラ。中身といえば 空っぽ とまでいかないまでも 地味~で マネケな ショボい オッサンでしかない。

「 あなたは問題提起はするけど 問題解決はしない 」

 ぼくが最近きいたなかで 最も刺さったフレーズです。そうなんです。何の力もありません。ニュース報道者でも 活動家でも ないんで 結局 ここに全て帰結すると思います。ただのハッタリ。ただのカッコつけ。もし手厳しいコメントいただいたら 即レスして 謝りまくるでしょう。重たい内容多いですが、すべての中身はその程度。先に謝っておきます。ごめんなさい。

つづく


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