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初めての税務調査


 ある日、上司である統括官に「明日調査に行くから」と言われてしまった。
 いきなりだな、と思った。もちろん自分が調査部門だってことは分かっていました。いつかは調査行くのだろうとも思っていた。でも、いきなり「明日」と言われるとは思わなかった。
 実務上は調査の日程は前もって会社に連絡しているのがほとんどだし、調査の日はあらかじめ決まっているものだ。前日にいきなり僕に伝えるのは、僕をあまり緊張させないように「気楽に見学をさせよう」という統括の心遣いだったのでしょうが、当の本人の僕はそうは考えられない。調査かよ、いきなりだな、すげえのが始まるぞ、そう思ってしまった。
 税務署員にとっては、特に調査部門の職員にとっては調査は日常だけれども、僕はそうではない。とりあえず公務員かな、と試験受けたら受かってしまったので、行けそうなところのうち大学で経営学科だったから大学の勉強に一番近そうな税務署を選んだだけだ。では経営学を勉強したのかといえば、そうでもなく出席だけで取れる楽勝単位ばかりで固めて、成績はCばっかりの不勉強な学生だった。
 だから、税務調査のヤル気も予備知識も正義感もない状態でした。新人研修時に「税務署員って商店街歩いていると水をかけられるんだって」という噂を聞いたのが税務署員についての唯一の知識でした。
 だから、「明日調査」と言われたら、妄想が始まってしまいました。怒鳴り声はあるよな、税務調査だから。「おい!このヤロー!税金払えよ!おら!」とかいうんだろうな、そしたら相手も「ふざけんじゃねーよ、そんなもん払えっかよ!ばっかじゃねーの!お前!」みたいな?罵り合いの想像力が貧困だけど、実際の罵り合いは実家の田舎の駅前でたむろするヤンキーがやっているのしかみたことないから、罵り合いの作法が分からない。
 それに僕はヤンキーではない。温厚な一般人なので罵り合い自体に慣れていない。そういうのを想像すると、緊張と興奮が入り混じったものが胸の底からぐわ〜っと上がってきてしまう。ドキドキしてくる。そんな争いが始まるんだろうな。Fさんすごく優しいけど、そんな風になるのかな。えっ、俺はどうすれば良いんだ?何をするんだ?そんな怒ったFさんをなだめる役なのか。よくある刑事ドラマとかで一方怒りまくって相手を脅かして、もう一方がまーまーって温情を見せて犯人に心を開かせるやつ。俺がそれをやるのか?それは無理だな。第一その温情役はベテランはやるもので、若手はキレる方ではなかったか?では。とすると僕はブチキレなくちゃいけないのか。それは僕にはなおさら難しいな、ていうか無理だな。
 そんなことをず〜っと考えてしまうようになりました。仕事も手につかず家に帰ってもぼーっとテレビを見ながらも上の空で、明日の調査のことばかりを考えています。ベットに入ったらもっと妄想がひどくなってしまって、グルグル考えてしまって眠れません。ほとんど一睡もできないような感覚のまま朝になってしまいました。

 次の日、完全に寝不足の状態で調査に行くことになりました。灰色の軽自動車に僕とFさんと、なぜか統括も乗り込む。統括も行くんだ?じゃ俺の立場は?というか役まわりは?キレる方じゃないの?なおさら立ち位置が分からなくなる。
 軽い困惑のまま、Fさんが運転する官用車で調査する会社に向かう。男三人で小さい日産マーチに乗っていると、ちょっと窮屈な感じもして、ルパン3世で小さいビートルにぎゅっと乗っているルパンと次元と五右衛門のイメージになる。ちょっとかっこ悪いよな。調査って、もっと颯爽とやるもんじゃなかったのか。
 そうこうしているうちに会社に着いた。会社といっても事務所ではない。事務所裏の社長宅だ。中からおじさんが出てきて「そこの駐車場に入れてもらって結構ですから」と慣れた様子で生垣横の駐車スペースに誘導してくれる。そのうち、お爺さんが出てきた。結構ヨボヨボなお爺さんが穏やかに笑っている。あれが社長なのかな、随分年寄りだな。そう思っていたら、もう一人お爺さんが出てきた。こちらはそれほどヨボヨボではないけれど、それでもおじさんではない明らかなお爺さんレベルの人だ。「今日は統括官もお見えで〜」と言いながら出迎えてくれた。こちらは税理士かな。う〜む、お爺さん2人におじさん1人。お爺さん率高いな。それが3人揃ってのお出迎えだ。税務署ってやっぱり偉いのか。そしてなぜかみんな穏やかに笑っている。
 和やかな雰囲気のまま、応接間に通される。会社の応接スペースではなく、完全な自宅の応接間だ。それほど大きくはない。壁沿いの棚には五重塔とか人形が置いてあって、入り口近くにピアノが置いてある。反対側は大きめの窓があって、庭からの入る午前中の日光が眩しい。部屋の奥にソファとテーブルの応接セットがあった。お爺さんたちは、そこに座りながら軽い自己紹介を始めた。お爺さん二人はやはり社長と税理士で、彼らより少し若いおじさんは税理士事務所の社員でこの会社の経理を担当しているようだ。
 応接間の一番奥のソファに社長と税理士と統括官が座り、その手前にFさんと経理担当者が向かい合って座るとソファは満席になる。座る場所のなくなった僕は、なぜか入り口横のピアノの椅子を応接セットに向けて座らせられる。低いソファに座った五人をピアノのちょっと高めの椅子から、僕が見下ろしている状況になった。確かによく見える。
 調査は和やかな雑談から始まった。多分世間話から始まったような気がする。しばらく5人でお話をしていたけど、僕は全く入れない。そもそも年齢層が高すぎた。統括をお爺さんというのは失礼かもしれないが、白髪ののんびりした統括が税理士と社長のお爺さん二人と穏やかに話していると20代の僕からすると、もうお爺さん枠としか言いようがない。奥の三人が完全なお爺さんで手前はちょっと若めの、と言っても40代後半からのFさんと担当者の二人がいたけど、会話の中心は完全にお爺さんたち偉い人中心で進む。奥のお爺さんたちが、小さい声でゴニョゴニョ言ってるけど、何を言っているのか分からない。多分会社の景気がとか業界の動向とかを言っているようなのだけれど、物理的によく聞こえないし、たとえ聞こえたとしても新人の僕にはチンプンカンプンだっただろう。取り残された、場違いなところにいる感じがする。ぼーっと聞いていたら、いつの間にかFさんが分厚い書類を見ている。書類を見ながら「それでは何々を持ってきてください」と言って、また別な書類を要求して、経理担当者が奥に取りに行くようになった。いつの間にか調査が開始したようだ。奥の席の統括官と社長たちはまだ話している。怒鳴り声は起きないらしい。
  応接セットの小さい机の上はすぐに書類でいっぱいになる。その間、調査は流れるように静かに粛々と進む。怒鳴り声もないし、静かで戦ってる感は一切ない。本当は駆け引きとかあったのかも知れないけど、初めての僕には何も分からなかった。書類が出てきたらFさんはおもむろに調査用のノートを出して、何か数字を書いている。質問があれば経理担当者にするのだけど、お互い専門家なので短い質問を二、三言すれば相手はすぐに分かってしまう。でも、僕は何を質問しているのか分からないし、出された書類が何かもよくわかりません。上司の統括官は社長や税理士とまだ雑談しています。
 そのうち奥のお爺さん達も話題が尽きたのか、会話が途切れがちになってきた。それほど広くない部屋に6人もいるのに、静寂が広がった。
 なんかよく分からないけど、税務調査ってこんな感じなんだ。静かだ。こんな穏やかなんだ。怒鳴り声なんてないじゃない。すっかり気が抜けてしまった。
 暇だな〜、やる事なくてつまんないな〜なんか仕事ふってくれないのかな〜つまらないとこんなにゆっくり時間が進むんだ〜。税務調査って「おら!税金出せよ!」って怒鳴り合いながらやるものだと思っていたから、意外と静かにのんびり進むんだなと思った瞬間に急に緊張がとけてきた。やることがなくて暇になると途端に眠くなるのが僕の習性だ。学生時代からつまらない授業は寝てしまうのが常だった。しかも昨晩はほとんど寝れてない。

「ほら、先生!」
 ハッとする。Fさんの怒声が聞こえたような気がした。僕が怒鳴られたようだ。午前中の日光をもろに背中に受けて、暖かかった。きっと後光がさしていたと思う。
 そんな感じだから、僕は最初の調査の内容は何も覚えていない。

 その後、いろんなことを経験するにつれて色々わかってきた。まず、統括官は調査の現場にあまり出ることはない。でも、僕の最初の調査なので出てきたようだ。なので税理士は軽くビビってしまった。それで「統括官がわざわざお出ましで?」という発言になるのだが、別に税務署側もこの会社が何かしたとは思っていない。僕が新人なのを見て、税理士も統括官が出てきた意味がすぐにわかったのだろう。安心して世間話をしていたと思う。統括は、僕が調査初めてなのであまりトラブルになりそうな会社は避けて、これまでの調査実績から見て優良そうなトラブルの起きなさそうな会社で、前回調査から数年空いたのでとりあえず行ってみよう、という感じで来たのだと思う。
 それでもFさんはしっかり調査していたのだと思う。帳簿を見出したら、Fさんの雰囲気は急に変わった。雑談は統括官に任せて、バリバリ帳簿を見ていたと思う。でも、僕はそれらを全く理解できていなかった。優秀な先輩の調査をすぐそばで見れるのは、そんなに機会があるわけではないので本当は良い経験なのだろうけど、その当時の僕の能力では、ベテラン調査官の調査なんて次元が高すぎてわかるわけがない。でも、Fさんの本気モードの雰囲気が分かっただけでも良い勉強だったのだろう。
 調査が穏やかに見えたのは、表面上の事だけだ。税理士はともかく、社長は統括官を含めて三人も税務署員が来たので、相当ビビったと思う。穏やかだったのは、あくまで表面上の愛想笑いだ。真面目にやっている会社にとっては、税務調査は煩わしいもので、早く終わらせ早く帰ってほしい。それが本音だったはずだ。だから、感情的にならず、事を荒立てないで、協力をする。今思うと、調査を受ける社長も立派な応対だったと思う。
 お爺いさんが多いと思ったのは、僕がまだ調査を知らなかったからだ。都会と田舎でだいぶ違うが、田舎では社長は年寄りばかりだ。50代だと若いと感じる。40代だとすごく若い。30代以下はほとんどお目にかからない。そういう若くて起業したい人は都会に行くのだと思う。だから社長60代、税理士60代なんていう調査はいくらでもあるケースだ。
 新人の頃の調査は、本当によく覚えている。思い出すと恥ずかしい事ばかりだ。普通、調査の初日に寝るか?昔に戻って若い自分を叱りつけてやりたい気分だ。でも、一方でよく頑張ったよな、と思わなくもない。滑稽に見えるが必死だったのは確かだ。いや、必死だったから面白いのかもしれない。

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