#182 映画 『バトル・ロワイアル』 大人を疑え!現代に通ずる、若者世代へのメッセージ(ネタバレなし)
それこそわたしが、子供と大人の狭間にいた2000年。メディアはおろか、国会をも巻き込んで「このような表現が許されて良いのか?」という大論争を巻き起こした映画がある。深作欣二監督の遺作となった、『バトル・ロワイアル』である。
いわずもがな、本作とその原作小説は現代の「デスゲーム/バトロワもの」として認識されるジャンルの草分け的作品である。現在に至るまで派生作品を生み出している、その文化的な影響力の高さは計り知れないが、本稿で語りたいのはそこではない。
今日はみんなに、ちょっと殺し合いをしてもらいます
教師キタノ(ビートたけし)が冒頭に放つ有名な台詞だが、その文脈を理解するためには、当時の不穏な社会状況を知らねばならない。当時は、神戸連続児童殺傷事件(1997年)を皮切りに、少年犯罪の凶悪化が社会問題となっていた。
本作の公開は社会不安の絶頂期、若者は「キレる17歳」と(勝手に)呼ばれ、恐れられていたのである。大人達が日夜「少年犯罪を厳罰化すべき!」等と騒ぐ一方で、深作欣二監督の目線は、そんな大人達への批判に向いていた。キタノの台詞から始まるデスゲームは、「大人の作った理不尽なルール(つまり、社会)」への、痛烈なカウンターなのである。
つまり本作は(本質的には)、公開前に騒がれていたような「若者を殺し合わせる映画」ではなかった。そのようなことを強いる大人を批判し、若者達へ「生きろ!」とエールを贈るものであったのだ。
連日ニュースや国会で大騒ぎをしていたのが、今思い返しても可笑しくて仕方がない。なにせ、蓋を開けてみたら、「大人の作るアホみたいなルールには従うな!」と言っていたのだから。
ねえ、友達殺したことある?
これが、本作のキャッチコピーだ。もっとも、現代の若者にはそれほどインパクトのある表現では無いのかもしれない。当時と今では、フィクションをフィクションとして楽しむ素養が違いすぎるだろう。ただし、それが言わんとすることの重みは、むしろ現代の若者の方にのしかかる、と言えるのかもしれない。
超高齢社会に突入した日本を支えることを勝手に期待され、しかしガチガチに決まった大人のルールに従うことを要求される。社会で上昇するためには、誰かを蹴落とさねばならないのは相変わらずだ。若者の数が少ないからといって、三顧の礼で迎えられるという訳ではない。あくまで、「ちょっと殺し合いをして」生き残った勝者だけを迎え入れたい、という態度である。
あなたが就職できたなら、あなたのおかげで非正規雇用を余儀なくされる人が現れる。そのことを、「あたり前じゃん」と思える者だけが生き残る。その勝者ですら、組織の不合理に直面し続けて、船から降りるということもありうるだろう。実際、新卒採用者のうち3割は離職する。
わたしは未だに、本作を大好きな映画の一つとして、必ず挙げている。それは、いつまでたっても古びないどころか、むしろ社会が硬直し続けることにより、年々輝きを増しさえすると感じるからだ。「ジャンルもの」という目線ではなく、痛烈な社会批判を含んだ作品として観るならば、今後も再評価され続けることだろう。
ここまで「本作が完全に過去のものになるためには、いったい何が必要だろうか?」と、考えながら書いた。結局のところ、解決策はわからない訳だが、これだけは言える。
深作欣二監督は、大人が起こした戦争の惨禍を知る世代として、暴力を描くことにより、暴力を否定する作品を撮り続けた。彼は、生涯に渡り、大人を信じなかった。
『バトル・ロワイアル』は、現代でこそむしろ輝く、青春映画の金字塔である。
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