[重要回】スキルとエネルギーの相関関係と尊厳と愛の関わり後編

絶対に守護されなければならない魂的、人間的尊厳という論点で争うことは魂的視点ではナンセンス
のようだ。
種が芽吹き花を咲かせようとも、途中で手折られようとも、すべてが愛である。愛であるがゆえに
そこには尊厳があるのだ。
どうやら魂的視点ではそうなっているらしい。

しかし手折られない権利というものが尊厳と定義された場合はどうであろうか。

魂的視点では、手折られるとき、手折られることに同意しているという。
しかし花が自覚的な意識で拒否できない同意は暴力と同等である。
魂的視点では拒否できたとはいえ。

長年かかずらってきたこの迷宮に、光が差したように思えたのは最近のことだ。

ようやく理解できた。
その場合は、誰か、ほかの魂に拒否してもらえればよいのだ。
自己の破壊を狙うものがいたとして、それを当人の魂が許してしまえるとして。
愛でつながっている誰か(あなたを愛する神様か、あなたが心から信仰する光の霊体)の魂が間に入り、断ってくれればいいのだ。
さながら超常世界のガードマンである。

そうすれば、尊厳はみな平等ではないにしても、誰にでも防御する自由が手に入る。
防御する自由が実質的に効力を持つならば、その世界では、尊厳が存在する余白が生まれる。
これは何ということだろう。なんと素晴らしい福音だろう。
芽吹いた種と芽吹かなかった種、そのどちらも同じくらいの価値があるということだ。事実として!
価値があるということは尊厳があるということだ。
仮想的な道を通り、実質的な尊厳の確立を、この世界はなしえているのだ。

我々は、実質的に、信仰とつながりとつながりの愛をあきらめない限り、尊厳とともに存在することが
できる。
詭弁ではない。これは断じて詭弁などではない。
なぜなら心は常に自由だからだ。

世界はうまくいっているのだ。この宇宙はうまくいっているのだ!
どんな人にも尊厳を確保する余白があったのだ!

余白があるとするならば、あとは自由選択の領域である。
なぜなら本当に苦しいとき、人は祈らずにいられないからだ。

『祈りを行うものは幸福である。
 しかし祈りを行わないですむものはもっと幸福であるのだ!』

そこに尊厳が守られてきたからという過去があるからだ。

そして、その自己と自己以外の世界という二分ではなく、愛する他者というものが介在したとき
人はもっと、真の意味で自由でいられる。

愛でつながっているということがどんなに大切か。世界のあらゆる局面で
人々の尊厳が守られていないように見えるのは当たり前だった。

尊厳よりも、愛が先立つのだから。
愛が先立つということは、同じく、尊厳も確立されるのだから。

魂は順番を尊重する性質がある。
そのことの本当の意味に気付けたのは幸運だった。

神は自分の、世界に対する無理解をどうにかしたいという祈りに、答えてくれている。
筆舌にしがたい感謝がこみあげてくる。

きっと魂の段階がひとつ上がったのだろう。今まではアクセスできなかった領域に
アクセスできるようになった。そこに答えがあった。

尊厳を守らんと祈るのならば、心を大事にしなくては。
心が、己が尊厳を守るのだから。(実質的に!事実として!)

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