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#142 『映画 窓ぎわのトットちゃん』感想と雑記(ネタバレなし)

 かつてのわたしは、映画を観ては批評家気取りで、ああだのこうだのと文句を言っていた。実際、お金を払って観ている訳だし、好きではないものを、その通りに言っては駄目だなんて法はない。

 しかし、そんな態度が変わる数年間が存在した。新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)による外出自粛期間から、5類感染症以降までの、つい最近の話である。

 この期間で、様々な国や時代の文化、社会問題、生き方を伝えるメディアとして、映画がいかなる役割を果たしていたのかが、身に染みて分かった。

 特にわたしのような、内向的で人付き合いも苦手なオタクにとっては、映画はまさに社会の窓。映画をきっかけに、関心を持った分野の本を読むなど、自分を世界に繋げる役割を果たしていたのだ。

 そういうわけで、最近のわたしはどんな作品を観ても基本的には「ありがてぇありがてぇ」と感じている訳だが、ときに刮目に値する名画に出合い、猛烈に人に勧めたくなる時がある。

 黒柳徹子さんの自伝を映画化した『映画 窓ぎわのトットちゃん』が、それである。戦争がいかにして日常を奪っていったか、というテーマ性ならば、既に『この世界の片隅に』という傑作が存在するが、本作もそれに比肩する作品だと言っていい。

 以前、映画についての記事を書いた際には、「米国の若者はいかにして兵隊になるのか」という疑問に応えるいくつかの作品を取り上げたうえで、歴史(学問・史実)とは別に、ナラティブ(物語)を紡ぐメディアとしての、映画の役割が存在することを取り上げた。

 その文脈で言うならば、『映画 窓ぎわのトットちゃん』は、いかなる作品と言えようか。なにせ、つい先ほど鑑賞を終えたばかりである。ここで何かいい言葉をキメておきたかったが、思いつかないので、そのまま「素晴らしい作品だった」とシンプルに述べるに留めておく。

 わたしは自身の興味関心から、やはり戦争というテーマに目を向けてしまうが、教育者や子を持つ親ならば、また違う点に注目するだろうし、おそらくはどこから切り取っても素晴らしい作品であることには変わりがないであろう。

 そうだ、映画ではないが重要な副読本として、猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』を挙げておこう。

 トットちゃんがトモエ学園で学んでいる頃、日本の官民から集められたエリート達による「総力戦研究所」では、繰り返し対米戦争のシミュレーションを行っており、結論が「日本必敗」であることを近衛文麿、東條英機をはじめとした当時の政府に報告していたのである。

 かの戦争について当時、国力の圧倒的な差を理解していたのはむしろ、開戦を決断した政府のお歴々であった。総力戦研究所によるデータも、それを裏付けていた。しかし政府は、神風が吹くような奇跡に賭けて、米英戦を開始した。

(もっとも、既に開戦以外の打開策が無いように外交的にも、そして自らの軍からも追い詰められていた。しかし国民の命を預かる政治家たるもの、いかなる時でも現実から目を背けてはならないし、奇跡を願って一発逆転などというギャンブルに国民を巻き込むべきでは無いのである)

 その結果が国民生活をどのように破壊して行ったかを描くのが『この世界の片隅に』であり、『映画 窓ぎわのトットちゃん』だ。

 人類史は、戦争の歴史でもある。いつもどこかで、今だってまさに、戦争は行われている。米中関係などはまさに冷戦であるし、その影響で、日本の防衛費も増えていく一方だ。

 しかし、絶対に記憶に刻んで忘れてはならないことがある。戦争が暮らしを、人間を、破壊するリアルである。わたしはほとんどの日本人と同じく戦争を知らないが、本作のクライマックスで観客が感じる違和感、それを大切にしたいと思っている。

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