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家という理不尽

家とは枠組みにすぎない。

まず初めに、私は家族というものに意義を見出さない。これは私の持論であるが、子供にとって家族というものの持つ機能は

愛着の形成
養育
教育

であると考える。

これらの抜け落ちた家族というものがどういったものなのかを述べたいと思う。

その前に日本における家の歴史を振り返ってみる。日本は戦前から家父長制が敷かれてきた。これは戦前の日本が天皇制を擁した国家であったことに起因するだろう。一家の主(ここでは父、夫のような男性)を戸主とし、いわゆる「妻」や「長男」諸々そこに帰属するという考え方である。この戸主は強い権限を持っていた。戸主の同意を得ずに家を離れた者を戸籍から除くことなども可能だった。

この家父長制、戦後のアメリカによる象徴天皇制の施行とともになくなったのかといえばそうではない。
私はいわゆる失われた10年の間に生まれた「ゆとり世代」だが、この影響は常に感じた幼少期を過ごした。母は父に根本的には何も言えない。その母親のストレスは積もり子供に向く。これは一体何なのか。幼いながらに私は日本社会が生んだ家という制度の理不尽さを感じ取っていた。
この父親というものが持つものは何なのか。
それは「権威」や「権力」である。

ではそれらを司る父親に固有のものとは何なのか。
ここで戦前の家父長制がものを言うのである。自分は一家で一番偉い。だから何をしてもいいのだ。究極こういう考え方である。

また家というものには必ず先祖から代々継がれてきた考え方や、意志が存在しており、その意志は父方母方両方の家系に存在する。が家というものをまとめるのにはこの家の長が必要なのである。代表するのは基本的に一家の長であり、それを次の世代に降ろすのもその長なのである。

これはいいものもあれば悪いものもある。いいものをその家系の「徳」といい、わるいものを「業」「因果」といったりする。

この業を子供に押し付けるのがひとつの父親の役割であると私は考える。
それは「何でもいいからとにかくそれをするのが正しいんだ」という教育を伴う。

この教育方針は子供の側に違和感がなければ、そのまま受け継がれる。しかしそうでなかったときその子供はもがくことになる。
なぜこれをしなきゃいけないのか?なぜ僕だけ私だけ~なのか?
有無を言わさない「正しさ」という観念が自分を押さえつけてくる。


ここで家というもののもつ機能である「愛着」をとりあげよう。

一般的に子供は家という枠組みの中に「取り囲まれる」のである。
取り囲まれるというと息苦しさを感じる人もいるかもしれないが、いわゆる身内びいきはこの観念に起因している。
それはある種の子供という存在に対する愛着と肯定感を含んでいるように思われる。これは動物に例えると、鳥類が巣で子供を守り育てるのが近いかもしれない。

ではこの「取り囲み」が「愛着」が欠けた状態で行われるとどうなるのか。

愛着が抜け落ちた状態で、受け入れ難い考えや家系の業を力づくで押し付けられ、正しさという教育を枷に囲まれる。この苦しみがわかるだろうか。
それはいわば牢獄のようなものだろう。

これが私の過ごした家というものだった。

そしてこの「正しさ」で子を支配するという構造と愛着の欠如は、子供に見抜かれては困るので親は巧妙に隠すのである。

何度もいう。愛着はない。
子供が愛を求めれば、
力で取り囲み、不都合を隠そうとする父親。

逆に力に対して反抗しようとすると今度は、
それらしいことを甘い言葉で述べながら、心理的には突き放し、うやむやにする母親。ここで始めて母親が出てくる。
愛着形成に大きな部分を占めるのが母親である。母親自身に愛着がない場合どうなるのか。

求めるものに対して論点をすり替え、あたかもそれがもとから存在しないもののように「教育」するわけである。

そこには子供を1人の人格として向き合おうと姿勢が決定的に欠如している。

少なくとも私はそれが存在するというのを本当に知らなかったし、今でもそれがあるのを感じ取ることができない。

いかがだろうか。私は食卓というものが大嫌いである。その何とも気まずく、何かを隠しながら、幸せであると思い込もうとするような空間とでも言おうか。

私は目に見えた虐待は受けていなかったと思う。しかし虐待される子供の家系は、どう考えても愛着、養育、教育、が抜け落ちていることは窺える。

なぜ愛着が損なわれるのか、なぜ力に固執するのかそれがわかるのはもう少し先になるだろう。

日本社会が生んだ家とという枠組みの理不尽さ。これを今後も掘り下げていけたらと思う。

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