聖書を読んでクリスチャンになった人間がネットクリスチャンに対して思うこと

初めての投稿です!

可能な範囲で独学で聖書を学んでクリスチャンになった者です。

そんな私がネットで活躍するクリスチャンに対する問題提起をしたいと思います。最初にお断りしますが、私の聖書解釈が正しいとは限らないことは重々承知です。このような考え方がある、程度に捉えていただければと思います。

近年の急速なインターネットの普及とともに、ネットで自分の意見や考えを述べるクリスチャンが増えてきました。ネットの力を使って自分の聖書解釈をものすごい量の人に向けて発信する力を我々は手にしてしまったわけです。

そのことを意識せずに、ご自分の聖書解釈をネットで「大声で叫ぶ人」が多く見受けられます。私は英語と日本語ができるので、聖書は英語と日本語の両方で読んでいます。その後にネットのキリスト教関連の英語記事、日本語記事を読むようになりました。それらの記事では非常に様々な聖書解釈がなされています。全体としては、人々の行動の制約を増やすような投稿がほとんどです。それら全てを守っているクリスチャンをまだ見たことがないにも関わらず、ご自身の理想のクリスチャン像ばかりを述べています。このような現象はネット空間や言論空間でよく見られる現象だと思います。自分のことは棚に上げて、他の人を非難したり、他の人の行動を制限するのです。

聖書を読めば分かるように、我々は神がお作りになったただの人間にすぎません。また、我々は皆、罪を持っています。我々は全くもって完璧ではないのです。であるにもかかわらず、ネットという強力なツールを使って、他人にこうしろ、ああしろ、聖書はこう解釈しなければいけない、と言って良いのでしょうか?それが私の今回の問題提起です。

私がここでやっていることも、他者の行動を制限するのものであることは理解しています。ですが、今一度ご自身でネットを使って聖書解釈を伝えることの危険性について知って考えて欲しいのです。主イエスはそれを望んでいるでしょうか?

あなたから見て間違った聖書解釈がネットに溢れているから、それに対抗するために私もネットで意見を言うんだ、という気持ちもわかります。ですが、聖書を愛する我々が他の人と同じ土俵にあがる必要はないのです。我々がすべきことは隣人を愛することであり、隣人と共に聖書を解釈しながら、もがきながら、泥臭く聖書と共に、神と共に生きることではないのでしょうか?

ネットで意見の違う聖書解釈や、ときには自分と同じような聖書解釈を述べている方にも私は違和感があります。

ネットが聖書と向き合うことを妨げ、我々が神の御言葉ではなく、ある1人のクリスチャンの意見に傾倒してしまうことを危惧しております。

今後このような議論がなされることを祈ります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?