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愛情はひとりで生み出せないものなのか



愛着障害

私が子供の頃に診断された数々の謎の診断名の中に「母原病」「愛着障害」というものがありました。

私は幼かった当事者なので今私の記憶にあるものがどの程度客観的なのかわかりませんが…。

私自身の記憶では「暴力的で高圧的で気まぐれで外面がよくてプライドの高い父」と「そんな父のことを妄信的に好きで、自分の意見を持たず、なんでも人にお願しちゃう他力本願&他責発想な思考力の足りない母」の長女として生まれました。

父が子供好きなのはなんとなく理解できてたんですが「お前のためだから」タイプの思考の人。
いろんなゆがんだルールを押し付けて、思い通りにしたい人でした。
幼稚園までは殴られた記憶は薄いですが怒鳴られたことは数知れず。
小学校以降は殴られた記憶はたくさんのバリエーションで思い出せます。

幼稚園の時には「こんなお父さん嫌だ」と思っていて、母にも祖母にも伯母にも何度も相談していました。
でも、「それでもお父さんだから」「親は大切にしなさい」「人生は楽しい事ばかりではない」のような救いのない事ばかりでした。

私が幼稚園に通う頃に妹が生まれ、ますます私の負担は増えました。
小学校に入る頃にはメンタル壊れていたし、初めて死のうとしたのが2年生の時。
そこからは「どうしたら父の影響を受けずに生きられるようになるか」ばかりでした。
私を娘のようにかわいがってくれていた伯母に「私を育ててほしい」と頼んだこともありましたし、母に「父と離婚してくれ」と頼んだこともありました。
…母は看護師をしていたのである程度の収入があったし(後で知った事ですが父の方が稼いでいた時期もあったとはいえ、生涯収入では恐らく母の方が上です)、家事は私も助けていたし、最悪祖母に戻ってきてもらえばいいと思っていたので母が離婚しても生きていけない人だとは思っていなかったので。

結局当時の母は父と別れる事なんて1ミリも考えられないほど溺愛していたので(20年後に離婚成立しましたが)子供だった私は出口が見えない迷路の中でもがき続ける日々でした。

負のループは連鎖する

もう、自分が子供という立場でまともに「温かい家族」を望むのを諦めていた私ですが、中高生の時に衝撃的な話を耳にしました。

自分でも自分の家族がおかしいと気付いていた私は「いつか自分で心温まる家族を築けたら」と思うようになっていました。
その為にも「何がおかしいのか」を知らねばと色々と勉強していました。

虐待とはどんなものか。
育児放棄と過保護はどちらが悪影響なのか。

非行に走ったり、犯罪を犯すようになる背景として生育環境を語られることもあるけど、似た境遇でもみんなが犯罪を犯すわけでもない。
その違いは何なのか…。

そこで見かけたのが「虐待された子供が虐待される辛さを知っているのになぜ大人になって虐待をするのか」について書かれた文献を読んだことがありました。

…衝撃でしたね…。
痛みを知ってるのに、自分の代で断ち切りたいのに、負の連鎖が止められない人たち。
自分もそうなるのかな…と慄然としました。

自分を愛せない人は人を愛せない

同じように衝撃を受けたのは「自分を大切にできない人は人を大切にできない」という言葉でした。
この言葉にも自分を全否定された気がしました。

私自身、未だに自分の見た目が嫌いです。
鏡を見るのも嫌いなあまり、ほとんど化粧もしません。

完璧を求めて育ってきた反動なのか、もともと持って生まれたものなのか、完璧主義の傾向をまだ引きずっているので(他人に対してはできないことも気になりませんが、自分に対するジャッジが厳しい)ダメな所ばかり目につきます。

でも人には真摯に向き合ってきたつもりだったし、嘘偽りなく関わってきたつもりでした。
だから「自分を愛せない人は他人も愛せない。必ず見返りを求めてしまう」と聞いた時に、また生きている意味を見失いそうになりました。

どんな人生を正解とするかは自分が決めればいい

でも思ったんですよね。
「まずは自分が満たされなきゃ人を満たせない」なんてことに縛られて、受け取り下手になってる自分を癒すことに注力してるうちに人生終わっちゃうなって。

「自分が足りないけれど人を見たしたい気持ちはある」という「今ある」ものに目を向けることで「今の自分のベストな形で相手を満たそうとできる」と思うので。

「負のループ環境にいた人は結局他の方法を知らずに同じことを繰り返す」というのであれば、「自分は負のループにいるから人一倍工夫して考えればいいだけ」と認識してればいいだけのこと。

愛され下手だろうが、愛し方を知らずに育った半生だろうが「自分が思ってる”当たり前”が世間の当たり前ではない」というところさえしっかり自覚できていればどうとでも進めると思います。

愛されなきゃ愛せない

「愛の形を知らなきゃ人に与えられない」
「運悪く人から愛された自覚がない人は自分で自分を癒そう」

そんな言葉は世間に溢れています。
でもうちの父のように「本人は愛しているつもり」で私を傷つけてたように、「絶対の愛のカタチ」は決まってないんです。

だったら「自分は愛の形を知らない」とか「愛され方を知らない」なんてこと、どうでもよくないですか?

「自分が愛を与えるとき、相手の欲しい形ではないかもしれない」
そこさえ押さえてれば「せっかくやってあげてるのに」なんて思わなくなります。
「ああ、私の子の愛の形は相手の欲しい形じゃないんだな」だけ。

そこで感謝してほしければ自分発信の愛の形を相手にぴったりはまるまで変え続ければいいだけです。

そこで「いつかこの人に理解してほしい」という欲が強くなるといいように使われるようになったり、DVされたりモラハラされて泣き寝入りする…という自分にとって不幸な結果になるのでそこはお忘れなく。

「風の時代」「多様性の時代」なんて言われているこのご時世。
愛された記憶を思い出せなくても、自分が満たされている実感がなくても、「一緒に幸せになっていこうよ」って思えれば気にする筆意ようはないのかなと思っています。


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