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人生のどん底より、社会の底辺の方が、ヤバいと感じた in ドイツ

皆さんこんにちは、ベルリンのひと、イドアモンです。
今日は、私が人生を変えたいと思ったあの瞬間を、振り返ろうと思います。

約2年前、私は人生のどん底にいました。10年ほど一緒だったパートナーと別れ、二人の子供を連れて引っ越しました。

その頃の私の口癖は

「あー死にたい。」

そんなお母さん嫌です。分かっています。でもポロッと口に出るのは、そんな嘆きでした。かといって、別に本気で死にたいと思っている訳ではないんです。自分の毒を外に出して、気分を軽くしたかったんです。たぶん。

ところで私は生命線が2本あるというぐらい、とても健康で、風邪も引きません。そして何より、ドイツの手厚い生活保護のお陰で、お金の心配もありませんでした。それでも、私は

「あー死にたい。」

と言っていました。
不幸は比べられないもので、自分の辛さは特別だと思うもので、かわいそうな自分を抱きしめて離せなくなる。けれど他人から「かわいそ〜。」という目を向けられるのは嫌だった。だからあまり人に会いたくなかった。

特にママ友とか。

しかし、ドイツの生活保護者や失業者は、定期的に面談に行かなければいけません。ジョブセンターという職業安定所へ赴き、職員に現状を報告し、仕事を見つける手段を模索するのです。

はっきり言って、いい思いはしません。いつまでこの状態?どうするつもり?やる気あんの?と、一応敬語ですがビシビシ言ってきます。普通に怒られたりもします。

さすがの私もどうにかしようと思っていましたよ。今までのように、フリーランスで日本語を教えて、その日暮らしの生活、というわけにはいきません。子供が二人いるシンママになったのですから。

とりあえず「またドイツ語を勉強しなおそう。」ということになり、近くの職業訓練学校のドイツ語コースに行くことになりました。
普通、語学学校は、語学のレベルごとに生徒が分かれているものですが、そこは違いました。なんと全員一緒!

私これでも10年以上ドイツに住んで、それなりに喋れるんですよ、それなりにプライドもあるんですよ。なのに、クラスのほとんどの人は、ドイツ語を話せない。

一目で分かりました。このクラスに来ていたのは、

難民の人たち。

シリア、アフガニスタン、イラクなど、自分の母国から逃げてきた人たち。


「ハロー!」

あ、教室に見知った顔が一つ。
同じアパートに住む、おじさんでした。道端ですれ違う時、いつもニコニコしている人!

「こんにちは!」

ちょっと嬉しくなった私は、世間話をしようと思ったのだけど、おじさんは私が言っていることを理解しているのか怪しいし、私も、おじさんが言っていることがいまいち分からない。それでも、おじさんがアフガニスタンから来たことは分かりました。ドイツに7年いるけれど、ドイツ語は今だに「すごく難しい」そう。多分50も過ぎている。その年で、新しい言語を一から学ぶのは、相当大変に違いない。

「一人でアフガニスタンからトルコに行って、それからドイツに来たんだ。家族はアフガニスタンにいたから、ドイツに呼び寄せるまで5年も会えなかったよ。5年だよ!」

今おじさんは、5人の息子と奥さんと妹(もしかしたらもっといるかもしれない)と、一緒に暮らしています。

ドイツ語の先生は、若いお兄ちゃんでした。
私達は渡された課題を、一人で解いていました。持つべきものは携帯です。みんな黙々と自分で調べていました。先生は「分からなかったら、聞いてね。」と言うけれど、分からないドイツ語で説明されても、もっと混乱するでしょう。
同じアパートのおじさんは、クラスで一番真面目でした。ちゃんと毎回出席しているし、先生の説明も聞いていました。

ある日、お兄ちゃん先生は、しょっちゅう休むシリアから来たおじさんと、こんな会話をしていました。
「ちゃんと出席しないと駄目だよ。そうしないと職業安定所から怒られちゃうよ。」
「薬。疲れた。寝た。」
「しょうがないなあ。とりあえず、ここに住所書かないといけないから、住所教えてくれる?」
「知らない。」
「いや、今住んでいる所だよ。道の名前なんていうの?」
「知らない。」

次におじさんが放った言葉は、衝撃的でした。

「シリアで毒ガス、すぐ忘れる。」

ガーーーーーーン!

私の中で何かが鳴った。
そしてその響きは声になった。

「違う!違う!ここは私のいる場所じゃない!」

私の中で初めて「この状況を脱しなければならない。」という猛烈な焦りが生まれたのです。
私は母国で酷い目にあったわけでもなく、国を追われたわけでもない。全てを捨てて、逃げて来たわけでもない。
私はただドイツに来たくて来たのだ。日本にいる親にだって、飛行機に乗って会いに行ける。二度と国に帰れないわけじゃない。

私はずっとずっと恵まれているのに、自分の状況にあぐらをかいているだけだ!

シリアのおじさんが、本当に毒ガスを吸ったのかは、もちろん分かりません。難民と言っても「ドイツの社会保障の恩恵に預かろう。」とやって来た人だっています。それでもやっぱり、私は彼らとはスタートが違う。日本という豊かな国から来ました。そして自由だ。

私が今、働いている保育園にも、難民の家族の子供はたくさんいます。そのお父さんやお母さんは、あまり自己主張しない、優しい人たちです。


しばらくしてこの職業学校の語学コースは、コロナで閉鎖になりました。そして私は保育士の免許を取るために、働きながら、学校に行き始めました。

同じアパートのおじさんは、よく一番下の息子君と散歩をしていて、道端で話をしました。保育園が見つからないと嘆いていたのだけど、なんと私の働く保育園に通うことになったのです!

息子君はドイツで生まれました。3歳まで家にいたので、入園当初は口数が少なかったけれど、最近はもうドイツ語でおしゃべりしている。お父さんお母さんの母国語のペルシャ語は理解しているらしいけれど、話せません。

「僕は絶対アフガニスタンには帰らない。」

とおじさんは言っていました。だから、息子君も、両親の祖国に行くことはないでしょう。彼は多分、こここでドイツ人になる。

人は世界という広い器に身を置いています。けれど自分の足元だけを見ていたら、自分の慣れ親しんだ価値観だけで、自分を測ってしまう。
顔を上げて、空の大きさを知って、上から自分を眺めれば、自分が全く違って見える。

道端ですれ違うおじさんも、全く違って見える。


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