投影という心理効果とエネルギー構造的視点の働き

リスペクトが他者の力を引き出すという記事を前に投稿した。
今回はそれの補足に当たる部分が非常に多くなるため、読まれていな方は先にそちらを参照いただきたい。

前回では、観測者が被観測者に齎す感情、「リスペクト」というひとつの
ベクトルを取り上げ、最終的にエネルギー的影響がどういった働きをするのかについて言及した。

リスペクトという心中に齎された感情は投影というトンネルのようなもの(実際には一直線上に伸びた直通構造ではなく、空間上に穴と穴で繋がれたようなワームホール的な構造をしていると思われるため、物理的距離や構造を鑑みる必要性はない)を通じて他者へと注がれ、それが他者の行動や心理に影響を及ぼす。

リスペクトという他者支配の拒否という姿勢は、他者の将来的なスキルや個性の発揮を促す。
しかし一方で封建主義的な対応が齎す圧力が被圧制側の潜在的スキルを火事場的に引き出す方法論も
あらゆる業種で散見される。
それには被圧制側の「負けるものか」という強い意志と圧制側に盗られてしまうエネルギーの補填能力が
肝になると思われる。
ファミリーカーでもモーターカーのような使い方をすればモーターカーへと進化するという
極めて奇天烈な現象を人間間で起こすには、被圧制側のエネルギー補填能力やエネルギー欠損状態にただただ耐え、スキルが伸ばされるのを待つ、という辛抱の時期を必要とする。
この手法には大きな両面、功罪が存在する。

重要なのは圧力を加える側が、加えられる側への「こいつなら(比較的早急に)できるようになるだろう」
という視点が存在するかどうか、が時期を早期に送れるかを決定すると考えられる。
例えばよくミスをする部下を叱責するシーンでは上司が感情に任せて叱責する裏で、「またこいつかよ使えないな」という疲労感にも似た感情が部下のフェアなチャレンジのフィールドを破壊し、アンフェアな
立場に陥れる。結果、上司は部下の次のミスを誘発することになる。
部下の本来持つエネルギーを奪っておいて、エネルギーを必要とする作業に
身を投じさせるのだからエラーが出て然るべきである。
だいたいの場合、部下と上司が持つエネルギーフィールドが似通っておりこの場合
イニシアチブを持つ上司の方に顛末の責任があるように思われる。が、実際のシーンでは、部下の慢性的なエネルギーの欠如が上司のエネルギー攻掠を誘発していると考えられるため部下側は十全な権力の被害者とはいえない。
部下側の慢性的なエネルギーの欠如(もしくは攻略)は部下と上司のエネルギー交流が巻き起こる前のプロセスであるため、
上司が部下の叱責するという構図をひとつ切り取るとするならば上司側の責任が問われることになるだろう。しかし、どれかを切り取ることなくすべてが繋がっているとし、全体像を眺めたとき、やはり被害者は存在しない。

部下側は日常的なエネルギーの摩耗を真の問題点として神経を使うべきであり、上司の人間性や社会の
性質は二の次だと、エネルギー構造的視点ではいえる。
部下が不当な扱いを受けていると感じ尊厳を奪還するため巻き起こす権力闘争は、上司をコントロールするという目的が据えられているが手段として適切ではない。

上司と部下を結ぶエネルギーは、投影という心理プロセスの段階で存在する。
例えばグーグルの面接では、だいたいの場合白人で三十代から四十代であれば面接に有利であるという
データが存在する。(年齢は違ったかもしれない)実際面接を経た合格者は一時期白人の男性だらけであった(現在では面接官はそういった偏見を加味したうえで能力や人格を優先して面接をするようになった)
これは社会的、国際文化的なものとはいえ、明らかに投影のバイアスであるといえる。
では白人で三十代の人間がグーグルに入社した後で自身のスキルを発揮する機会に恵まれたとき
どれほど自由に他者の束縛を受けず、自身のエネルギーを使用できるだろうか。
肉体の特徴に齎される偏見という枷に嵌らない、という有利な点は昨今のジェンダー問題において非常に有利な指摘点とされているが実際は、学歴や身長、体格などによって人類間で生存に有利と考えられる白人の男性でも不利な投影を受けることは意外にも間々ある。
誘発される機会が多い少ない(と考えられる)という問題であり、無であるという指摘や
片方が圧倒的に有利であるという指摘は有効ではない。

偏見、それは自由の旗を掲げる人類の大きな敵である。(ここでいう自由とは通常よりも実際に取れる選択肢が多い状況や性質を指している。)
そしてそれは夢を叶えた未来の自分(夢を叶えた姿というのは現在よりも自由であることの方が多い)

偏見、という心理状態は何も人種差別主義者だけが気をつけなければならない問題ではない。
グリーンブックで描かれた人種差別のように人類すべてが関係性に”偏見”を持ち込んでいる。
実際、グーグルの面接官はすべての判断において公平に判断したとさえ述べていた。
そのうえで、合格者は白人の男性に偏ったのだ。
つまり偏見という心理作用は今の人類の意識状態にとって、潜在的であるといえる。
真に自身がなにかを主張するならば、必ず、偏見という心理作用を制御しなければならない。
偏見という奇妙な姿のバイアスを御する力のないものに、なにかを語る正当な権利は存在しない。
なぜならば、盲目的なその主張は必ず多数主義に加担するという暴力行為に繋がるからだ。
それができないのならば、自身は目が見えないと主張したその口でこれは何色をしていると声高に叫ばなければならない。
自身が一抹の真理を語らんとする時、あらゆる心理バイアスに神経を研ぎ澄ませなければならず、さらに
ほとんど自動的に持ち込んだ感覚のすべてを一時一時、見直さなければならない。

意外なことに多くの場合、偏見は他者と自身、両方同量近く持つことが多い。
自身が日常の変化に適応し新しきを発見するたび、自身という枠組みに自動的に構成された外殻を手探りで確かめなければならない。
得意だとおもっていたことが環境のお陰だったと気がついたり、もしくはさらに得意になっていたり。
苦手だった事柄や経験が実は違う要因からもたらされたことに気がついたり、実はひとよりも得意である
ことに気がついたり。

偏見という作用には条件反射的な受動性を宿したものと積極的に偏見を活用するという能動性を宿すものの
二種が存在する。
活用、という視点で偏見を眺めたとき、メンタリティを無視することはできない。
偏見を受動的に作り上げる人間というものは真実を選び取ることができず、自身の真実を生きることも許されない。自身の真実と乖離した状態とは本当はもう怖くないものを恐れ、不安を埋めるため重要なリソースを使い行動する。
総じてエネルギーは低下している傾向にあるといえる。
対して能動的偏見の活用には様々な例が挙げられる。
非常に印象的だったのは、エネルギー奪取型とでもいうべきだろうか、メンタリティにおいて
非常に優れたパフォーマンスを発揮するために人との間に(自分に非常に有利な)勝負を持ち込み
勝つことで権力的な振る舞いを増やしよいメンタリティを発揮する例もある。
多くの場合、一方よりももう一方の方があらゆる力が強いとされる関係性に多い。
文化的な背景も多少はあるだろうが、年長者が年下に対して行う場合が多い。
そういう人は「お前はどうせ試してもダメなんだから俺に任せとけ」などこれに近しいことを口にする。
これは積極的な偏見の活用である。
こういう人にとって偏見は自身の背骨を支える重要なファクターであるため偏見を手放すことはない。
積極的な偏見の活用を必要とする人間は、精神的にとても弱い部分を潜在的に自覚している。
過去の強烈な体験を原因とし、その恐怖に負けてしまわないように他者から奪った権力で身を包み、
自身を守護する。
過去に権力的な他者に偏見を持ち込まれ自身が持つべき正当な権力を奪われた経験が、後に奪う経験に
繋がっていることもある。
そういう人間は得てしてまだ自身がその恐怖と向き合うだけの力を持っていないと信じているからだ。
こういうケースは自身が本当に感じている潜在的恐怖に盲目であることを端緒としている。
潜在的な恐怖を手離した状態を自由と称するならば、自由は精神的に強いものにしか手にできないといえるだろう。

以上のように偏見という歪みを利用し、メンタリティを確保することもできるがその裏には
いずれ向き合わなければならない真実や自己成長の機会が存在する。

実は心理学上に存在する投影とは、投光という側面も持っている。
両者はエネルギー的にどんな影響を及ぼそうとも、投影と呼ばれ混同されている。
残念な言葉使いである。
相手の素晴らしい面、可能性に満ちた面を眺め、さらには相手がそれに必要なエネルギーが引き出せるように導くこと。自身の哲学的体系の中で導かれた”投光”とはすでに生きざまになりつつある。

投光と投影、偏見とリスペクト。
両者は同じもののレベルの違いを指している。
レベルが違うため影響が違い、影響が違うため結果が違う。

「どうしてこんなことをしたの!」と親に責められる子供がやがて素直にごめんなさいが言えなくなるよう
に人間の間に持ち込まれる関係性はエネルギー的に紐解くことができる。

重要なので繰り返すが、自分自身との関係性、パートナーシップだけでなくセルフシップを見つめなおして
ほしい。
当然ただ甘やかせばいいというものではないが、人生の中で偶然構築された他者とのいい関係性のように
自分自身を眺めることができているだろうか。
偏見に満ちてはいないだろうか。過去の傷心や失敗からくる感情に今も縛られていないだろうか。

偏見を眺める時に役に立つ言葉はほかにもある。「カテゴライズ」だ。
自身が何かにカテゴライズされているとき、それはデータの顔をした偏見だ。
データとは客観性を命とする。
演説の際に噛んで赤面した経験があったとする。「自分は人前でしゃべるのは苦手だ」と考えているとき
それは偏見であり「喋るのが苦手な自分」としてタグが付けられている。
偏見のないデータとしてのタグはこうなる。「あの時、自分は人前でしゃべるときに噛んでしまった」
期間が明らかであり出来事が(将来の事象に対して連続性のない)一時的なものだと知り、本当の自分の性質にはにはなんら関係がないという理解が存在する。
リスペクト、とは次はもっとうまくやれるだろう、という信念をも指し示している。
その信念が「緊張すると噛みやすい」という現状の性質を書き換えるチャンスを開く。

偏見がメンタル面において仮想的とはいえ非常に権力的な機能の仕方をする一方で、客観的なタグ付けという認知の改善は(今まで以上のよいエネルギーを必要とするとはいえ)かなりうまく当人を暗い過去から解放し自由にすることができる。
これはあらゆるカウンセラーが重要なこととして認めておかなければならない。
トラウマや傷心から自由になるよう認知の変化を勧め患者がそれを即座に実行できる場合、患者の傷の状態は非常に軽微であるとはいえ、時間が多くかかっても、思い込みを外しより事実に近しい認知を優先することは多様化を許され追い風さえ吹いている現代人にとって最も重要な精神要項であるといえる。

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