夫婦同姓 制度導入の問題①

今回は、宗教から離れて、いま自分にとって気掛かりである、夫婦別姓制度の問題を取り上げてみたい。

夫婦別姓の制度導入についての議論は、今に始まったものでは無いが、近頃はいつにも増して活発化しているようにも見える。

実在、つい先日も、NHKがアンケート調査を実施し、別姓を支持する人達が多数に上る結果が出たことを報道していた。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240501/k10014437371000.html

制度導入を推進している人達は、この制度が夫婦別姓を強制するものでは無いことを強調している。

導入を支持する人が多い理由もそんな所にあるのであろう。

つまり、自分自身が結婚してもパートナーと別姓のままでいることを望んでいる訳ではなく、あくまでも「別姓を望んでいる人達がいるのであれば、その人達が望む道を選択する権利はあって然るべき」と考える人がこの国には多いのだろうと考える。

もしパートナーと別姓になること自体を望んでいる人が多数派であるなら、上記のようなアンケート調査の報道でも、その旨を併せて報道しているはずである。

ここで、「自分自身が別姓を望んでる訳ではないが、制度の導入自体は支持する」人達に、是非とも考えて頂きたいことがある。

制度導入後の日本社会がどういうものになるかを想像してみると、同姓支持者と別姓支持者は、言うほど簡単に共存出来るものではないのではないか、ということである。

両者の関係はトレードオフとまでは言えないにせよ、少なくとも社会は夫婦別姓こそがデフォルトであり、同姓を望む人達の方がオプション扱いになるべく再設計される方向へ誘導される。

制度導入を推進する人達が、別姓を認めてない現行の制度を、「男女差別の温床」という文脈で批判していたことを思い出して頂きたい。

本来なら、別姓が認められないと言は言え、現行制度が、男性が女性に合わせて姓を変えることも認めている以上、男女差別と批判されるいわれは無いはずだが、我が国では、女性が姓を変える事例の方が圧倒的に多いという現実がある。

こうした「女性の側が男性に合わせるべき」という因習や先入観を打破することが、制度導入の重要な動機の一つになっていることは間違いない。制度導入は、日本国民の意識改革を促す有効打としても期待されている。

女性が男性に合わせて姓を変更する、という「当たり前」にメスが入れられる。そのこと自体は、社会の必然なのかも知れない。だが、そうした意識改革を主な動機としてこの制度を導入し、その先に何があるかを突き詰めて考えてみると、「夫婦の苗字は同じであるべき」という「当たり前」意識にもメスが入る未来が想像出来る。

実際に、制度が導入されれば、夫婦の姓は必ずしも同じではなくなる。仮に、別姓を選択した夫婦が数としては少数派であったとしても、その人達が別姓を選択したことで不利益を被るようなことは許されない。勿論差別など、言語道断の所業である。

だが、ここで言う「不利益」とはどのようなことを指して言うであろうか。具体的に考えてみると、結構厄介な問題を抱えていることに気づかされる。

例えばハラスメントの問題。昨今では、悪意・故意の有無にかかわらず、受けた当事者が「差別された、不当な扱いを受けたと感じた」「不快な思いをした」と感じるなら、それはもう立派なハラスメントの範疇に入る。

「私個人の苗字を尋ねておきながら、配偶者の苗字を尋ねないのはどういう了見か?同じ苗字だとでも思っているのか?」このようなことを訴えて、訴訟問題にまで発展するような事案が、何らかの日常のシチュエーションの中で起こり得るかも知れない。

そういう事態を事前に想定して、家族の氏名を記入する必要がある書類は、必ず構成員全員の苗字を記入することが義務付けられる(子供が親と同じ苗字とは限らないので)。

家族の名前が尋ねられるような場面では、どんな場所であっても、フルネームで答えることが、義務ではないとしても、そういう暗黙の了解(同調圧力)が形成される。

つまり、家族の構成員が、必ずしも同じ苗字とは限らないので、ファミリーネームという概念は消失する。「磯野家」とか、「田中家」などという呼称は迂闊に使用出来なくなる。

私が問題だと考えるのは、それらの呼称が、存在意義を失って自然消滅するのではなく、別姓を選択した人に配慮しする為、意図的に葬られる可能性が高いことである。

姓は、最早ファーストネーム同様、個人を識別する場合にのみ機能し、家族を表象する言葉ではなくなる。それだけなく、家族を表象する言葉自体が禁句となる社会。

これらのことに加えて、兄弟・姉妹も、それぞれ別々の姓を名乗ることも許されるようになったとしたら、日本の家族は一体どのようなものになるだろうか。

ここで忘れてならないのは、何も知らずに産まれてくる子供達には、その選択権がない、ということである。夫婦の苗字が別々。兄弟・姉妹の苗字もバラバラ。そうした、親が選択したこと行為の結果を、子供は産まれながらにして背負うことになるのだ。

今の段階でこのようなことを書くと、「単なるお前の妄想だ」とバカにされるだけかも知れないが、だが、「マイノリティへの配慮から、「父親」「母親」という呼称を止め、「親1」「親2」という呼称をするべき」というようなことを主張する人達が実在する以上、上記の懸念は、あながち的外れな懸念とも言えない気がする。

仮に、自分自身は別姓を望まないし、互いの姓を揃える為に、自分の方が相手に合わせて改姓することも厭わない、と思っていたとしても、制度がいったん導入されれば、上記のようなものになるべく、日本の社会は再設計を余儀なくされる。

本当に、それでいいのだろうか?

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