頑張る人の自由

頑張るという発想や考え方は自分にはかなり日本特有のものに見える。 
物事にどう取り組むのか、という問いには、思考の枠が自然に外れていた場合、無限に等しい数、解が存在する。
しかし「頑張る」と決めた途端、自分が物事にどんな姿勢を取るのか、という広大な広がりが一気に収束して
「頑張るってトライする」という一点に集約される。
自分が物事に対した姿勢を決定するとき、まず未来の結果よりも自分が持つエネルギーのバイアスが決定する要項のほうが
重大である。という背景を念頭に入れて読み進めてほしい。

物事を継続して行うとき、当然ながら必ずしも頑張るという姿勢や精神性を必要とするわけではない。
かといって頑張っていないかといって手を抜いているわけではない。淡々と即することもまた手段のひとつである。
陰と陽の二元性に照らして考えるなら、頑張るという姿勢はとても陰の気質に偏っている。
そのバランスを崩していない限り頑張ることも陰に偏っていることも、悪しきことではない。
陰の気質は長期的にスキルや精神を養うに適した状態であるからだ。
逆に陽に偏った状態は、物事の継続に適した状態とは言えない。力のある陽の状態は、自然に人を励ましたり
物事をより楽しんだり豊かな経験をするに役に立つもので感応的であるため同時に刹那的なものである。

そもそも我々はこの世で何かを成すために生まれてきたわけではない。
しかし成せることがこの世に多ければ多いほど、人は充足感を高められることもまた自然的な真実であると思われる。
重要なのは、頑張りたいところまで頑張っているか、頑張る以外の選択肢がそもそも視野に入っているか、自分の今の状況
で頑張るというプロセスが本当に必要か、という”多角的な視野があるのか”どうかである。
我武者羅という言葉は高い活動性を示唆する一方で、世界に対する高い盲目性をも示唆している。
明瞭な視野を持つ人間には必要のない道程であるといえる。
しかし戦前までの日本では、高い活動性ばかりが「勤勉」と持て囃され視野の蓋然性は置いてけぼりを食らっている。

話の気色が変わるが、スピ業界では二極化というテーマが持ち上げられて久しい。
安心する人はより強い安心感に、不安な人はより不安に、お金持ちはさらにお金持ちに、貧乏はさらに貧乏に。
彼らは今この時に自分がどちらの極を選ぶのかが重要なのだ、そう語る。
しかし自分はこう思うのだ。実は世界は二極に分断されてはいない。分断されようともしていない。
ただ停滞していた状態が加速している流れは存在する。白と黒に分かれるとすれば、グレーゾーンにいる人がよりどちらかを
加速的に選びやすくなっているだけであり、グレーゾーンそのものが大きな壁によって阻まれるかのような解釈や語り口は
間違いであると思っている。
現代人は古代人よりも(技術的にはもちろん、なにより)精神的に自由になりつつあるのだ。

Subakoの理念に掲げた文言の一つ。思考の枠を外して自由になる、というものがある。
頑張るという行為は、精神的に自由な人間が選ぶことはまったくないということはなくとも、実に少ない。
非常に限られた場面、限られた時の中で行うくらいである。
精神的に真に自由な人間は頑張るという行為を経て手にする成果の後ろ側で、そのために受け入れた思考の制限を
みることができる。
精神的、思考的制限を受け入れる、このことはエネルギー力学的(エネルギーの散逸や相互上昇の結果予測)に、エネルギーの低下を誘発することを生涯受け入れた自分が見えてしまうのだ。
ここまで考えれば、多くの頑張る人が考えているほど、頑張るという手段のコストパフォーマンスはよくないように思われる。
ただ一方で、頑張ることで己の限界を超える人が常人には成しえないことを成すこともまた一理である。

先述したが、我々は何かを成すために生まれてきたわけではない。
実は、「何かを成したい」という欲求は人間の潜在的にあまり強力なものではない。
潜在的な欲求で最も(といってもいいほど)強いものは『自分が人にいい影響を与えているという実感と現実』である。
どんな人間もこの欲求を無碍にすることはできない。できるとすれば親や教師といった人生で時折現れる”権力者”が
当人の尊厳を踏みにじる傍らでこの欲求も一緒に踏み潰すこと。そこで生じた屈折が将来的にその欲求を封ずるに繋がる
と考えられる。
芽となるのが自己肯定感であるからだ。人はそれを無碍にすることはできない。
自己否定を繰り返す人も表象的にそうであるだけで、真に自己を否定することはできない。
この文脈で扱う『自己肯定感、とは超潜在的で根源的なものに限定されており、根源的な生の実感そのものと相違ない』

『何かを成したいという欲求は必ずと言っていいほど、「人にいい影響を与えたい」という結果と欲求とに
癒着している。』

頑張るという手段は、長い道のりの登山であると考えられている。
しかし実はそれは正確ではない。なぜなら我々は(時の始まりから時の終わりまで)常に完璧だからだ。
努力して自分ではない何かを目指す必要はないのだ。

「人にいい影響を与えたい」という潜在的な願いは、意外なことにすぐに叶う。
なぜならば、周囲の人間に微笑むだけで十分にいい影響を与えているからだ。
そして心から微笑めるように、常に自分が幸せになるように工夫してあげればいいからだ。
歓迎できないことがその身に起こった時も、自分がご機嫌にいられることを再選択する利口さと辛抱強さを
養えばいいからだ。
生きることや人間関係においてすべて安心していればいいからだ。
内側に存在するすべての幸福と光をもって他者を照らすことよりも自分が他者に与える”いい影響”は存在しない。
今の自分には何かが足りないという強い幻想から覚め、今ある幸せと豊かさを決して軽視せず感謝し実感すること。
この境地では、頑張らないと、という不安と癒着した強迫観念が力を保つことはない。

これが陰陽という二元では適えることのできない一次の世界である。
陰の極致の頑張るという手段が頭に過ることがないほど、人はこの世界にうまく生きていくことができる。
頑張り屋の人間は、”自分が過去に手放した自由”を取り戻すことを自分に許すことによって、住むことになる次元を
上昇させる。
その次元では、『実は自由はいつでも取り戻すことができた』ことに次元上昇の後に気が付く。
そうやって、過去次元の自分を崩し人は自由な未来を描くことができる。
空を覆う暗雲さえも、突き抜ければ虹がかかっている。
自由を軸として構成される次元上昇の螺旋は、雲の先にも伸びているのだ。

人は誰かに微笑むために生まれてきた、という文言では、詩的であっても以上のことを正確に指し示したことにはならない。
人生の中で微笑んでいないときがあったからといってその生の否定にはならないからである。
自由の螺旋を昇るとき、人は正しい後悔というものをすることができない。
なぜなら時の始まりから終わりまであなたは完璧だったからだ。(そしてこれからも)

人を励ますとき、多くの日本人は「頑張れ」という。
しかし『本当に人を励ますことができるのは、本当に笑いたいときに人と笑い合うことと、今の幸せを十分に噛みしめ
心から感謝しその満足感を以って日々を生きること。
そうして出来上がった高次の幸福のフィールドに次元上昇ができていない人を招き入れることである。』
それが自己犠牲を伴わない励ましのプロセスである。

これは余談になるが、鋼の錬金術師で語られる等価交換の法則というものがある。
言えば質量保存の法則のもととなる考え方なのだろうが、物質的には兎も角これは世界的真実ではない。
何かを得るのに何かの代償が必要である、という考え方は現実において非常に強力であるように思われる。
しかしそれが一部の事実であるだけでこの世の真実ではないことを自分は学ばせてもらった。
いつだって真理は均等に分配されており、その中から可否を自分たちで定め屈折を生じさせるのだ。

自分がパワーストーンのエネルギー状態を心配していた時だった。
(本当に気遣かわなければならないのは自分の方なのに!)

パワーストーンの持ち主は、会話の中で自然にこういったのだ。
「人と石が共鳴して良くなってゆく」と。
自分は彼女の言い分が実感を伴う真実であることを直感した。
この世のほとんどのものは振動している。その振動数によって先の結果が変わる。
振動数が高ければ高い振動数の現実を、振動数が低く鈍ければその現実を創造する。
(愛や喜びは高い振動数)

石が人を助けるわけでも人が石を助けるわけでもない。
お互いがお互いの存在と共鳴することで、お互いが善くなってゆくのだ。
これは人間と人間でもできる。これを意図したい、高次のレベルでこの状態を創造したいのだ。
ゆえに人は孤独であってはいけない。相性のいい人と積極的に一緒にいて、善い共鳴を起こしてゆくこと。
何の犠牲も創造されない。ただただ周囲と”合わせて善くなってゆく”だけなのだ。
陰と陽の二元を超えた先では、こういった奇跡が当たり前に起こる。
向上を拒否する暇もないほど、うまくいく人生は時代的にもすぐそこまでやってきているといえる。
それが非常に楽しみでならない。


『今回は非常に重要な話を取り上げたので、重要だと感じたところを何度か読み直していただけると嬉しい』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?