特別であること


特別であることは良くも悪くもない。

世の中で愛されるものは、軽くて綺麗なものだから。

軽い足取り、軽い心、軽い頭で、流行に乗れる軽い気持ち。みんな好奇心で重たい心に触れようとするけど、結局持ち上げられず、持ち上げられても疲れてすぐに投げ捨ててしまう。だから結局軽いのが1番いいらしい。

例え特別であったって、それは好奇の目につくだけで、たちまち取り残されてしまう。みんな求めるもののところへ駆け足で行ってしまう。みんなが求めるものなんて、ぼくにとってはどうでもいいもの。興味なんて持てないもの。


ああぼくは、

どうしてこんなに心が重くなってしまったのか。

どうしてみんなどこかへ行ってしまうのか。

ぼくはやっとぼくらしくなれたのに、どうして誰も認めてくれないのか。

心が重たくなってしまったのは、捨てきれなかった感情のせいだろう。湧水のように止まず溢れる感情を、流さず大事にしすぎたから。みんなが見落とす些細な感情、塵のように埃のようにみんなが扱う感情たちを、コレクションのように貯めてきた。ぼくにはとても大事だった。

悲しみを拾い集めていたらいつしか綺麗な青の月がぼくの心の中にできた。喜びをかき集めていたらいつしか綺麗な赤の太陽がぼくの心の中にできた。太陽と月がぼくの心でぐるぐる回る。外の世界では規則正しく回るけど、ぼくの心じゃ不規則に、激しく、そしてゆっくりとぐるぐるぐるぐる回るから、ぼくは疲れて死にたくなった。

ぼくはぼくだけの太陽と月のリズムで暮らしていたら、いつしかみんなについていくことはできなくなっちゃった。みんながぼくを置いていってしまうのか、ぼくがついていかないのか、それはあまりよくわからない。

みんながみんな同じ景色を見ていないということに気が付いてから、ぼくの重い心は少しばかりか軽くなった。

どうしていつも「軽い」というのはいい表現に使われるのだろう。「気持ちが重くなる」って言葉が「心に感情が溢れる」っていう意味なら良かったのに。「重たい言葉」っていうのが「愛が詰まった捨てられない言葉」っていう意味ならきっと救われたのに。「重たい荷物」には思い出がたくさん入っているはずなのに。どうしてみんな軽いのが好きなんだろう。その重さを受け止められない力のなさは誰も責めない。ぼくの重い心には、いっぱいの言葉と気持ちが詰まっているのにね。


とはいえ、誰にも愛されなくてもいいじゃないか、なんて言えない。少なからず君だけはぼくを愛してくれてるように、決して特別じゃない君のことをぼくは愛しているのだから。君すらぼくを受け入れられなくなった時、ぼくはこの重たい心を海に投げ捨てる。そして魚に食べられて、その魚の一部になって海の中を旅するよ。

自分が特別だなんて思う奴にロクな奴はいないって?それはそうである。みんな自分が特別だと思いたい。ぼくは他の奴らとなんか違うんだって、誰だって思いたい。みんな「私なんて」とか言いながら本当は自分は特別なんだと心の底で思ってる。そしてぼくがまさにそう。でも決して「ぼくなんて」なんて馬鹿な真似はしない。きっとありふれた、自分に酔った頭の悪い人たちと同じように、ぼくは五万といる人間なのであろうけど、ぼくはぼくが特別なんだと思う。そういう風に、ある日友だちが教えてくれてから、自信を持ってぼくはぼくが特別だと言える。

けれどもう一度言っておく。

決して、特別であるということが、人に愛されるわけではないのだ。

むしろ人は、自分と同じ景色を見てる人たちと群れあい、自分のその軽さを信じ、否定されない世の中を、愛すのである。


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