【製本のある暮らし】本を拵える(コシラエル)ということ。
綴人の note にお越し頂き、ありがとうございます。
その職人は言います。
「私は材料屋ですから、前面に出る必要はない」と。
先だっての個展で私はある出会いをしました。ギャラリーつながりで手漉き和紙の職人さんと繋がることが出来たのです。
自宅から車で40分程のところに「紙漉 さとう工房」を構えていらっしゃいます。個展中に工房を訪ねることのお約束をし、個展の後始末が終わった私の休日に伺いました。
山道をくねくねと上り、すばらしい景色を眺めながらの先に工房はありました。その地域名は軽井沢というだけあってか、平場とは気温差が5℃はあろうかという涼しさです。
まずは楮(こうぞ)の生えている所を見せて頂き、そして職人の簡単な経歴、工房の内見。雑談を交えながらの手漉き和紙のことを伺いました。
職人は「紙漉きだけでは食えません、だから時々パートに。」と屈託なく笑います。
訪問中、常に低姿勢な在り様にかえって恐縮してしまったのですが、しかし、凜とした覚悟を職人の中に確かに見ました。紙漉きだけで独立をするということは並大抵のことではありません。強い意志が必要です。
通された部屋のあけ放たれた窓から見える前庭を、大きな蛇がゆっくりと音もなく進みます。気が付いているのかいないのか、職人は紙の話を続けます。時々私の製本にも話が及び、失礼を承知で「お互い絶滅危惧種のような存在ですから。」と二人の現在を肯定してみせます。
他者からしてみればなんてことの無い会話を、一匹の蛇が緊張感を持たせ、映画の重要なワンシーンの様に変えてくれました。
私は本を拵(こしら)えています。
拵えるとは、形の整ったものや、ある機能をもったものを作り上げるという意味です。
語源として拵(こしらえ)は日本刀の外装のことです。鞘(さや)・柄(つか)・鍔(つば)をはじめとした刀装具の総称です。むき身の刀では怪我をしてしまいますし、錆びてもきます。それらを防止するために外装を施し、いつしか美術品のような拵が作られるようになりました。
「○○を作る」と、「○○を拵える」ではニュアンスが少し違います。量産品を作るのか一点物を作るのかといった違いの他に、覚悟という姿勢も感じます。
資本主義の時代に拵えるという言葉は、使われなくなった気がします。
経済を回すために大量の貨幣を流通させなければなりません。ポイントという言葉で消費を促し、大量生産大量消費である資本主義を実現させなければなりません。ご丁寧に時間をかけ、いいものを作るということでは間に合わないのです。
しかし、少子高齢化、労働人口の減少、そして世界的異常気象が音もなく、先ほどの前庭を進む蛇のように音もなく緊張感を連れてきて、コロナパンデミックが見せつけてくれました。資本主義の限界を。
私は以前から手漉き紙を使いたいと考えていました。どこに使うか、どう使うかはこれからです。職人は、サイズ・厚みは自由にできますと答えてくれました。きっと良い紙を拵えてくれるでしょう。
ますます本を拵えるということが楽しくなりました。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。
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