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疲れたときに読んでほしい「海」

※こちら↓のYouTubeで朗読しているオリジナル小説です。


私は海を見るのが遅かった。
 テレビや雑誌やインターネットで見たことはある。しかし、海なし県であること、家が大きな花農家を営んでいて、まとまった休みが取れず、ほとんど家族旅行とは縁がなかったことが重なり、本物の海を目にする機会がなかった。
 初めて本物の海を見たのは、高校一年生の夏のことだった。友人の親戚が夏の間だけ神奈川のビーチで飲食店を開いていて、その手伝いを頼まれたのだ。私は初めての海にわくわくが止まらなかった。

 初めて見る海の景色とは、つまり人だった。
 湘南の海は静寂とはかけ離れ、人混みと騒音に埋め尽くされていた。家族連れやカップル、派手なグループが早朝から砂浜にやって来た。彼らの楽しそうな話し声や、海の家やレストランから流れる爆音の音楽は、私が想像していた静かで雄大な海を毀損した。
 アルバイト先の飲食店は朝から晩まで盛況だった。お酒のせいか、ビーチという開放感のせいか、絡んでくる客もいたが、逆にお小遣いをくれる客もいた。
 ひたすらあくせく働いていると、自分が念願の海にいることを忘れそうになる。それでも、海岸を見れば、そこには確かに海がある。どんなに人が溢れていても、その向こうに海が見える。どんなに騒音が流れていても、その隙間から波音が聞こえてくる。
 夜を迎え、飲食店は閉店した。ビーチに人影はない。私は宿泊先に戻る前に、友人と一緒に海岸を歩いた。湿気を含んだ潮風が、髪の隙間に入り込む。海は青さを隠し、黒い表面に月や星を映す。ザザー、ザザーと、絶え間なく波音を聞かせる。
 海はただ、そこにある。人がいても、いなくても。太陽が登っても、月が登っても。変わることなく、そこにある。

 私は休みを見つけては、日本各地の海へ出かけて行った。大学生になるとアルバイトを増やし、より遠くへ出かけるようになった。
 日本海の海は、荒々しく恵みの海だった。東北の海は、静かな奪う海だった。沖縄の海は、エメラルドグリーンの媚びた海だった。瀬戸内の海は、無骨で風を好む海だった。
 どこの海も異なる印象なのに、すべてつながっている。海外の海を見ても、きっと私は同じことを思うだろう。
 海はただ、そこにある。これからもずっと、変わらずそこにあり続ける。それが途方もなくありがたく感じる。

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