先生は恐らく 「日の丸」も嫌いだった だから 私たちのクラスは 決して国歌を歌うなと言われたし 全校集会で先生は壇上にあがり 校長先生を尻目に 「日の丸」をはずした そんな行為も許された時代だったのだと思う 前述で クラスで学校に泊まったことも 話したけれど クラスで大きな屋外プールに 遊びに行ったことも 大きな海水浴場と 誰かの別荘に泊まったり 放課後にみんなを ラーメンを食べに連れて行ってくれたことも なぜかパチンコ屋に見学みたいに 行ったこともある とにかく楽
6年生の時の女性の担任は 少々風変わりな人だった 確か…独身で 30代前半だったと思う まぁ 風変わりだからこそ 学校でのお泊まりも許可されたのかもしれない 私はこの先生が 5年と6年と担任だった まず 国語の授業はない なので教科書を開くこともない ではその時間何をしていたかというと 「カムイ伝」について学んでいた 今思えば、単独で そんなことをして良かったのだろうか? 教室で動物を飼っても良かった 当時、お祭りなどで流行っていた カラーひよこ 教室に放ち フン
13 体育館の一夜 体育館に戻ると 肝試しにチャレンジしたクラスメイトたちが 楽しそうに歓談していた 「オバケたち!楽しかったよ!」 口々に讃えてくれた 一緒に本物のオバケを見た2人は 「怖かったよね…あれ、本物かな?」 「何もしなかったから、いいオバケだよ」 「てか、今まで見たことなんて無かったのに」 「私も!明子が居たからじゃない??」 と、私に火の粉が飛んできた 「私だって、あんなにハッキリ、しかも動くのを見たことなんてないよ!」 そう 私は、よく「見て」
体育館から1番遠い私たちの教室 オバケ役にとっても 長い道のり 途中、音楽室と理科室にも立ち寄り 驚かせるための仕掛けを みんなで確認 そして 教室でのオバケ役 私を含めて3人が その1番遠い教室に到着 ひとりが ゆっくりとしたテンポで 結婚行進曲を弾く パンパカパーーーン… パンパカパーーーン… そこで私が思い切り 「キャーーーーーーッ!!」 と、かなり高い声で叫ぶ すると、肝試しにチャレンジする クラスメイトの到着 最後のオバケ役が 貞子のような格
小学生の時の思い出は 本当にたくさんある ネガティブな話が続いたけれど 楽しかったことも多々ある その一つが 小学6年生の時に クラスのみんなで学校に泊まったことだ 今思えば 学校にお泊まりなんて よく校長先生が許したもんだと思う 私のクラスだけの特別感 午前中から バーベキューの準備を 有志のお母さんたちと担任の先生が してくれた 場所は花壇 私は焼肉のタレを持っていく担当 飲食店でパートしていた叔母が 評判のタレを持たせてくれた 紙皿が配られ… と言うところま
まだ他にも「死」に関することは 小学生の間に多々あった 大きな大きな団地群の上に 13階〜15階という高層ビルも あったため 自死する人々がいた 多くは住民ではなく 他所から来ているようだった しかも小学校の裏門を出てすぐの棟に 限っては のちのち50名を超えたとも聞いている (余談:ビルの色を茶色からピンクに 変更したところ、ピタリと止まったと聞いた 色と心理はすごい関わりがあるようだ) 放課後その裏門を出てすぐ 小学生の人だかりが出来ていた 覗いてみると 警察官
翌日の運動会当日 運動会は近くの小学校の運動場を 借りて行われる でも私は母に連れられて 制服で幼稚園に向かった そこには担任の先生と 隣のクラスの今まで話した事がない 金太郎カットの男の子が1人いた 金太郎カットくんは チラリと私を見ただけで 何も言わなかった それから先生たちと どこかへ歩いて行く どこへ行くんだろう?と 思っていると 近くの団地内の一室だった そこへ先生と入っていくと 真っ黒な服を着た 部屋いっぱいの大人たちがいた みんな正座をして俯いていた
少し前に 娘の同級生が事故で亡くなった まだ高校生 娘は小学校低学年の時に その子とよく遊んでいたが それ以降は疎遠だったにも 関わらず 当たり前だが かなりショックを受けていた 私も幾度となく (普通なら無くてよいのに) 同級生や友人を亡くした 記憶があるのを思い出した 1番最初は 幼稚園の年長さんの時だった その子は 転園して来た子で 初めから車椅子で点滴をしていて お母さんが幼稚園の間 ずっと付き添っていた 幼稚園では 足し算引き算をする パズルゲームがあり
結局、浴室はキレイになったが 母の入れ歯は見つからなかった 母は私を呼んで 普段は使わない部屋 もとは妹の部屋に案内した そこには 母の父母の写真が飾られ お菓子と よくわからない飲み物が置かれている 「あのね!ここは私が1番 大切にしているところなの!! 素敵でしょう??」 あまりのニコニコぶりに どう返して良いものか分からず ただ 「そうだね」 と言った 母は昔から自分の両親を とても大切にしていた 大切にはしていたけれど 自分は捨て子だから 血は繋がっていない
確かに差別されても 仕方ないくらい 市営団地の環境は良いとは 言えないことも多かった とにかくボヤが多い とにかく自転車が無くなる とにかく警報器のイタズラをする とにかくエレベーターの全ての階が 押されている とにかくヤンキーが多い 8棟の中層ビルと7棟の高層ビル 合わせて おおよそ2850世帯ほど そのうちの1棟は 生活保護世帯が多く住んでいた (そういうことも 小学校高学年になれば 誰かれ言わずとも 皆、理解できるから 不思議だ) そこに住んでいるクラスメイト
私が幼少期に住んでいた団地は 当時、小さな川を渡ったら たくさんの棟(32棟ぐらい?)が 立ち並んでおり 小さな国のようなところだった 割と都会で 下に降りれば すぐにスーパーやヤマザキショップ その他小さな商店 道挟んだところに小学校 その隣に短大 その近くに中学校 と、立ち並んでいた 私は市営団地に住んでいたが 県営や分譲 今のURや一軒家 と、多種多様の地区だったため 露骨に差別する人たちもいた 小学3年生のある日 漢字が違う私と同じ名前の 友達の家(分譲)につ
「何!この黒カビは!!!」 現在の実家は マンションである フロアの中で1番真ん中にあたる この部屋の浴室は 当然ながら?窓がない だけれども これだけあれこれ認知症になっても 掃除をしまくっている母なのに 壁一面 いや、壁四面真っ黒!!! そうよね… カビ取り洗剤なんか忘れちゃってるよね 「ばあば、カビが酷すぎるから 私、今から掃除するけどいい?」 「いやだ!! ちゃんと毎日掃除してるのに! どこが汚れとるって言うとね!!!」 昔を思い出すくらいの剣幕で怒る母
私は実家にあがり 用事を早く済ませようと 入れ歯を探し始めた 父からのLINEでは いつまであったのかが 分からない、とのこと 父が探したと言う 明日出す予定のゴミ袋をもう一度 玄関に新聞を広げて 全部ひっくり返して 一つ一つ丁寧に確認 もちろん 潔癖症だけは忘れていない母が 「何をしているのか?」 と、ソワソワ落ち着かない様子で 聞いてきた 「ばあば(私の母のこと)の入れ歯だよ」 「入れ歯ってなに?」 こんなやり取りをしながら さっさと手を動かす 出てくるゴミの
私が物心をついた時には すでに母の潔癖症は 日常的な試練だったと思う 幼少期は団地住まいで ドアを開ければすぐに部屋なのに 玄関から部屋にあがるまでに 短くて5分 長くて1時間 母の掃除が終わるまで 待たなければならなかった 掃除が終わったら終わったで 抱き抱えられて 風呂場に連れて行かれ 手足を洗い 衣服は全て着替えなければ ならない 散らかすのも禁止 おやつも欲しいと言ってはならない (こぼすから) 一度家にあがれば 遊びに行ってはいけない 制限ばかりの毎日だった
マンションのエントランスから インターフォンを鳴らすと 無言で自動ドアが開いた 『今日もちゃんと開けれたね』 生存確認もでき、少し安堵しながら エレベーターに向かう 認知症を患っている母は どんどんと記憶をなくしている いつ自動ドアを開けれなくなっても いいように、実家の鍵は持ち歩いてはいる ピンポーン 実家のドアのインターフォンを鳴らすと しばらくして、小さくドアが開いた 「今日はもう来られないと思っていたのですが、どうしたんですか?」 母の笑顔を見るのは久しぶり
時々、友人に私の経験を話すと 「なかなかそんな経験ってないよ」 と言われることがある。 私にとって それはいつでも「日常」で 特に変わった人生を歩いて来たとは 思っていなかった。 けれど 振り返ってみても 面白いのかもしれない… ふとそう思い 書いてみることにした。 今更ながらだけれど 拙い文章での回顧録。 しかも記憶があやふやなので ノンフィクションであり フィクションでもあるような そんな小説風なものにしよう 私を客観的に見ることで 私の…そして 誰かの何かの「気