見出し画像

「プラハのための音楽1968」1983年に初めて聴き2001年に演奏 2024年7月30日

最初にお断りします。あれこれ書いたら長くなりましたので、目次をつけます。興味のないところは飛ばして読んでください。


この曲の周辺

「プラハのための音楽1968」の概要

私にとっては相当に重要な夏の曲です。

吹奏楽のオリジナル曲として1969年1月に初演されています。

作曲者は、チェコのプラハ生まれでアメリカで活躍した
カール・フサ(1921~2016)です。

吹奏楽のオリジナル曲として作曲されましたが世界的な指揮者のジョージ・セルの委嘱によりオーケストラに編曲され、セルの指揮により1970年1月にミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団によって編曲版が初演されています。

編曲を委嘱したジョージ・セル(1897~1970)は、アメリカのクリーヴランド管弦楽団を世界有数のオーケストラにしましたが、ハンガリーのブダペストの出身です。

1970年の「こんにちは~♪」

ちなみに1970年と言えば、ご存知、「こんにちは~♪、こんにちは~♪」
大阪万国博覧会が開催されました。
私はまだ小学生でクラシック音楽にはほとんど関心がない頃でしたが、当時の来日演奏家の特集の雑誌を、ある目的のために古書店から手に入れて、大びっくり!

このジョージ・セルのほかに、セルジュ・ボド、ジャン=フランソワ・パイヤール、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズ、ロリン・マゼール、シャルル・デュトワなどなど。

ここに、海外で活躍していた小澤征爾や若杉弘、国内の岩城宏之や朝比奈隆などが、今はなくなった大阪フェスティバルホールで、まるで日本にいながら世界の超一流の指揮者の演奏を見本市のように聴けたのです。

これでも、指揮者や、ピアノなどのソリストを何人も省略しています。

さらには、残念ながら直前に亡くなった指揮者として、ジョン・バルビローリ、少し前に亡くなったエルネスト・アンセルメや、事情で来日ができなかったエフゲニー・ムラビンスキーなどがいます。

1970年の大阪は、3月から9月まで、万博関連行事として国際的な音楽家が集中して演奏していたのでした。

私のクラシック鑑賞行脚自慢

ちなみに、私の自慢をします。
学生時代からこれまでに、既に現在は亡くなってしまった指揮者で、生演奏を聴いたのは、カラヤン、バーンスタイン、ムラビンスキー、マゼール、スイトナー、ロストロポービッチ、ブーレーズ、サヴァリッシュ、カルロス・クライバー、そして小澤征爾などです。

ぐわっ!

実は、今、確かめてみるまで、もう亡くなられたことを知らなかった指揮者もいるので、いささか衝撃を受けています。
あくまでも、私が生演奏を聴くことができた指揮者です。
カール・ベームやクラウディオ・アバドなど、聴きたかったけれど機会に恵まれなかった方々もいます。

まだご存命の方は、省略します。

再び「プラハのための音楽1968」

世界史の話です。

1968年1月にチェコスロバキアで、「プラハの春」という、政治や経済の独立と自由を目指した動きが始まりました。

これはその年の8月20日、まさに夏、ソビエト連邦を中心とした軍事進攻で止められました。
そのとき、チェコスロバキアの軍隊は抵抗しなかったそうです。
また、隣国の、ポーランド、ブルガリア、ハンガリーは侵攻する側の軍隊に参加しました。

東欧の国々の苦しみが伝わってくるようです。

「プラハの春」は軍隊によって踏みつぶされました。
チェコ事件とも呼ばれることもあります。

イサカ大学の委嘱によって、このチェコ事件への人々の怒りや悲しみなどが音楽で表現されました。
それがカール・フサの「プラハのための音楽1968」です。

なお、イサカ大学は、アメリカのニューヨーク州にあるコーネル大学の系列校として開設された音楽院です。

作曲したカール・フサはチェコの人です。
オーケストラ初演を指揮したジョージ・セルは、ブダペスト出身です。
チェコ事件は、大変、重いものであったはずです。

ちょっとここで別の話

まずはこの写真

この練習場所は吹奏楽部専用の古い校舎の一部でしたが今はありません

上の写真は私たちが「プラハのための音楽1968」を練習しているときの録画から切り出したものです。
演奏しているのは高校生で、私の母校は、全国的にみてもかなり早くから制服がない高校でした。
録音にはセミの声がずっと入っています。
指揮棒を持っている右手は金管セクションの音の塊を生むために拍を示し、少し下で開いている左手は木管セクションのうねりの表現のために動かしています。

つぎはこの記事

これはさておき、前回の「夏の曲⑤」では「太陽がいっぱい」を取り上げました。

わあっ!

実は、記事に写真を入れるのも、別の記事のリンクを入れるのも、この記事が初めてなんです。

おもしろいな。

さて、映画音楽はどの曲にするか迷いました
特に、ぎりぎりまで「ひまわり」にするか、と。
ヘンリー・マンシーニの、あの有名な美しい音楽は、夏の曲として取り上げるのにふさわしい。また題名も、画面いっぱいに映るひまわりも、夏の定番と言っても、どなたも文句は言わないでしょう。

でも、もう皆さんもご承知のように、あのひまわりの映像は、ウクライナに広がる風景のものです。そして、映画「ひまわり」は、制作会社はフランスですが、制作国としては、イタリア、フランス、ソビエト、アメリカの4カ国です。

現在の国際情勢で、音楽には何の問題もありませんが、あのひまわり畑が今はどうなっているのかを考えると、今は音楽を聴くだけで、私は、夏という季節よりも、紛争が続いている月日の方を、切なく感じてしまうのです。

それで、「太陽がいっぱい」にしたら、岩田純一まで話が発展して、とんだことになってしまいました。

それで「プラハのための音楽1968」に

このような、三つの部分に分けて、何事もないように始まり、突然に国際情勢の話が突っ込んできたかと思うと、いきなり結論がやってくる手法を、序破急、と呼んで、日本の伝統芸能の構成の一つになっています。

もとは、舞楽、といって、海外を源流とした雅楽の一種でしたが、そこから、能、歌舞伎、浄瑠璃などに受け継がれている、話題の内容やテンポ感の変化が特徴となるものです。
世阿弥が「風姿花伝」で奥義を説いています。

ということで、あとでも説明しますが、1年生と2年生が中心の高校生の編成に合わせて、何曲かの候補曲を提示したら、無謀にも、この「プラハのための音楽1968」をやりたい、という結論を出したので、じゃあとりあえずできるところまでやってみよう、ということになったのです。

では本格的に今回の夏の曲について

私と母校の吹奏楽部の夏との関係

1983年の夏私は卒業生として母校の高校吹奏楽部の指導指揮を高校生と顧問から依頼されました。年齢では24歳で、夏が過ぎると25歳です。

卒業生として指導指揮を依頼されるのは高校を卒業して2年目が最初で、1978年でした。そのとき、私はまだ19歳です。

母校の吹奏楽部は、県内でも戦後間もなく発足して、県内でも有数の長い歴史を持っていますが、音楽担当の先生が合唱の方を中心にされるために、他教科の先生が顧問となり、生徒の自主的な運営で活動するユニークな歴史を持っています。
しかも進学校で専門的な指導を受けることもないので、中学校の吹奏楽経験者の入部は少なく、入部する多くが楽器の初心者で、ほとんどが3年生になるときに引退するというのが状態が長く続いています。
それで、全日本吹奏楽コンクールの県大会に出ることなどあり得ないことだったのですが、私が高校2年のときに、任意で初参加、私が3年生のときにみんなが出たいというので私の指揮で、初めて課題曲をその当時にあった部門で初演奏して参加したのでした。

1978年は全日本コンクールに参加してまだ4年目、大編成としても前年から2年目というもので、39人の高校生たちと19歳の私で一生懸命やっていたら、なんと、金賞県代表になってしまったのでした。

その後も、毎年、指導指揮を依頼されましたが、通学片道2時間余りかかる大学生なので、何度か断り、1981年に2回目に引き受けたら、前回の1978年以来、母校は大編成で2度目の金賞県代表になってしまいます。

そしてまた同じようなことがあり、当時の3年生の10名ほどからどうしても、と言われて1983年に3回目を引き受けたら、大編成で3度目の金賞県代表になりました。
私はそのとき24歳から25歳になる頃です。

1983年の私。このころは大学院生。パソコンに写真を取り込んでないのでこれしかない。

もうここまでになると、神がかってきてしまい、いわゆる、母校の吹奏楽ではカリスマ的存在、県内でも有名人になっていました。

「プラハのための音楽1968」との出会い

そして1983年の支部大会へ行ったら、舞台袖で待機している私たちが、初めて聴く大音響
反響版の後ろなので、全国大会常連の高校の、特に身体を振動させるホルンの音に、度肝を抜かれたのを覚えています。

そのときは、余りにも別世界過ぎて、曲名も意識していませんでした。
その高校が大音響で演奏していたのが、カール・フサ作曲の「プラハのための音楽1968」から「トッカータとコラール」で、このときがこの高校の初挑戦だったのです。

取り組めるチャンス

その1983年から2000年までの間に、私は8回、母校の吹奏楽部の夏のコンクール大編成の参加の指揮指導を引き受けています。
ただ、大学院の論文作成や、卒業後に小学校に赴任したこともあり、8回のうち、金賞県代表になったのは、32人の高校生と挑戦した1998年と、初心者の何人もが課題曲や自由曲のソロを2000年の2回だけです。

その間は、母校の卒業生たちと結成した管楽アンサンブル合奏団での演奏会やコンクール参加赴任した小学校の吹奏楽部などの地域行事の参加や全日本バンドフェスティバル、さらに、始めたらいきなり100名の小学生から高齢者まで集まった一般バンドの活動などがありました。
なかなか、母校の吹奏楽だけに集中できなかった、という言い訳です。

それでも、この2024年現在まで、母校の吹奏楽部を大編成で指揮して県代表になったのは、私だけしかいません。私が母校の指導指揮をしたのは2004年までです。
2004年は木造練習場の老朽化で取り壊しになり、高校生たちが夏のコンクール前の1カ月ほど練習する場がない、と困っていたので
「それなら、中編成でも構わなければ、県代表に必ずしてみせる」
と初めてそのようなことを言い、ちゃんと実現しました。

ちなみに誤解されている様子もありますが、1978年で最初に指導指揮したときから2004年までの間、私は下校時間を守ること、勉強と両立させること、などを私が指導するときには、必ず条件にしていました。

その後、母校の吹奏楽部の指導から疎遠になったのは、2002年から大学附属小学校の教諭になったこともあります。
それでも2004年はよくやったものだと思います。
ほかにも、私的なこともありました。ここから下の話に続くのです。

話題を「夏の曲」にもどします。今回は長くて申し訳ありません。

コンクールに「勝つ」ために、無暗に練習したことは、一度もありません。
勤務している小学校から、
できる限り、高校生たちがきちんと下校時間を守るかどうかを確認しに行ったほどです。

全部とは言いませんが、夏のコンクールに「かけている」中学校や高校では、エアコンのついた練習場で夜の9時まで練習、とか、指導者(先生)が生徒の家庭まで行って個人練習を見る、というもあるようです。

これは、私が作った100名一般バンドに、他校の中学校や高校の経験者も入団していて、このような話を直接聞いて、ウワサは本当だったかと大変驚いたものでした。
「特に、先生(伊東)が指導している高校が上手だという情報が入ると、練習時間が倍増したので、大変だった」
確かに、当時、例年県大会で1位になる高校に、あと少し、というところまで迫ったことは、何度かあります。

でも、練習は、工夫です。そして、演奏者が自分の表現を追究するようになったら、自然に、不可能が可能になってくるものなのです。
これについては、また、別のところで私の考えを紹介するつもりです。

取り組んだ結果

2001年、私たちは「プラハのための音楽1968」の「トッカータとコラール」に取り組みました。
そして2位金賞県代表になり支部大会に参加することになりました。

2001年支部大会の演奏後。もう少し工夫すればさらに評価はよかったと言われた。

このとき、願ってもないような、ものすごいできごとがあったのです。

あの1983年の夏に、舞台袖で全国常連校の「プラハのための音楽1968」を聴いて、圧倒されたことは前に紹介しました。

実はそのときに演奏していたメンバーの一人が、私の一般バンドに入団していて、その当時の指導の先生とそのころも懇意にしているとのことでした。
それで、一般バンドの指導指揮もしていただけるようになっていたのです。

「高校で、『プラハのための音楽』を取り上げるのだけれど、その先生に、一度でも指導していただけたら、高校生は幸せだと思うけど、無理でしょうね」
「一度、言ってみます」

しばらくして、「先生が行くとおっしゃってます」とそのメンバーから聞いたときは、コンクールで評価されるよりも、高校生にカリスマ扱いされるよりも、何よりも、こんな嬉しく幸せなことはない、と私は思いました。
その先生のご指導や指揮が、目の前で見れるのですから。
「条件が一つだけあります。県代表になったら、とのことです」

高校生は、すでに一線から退かれているその先生のすごさや、あのときの演奏の圧倒的な迫力を知らないでしょう
私は、無理はせず、けれども、いつもと同じ気持ちで取り組めば、必ず何とかなる、と思いました。
その結果、県大会で落ちるようであれば、その先生に指導していただくまでもない、とも思いました。

「プラハのための音楽1968」を取り上げる、というだけでも話題になっていました。
他校も相当練習したようです。
自分たちの「プラハのための音楽1968」をしよう。
自由と独立の大切さを、この演奏で表現しよう。

県代表になり、当時はまだ残っていた木造練習場に、先生がお越しくださいました。

私は、自分以外の者が指揮をして、母校の吹奏楽部が、私の導く音楽よりも優れたものを引き出すのを、ほとんど経験したことがありません。

でも、その夏、目の前にいる高校生たちがまるで別人のように見え、これまでに聴いたこともないような音響、音楽、音圧、緊張感、豊かな表現。

ひょっとしたら、私はこの日のために、20年余り、母校の吹奏楽部のお手伝いをしてきたのか、と身震いしながら思うほどでした。

でもここまで言うと、それまでに、いい音楽を私といっしょに追究してくれた高校生たちや、応援してくれたたくさんの卒業生の仲間に申し訳ないのです。

あくまでも、19歳で母校の指導指揮を任されて、たまたま県代表になり、その後も結果を期待されながら任されてきたこと。
卒業生との合同演奏会の実現のために、手探りで細かい事務作業を何回もしたこと。
いずれは建て替えになる練習場の新しいものが、少しでも高校生の使いやすいものになるようにあちこち走り回ったこと。
そういう私が、個人的に、かかわれてよかったなと思えることがあったとすれば、「プラハのための音楽1968」を母校の演奏で聴けたことは、その大きな報いの一つになる、という気持ちです。

先生は、予想に反して、その後も何度か来てくださいました。
正直に、支部大会の前は、初めて、自分に自信をなくす、という感覚も持ちました。
どうしても、私の指揮では先生のような音が出ないのです。
でも、私はそれについて、高校生たちを一言も責めることはしませんでした。
そのようなことよりも、先生の指揮に応えて、それだけの演奏をしている高校生たちを、本当に立派だと思い、いい音楽を聴かせてくれることに感謝していたのです。

今回は、私の秘蔵の、夏の音楽を紹介させていただきました。

最後までおつきあいいただきましたありがとうございました。2001年本番の指揮姿です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?