スペースノットブランク「劇場三部作」① 光の中のアリス評
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スペースノットブランク「劇場三部作」① 光の中のアリス評

・劇場三部作とは何か

 2020年12月のスペースノットブランク『光の中のアリス』、それから2021年3月の『バランス』と『救世主の劇場』のことを「劇場三部作」とまとめることができると思います。これは「舞台」というものそれ自体についてのフォーマリスティックな思考を中心に構成された彼らの「舞台三部作」(『舞台らしき舞台されど舞台』『言葉だけでは満ちたりぬ舞台』『すべては原子で満満ちている』)に倣ったものです。
 「劇場三部作」の特徴は劇場そのものの作品への自覚的な取り込みにあります。劇場三部作はいずれも舞台美術が徹底的に引き算され、劇場それ自体の姿が目に立ちます。もっとも、スペースノットブランクが好む裸舞台、「なにもない空間」は彼らを待つまでもなく多くの舞台に採用されてきた長い歴史があります。『光の中のアリス』の直前に彼らが上演した『紙風船』を書いた岸田國士も裸舞台を好みました。現代日本でもたとえばマレビトの会やその系譜に連なる関田育子といった作家は裸舞台を自覚的に、積極的な表現として選択しています。
 こうした裸舞台は、ざっくばらんにいってしまえば、「現実」を模倣する装飾美術の嘘くささやわざとらしさへの反動からきているでしょう。むしろ観客の想像力に作品の成否を賭けるというのが裸の舞台の基本的な戦略のはずです。スペースノットブランクの「劇場三部作」もまた観客の想像力への信頼の上に成立するものですが、それを他の裸舞台から区別するのは、劇場を想像力によって最終的に昇華されるべき対象として捉えず、あえて前景化し続けるという点です。そして、『光の中のアリス』は「劇場三部作」のマニフェストのような側面を抱えています。

・概要

 さて、戯曲は早稲田文学に収録されていますし、舞台の概要はここでは簡単にさらうにとどめたいと思います。『光の中のアリス(以下、ヒカリス)』はスペースノットブランクと戯曲家の松原俊太郎さんとの共作です。2020年の12月10~13日にかけて、ロームシアター京都 ノースホールで上演されました。以下に使用する写真はmanami tanakaさんが撮影なさったものです。
 わたしのイントロダクションや松原さんへのインタビューもぜひご参考ください。これらの文章ではボードリヤールやベンヤミンを引きながら『ヒカリス』を消費社会批判の文脈で観ることを提案していますが、ここではその道は採りません(※)。

 登場人物はヒカリ/アリス(荒木知佳さん)、騎士(古賀友樹さん)、バニー(矢野昌幸さん)、ミニー(佐々木美奈さん)、K(中澤陽さん)、Q(小野彩加さん)の6名です。小野さんと中澤さんは舞台の演出を務めてもおり、終盤まで物語には介入しません。
 冒頭のト書きによれば「登場人物ははじめから死んでいる」のですが、そこでの「死」が物理的実際的な死を意味しているのか、それとも社会的ないし精神的な死を意味しているのか、はたまたさらに別の象徴的な死を示しているのか、それは最後まで明らかではありません。作品では生と死、光と闇といった二項対立が縦横無尽に張られますが、それらの意味するところは一貫して曖昧さを保っており、観客のさまざまな解釈を許容しています。
 すべての「登場人物ははじめから死んでいる」以上不条理な話ですが、物語は騎士の死に、ヒカリがどう向き合うかをめぐるものです。戯曲の内容をざっと整理してしまうと、次のようになります。
 騎士の死に対し、彼とヒカリは事実を引き受けヒカリが悲しい記憶を引きずって生きていく道か、それともヒカリが騎士のことを完全に忘却することで得られる空想された記憶のなかでの停滞か、その二者択一を提示されます。この空想された世界を生きるとき、ヒカリはアリスへと変身します。騎士とヒカリの二人はその与えられた筋書きに満足せず、ミニーとバニーに連れられるがままに時間の流れの異なる光の方へと救いを求めて移動しますが、根本的な解決は与えられません。そして、そこに待っている王をヒカリは殺すのですが、結局革命がおこることもないのです。
 『ヒカリス』の「ぜんぺん、クライマックス」というキャッチコピーは、クライマックス級の興奮を全編にわたって提供しようという作家たちの自負を示してもいるでしょうが、ただの比喩ではありません。実際に登場人物は、始まってもいない物語を終わらせ続けるからです。物語をほんとうに始めるときには一般に別の物語の死が必要とされます。しかし、いつまでたっても『ヒカリス』の物語には決定的な仕方ではケリがつかないのです。
 終り続ける終らない物語の中で、ヒカリは騎士の死という現実と、そこから逃避した先の現実の双方を「引き受け」、「抱きしめて、話し続ける」ことを選択します。

 舞台奥には椅子が四つ並び、下手から順に古賀さん・佐々木さん・矢野さん・荒木さんがそれぞれの椅子を定位置とし、観客と対峙するように着席します。舞台奥中央には椅子に挟まれて演壇が、そのさらに奥には小さな脚立が置かれています。演壇には中澤さんがついていて、上演中ほとんどずっとその場所から舞台をまなざしています。対照的に、上演中やはりずっと脚立の上で直立する小野さんは舞台に背を向けています。
 小野さん・佐々木さん・中澤さん・矢野さんはマイクを与えられており、特に小野さんと中澤さんの発話はほとんどマイクを通したものです。
 上方のギャラリーには音響家が机を構え、上演中観客の視界に入る位置で操作をし続けます。ギャラリー正面の柵にはモニターが4つ備え付けられています。
 上手側の壁面には戯曲のテクストが映像として投射され、下手側には鏡が広く張られています(これはもともとノースホールに備えられたものです)。この鏡は劇中世界を構造的に完結させ、ここではないどこかへ行こうとする人物たちのみちゆきをはばんでいます。
(こうした舞台の構造は竹田真理さんの批評に詳しく整理されています)

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(※)ヒカリスについて消費社会論、観客論の文脈での批評を当時試みたのは、それまでのスペースノットブランクの舞台に観客と舞台との関係をいかに取り結ぶことができるかという問題意識が通底していたからです。
序盤に触れた舞台三部作はまさにそのような試みでしたし、2020年9月に上演された『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の批評も、わたしはそのような方針に於いて執筆しています。
2020年6月に上演される『ささやかなさ』以降スペースノットブランクがどのような展開をたどるかはまだわかりませんが、ここにあるのは観客論からそれを包括する劇場論へのシフトです。

・ルールブックとしての松原戯曲

 松原さんの戯曲は、言ってしまえば遊びのルールブックのようなものです。舞台が単線的なシナリオの把握による単純なカタルシスへと還元されることを、その戯曲は注意深く拒んでいるのです。舞台の経験が単線的で単純なものへと堕してしまうこと、それは松原作品を通底する全体主義への批判意識からも説明できます。
 それでいて観念的で抽象的な実験や前衛的な畸形性に傾くことなく、強度のある言葉と物語によって紡がれているのがその戯曲の特色だと言えます。いま「強度」という言葉を用いましたが、これはあくまで音声的なものと理解されるべきでしょう。字面を追っているだけでは、その文章の意味するところは理解が困難です。正直に告白すれば、わたしはむしろ読んでいて眠りに落ちてしまうことがしばしばです。しかしそれらの言葉は、俳優の肉声により音声化されることで強度を勝ち得ます。ここでわたしが強度と呼んでいるのは身体への非常な浸透度とでもいうべきものです。そしてそのテキストは、誰が読んでも同じようにある程度の強度を獲得することができるような代物ではありません。その言葉は読みづらく、詠みづらいのですが、成功された発話においてふんだんに魅力を発揮するのです。逆に、発話される言葉の浸透度を以て、俳優の演技の成功を測る一つの指標とすることができます。成功した舞台を経験した者にとってその差は明快です。

 さて、舞台の状況への自己言及を多数含んだその戯曲は内容の再現にとどまらない逸脱的な力強さを上演に求めます。その点で松原戯曲は上演の在り方についてのインストラクションとしての性格をも持つのです。たとえば『正面に気をつけろ』の以下の文章は、発話されるものであると同時に、舞台が達成すべき状況を規定するものでもあります。

皮膚に触れる
やってきた者たちの声がやってくる者たちの皮膚の表面に
すべての声が皮膚を待っている
声と声がぶつかってこすりあう音が鳴り止まない
そうしてようやく声が聞こえる
単調なリズムがやってきた者たちの身体を運び去るのではなく
単調なリズムこそが運び去られる

「ようやく声が聞こえ」、「単調なリズムこそが運び去られ」た時にこそ上演は成功するのです。『正面』を上演した地点は松原さんの戯曲をコラージュし、言葉の流れを大幅に改変しています。それは、戯曲の言葉をただ舞台上に並べていくよりもそれが内包する「ゲームノルマ」が達成されることこそが肝要である、という態度として読むこともできるでしょう。
 この「ゲームノルマ」は結局ある種の単線性を舞台に導入してしまうのではないか、という疑問に先回りして応えておきましょう。
 松原さんのテクストは虚言やユーモア、言葉遊びをふんだんに含んでおり、会話は蛇行して素直に流れることがありません。スペースノットブランクもまた特定の台詞・音節の反復や同時多発といったさまざまなヴァリエーションの発話を通じてこうした蛇行を強調し、線型的な筋にねじれを加えています。
 こうした発話内容・発話形式レベルの「蛇行」は、後述されるように、上演全体の構造に対しても認めることができます。
 ミゲル・シカールさんは遊び(play)一般の重要な特色として、既存の文脈を乗っ取る「流用性」と、その帰結としてもともとの事態を破壊する「攪乱性」とを取り上げています 。シカールの次の指摘は戯曲と上演(play)の関係を考える上で示唆的なものです。

遊びのルールは決して破ってはいけないものではない〔…〕ルールは、遊びの文脈の複雑なネットワークにおけるノードであって、遊ぶという目的に対する手段でしかない。遊びが持つ変形の力は、〔世界を標的にするだけでなく〕ルールを標的にすることもある。

上演行為を遊戯として捉えるとき、戯曲はその明文化されたルールとしてあります。戯曲を不動の完結した存在ではなく、上演という「目的に対する手段」として開かれているものと捉え、それ自体変形の対象とみなす流用と攪乱の手つき。それこそが、ひいては戯曲内で説かれるような世界を標的とした革命につながるのです。

・「登場人物」と俳優の関係

 さて、スペースノットブランクは松原戯曲を上演するにあたり、これまでテクストのコラージュという方法を一切採用していません。しかし、普段のスペースノットブランクは俳優から聞き取った言葉を編集する仕方でテクストを立ち上げています。つまり、コラージュは彼らにとってなじみのある表現形式なのです。ゆうめいの池田亮さんと協働した2020年3月の『ウエア』でも、そのテクストをあくまで原作とみなし、これをコラージュして上演台本を立ち上げています。
 その一つの帰結として、どの登場人物をどの俳優が演じているのか、そしてどのような物語をたどってきた存在であるのかを同定することが容易になっています。

 書かれた物語の枠組みの全体性を上演が内側から突き崩していくことのほかに、松原戯曲が要請しているものがあります。それは登場人物が自分の声を獲得することです。自分らしさが失われた時代に、それでも登場人物にほんとうのその者らしさを付与する、と言ってしまうと直截すぎるかもしれませんが、自分が自分であることの同定はもはや素朴にはなし得ません。しかしその同定を根拠づける超越的な審級としての神はとうに死んでいます。自己の同一性の証明をトートロジーとして空転させないためには、実際には自らが帰属する世界の外部への回路を担保する必要があるのです。
 松原さんの戯曲は、あえて登場人物の性格をいくつかの属性や要素へと還元して見せます。それぞれの言葉も松原節に貫かれ、どこか似た調子を帯びています。そうして声を没個人的なものに希釈された彼らは、戯曲の外部世界=俳優の声と出会うとき、初めて自分の「ほんとうの」声を逆説的に回復することができます。そして、この声を離れて真に社会に、世界に参与することはかなうものではありません。
 『ヒカリス』では、登場人物を演ずる際に普通は自然化、透明化される媒体として理解されるところの俳優の存在が、異様な仕方で前景化し、現前します。この点にこそ、この上演の最大の独自性を認めるべきです。俳優は「俳優の身体」と「登場人物の身体」の二つを自覚的に自らのうちに同居させ、その緊張関係を失わないことが「ゲームノルマ」として求められるのです。

 『ヒカリス』ではバニーとミニーは二人組として描かれますが、舞台ではそうした印象はいささか希薄です。ミニーを演ずる佐々木さんが終始舞台奥の座席を離れずに演技をおこなっているのに対し、バニー役の矢野さんはしきりに舞台を駆け回るからです。『ヒカリス』の座組の中でスペースノットブランクの舞台に出演したことのない唯一の俳優だった矢野さんは、オフィスマウンテンなどのキャリアを通じたその独特な身体性、トリックスター的な個性もあってか、席に落ち着くどころか作品で最も激しく動き回る役回りを与えられました。そしてバニーのそのような現われは戯曲の解釈からもたらされたものではありません。
 バニーにはヒカリと身体を添わせた動きや、ヒカリと同じ動きが多くあてがわれており、それは彼らが一体化したような印象を与えます。しかしながら、バニーとヒカリを一体化し得る同質的な人物として読む積極的な要因は、わたしの見るところでは戯曲に内在していないのです。
 スペースノットブランクのこれまでの作品にみられる俳優の本人性の強い演技は今作でも健在です。戯曲の筋や台詞から登場人物の像を想像し、構成し、その役に自らを近づけるというような演技法はここではほとんど取られていません。登場人物たちは『ふしぎの国のアリス』の登場人物やミニーマウスなど既存のキャラクターばかりですが、俳優たちは彼らのそうしたキャラクター性をほとんど無視しています。
 荒木さん演ずるヒカリ/アリスが動物の咆哮のように唸って台詞を発話する箇所がありますが、それはヒカリという独身女性の姿の表現でも、アリスというディズニーキャラクターの表現でも、明らかにありません。荒木さんの俳優としてのポテンシャルから選びだされてきた表現なのです。しかし独身女性の労働への倦怠や、少女の純真さ無邪気さをもその身体はまとって、観客は彼女に複数的な身体の現われを見出すはずです。
 『ヒカリス』直前に彼らが取り組んだのは、同様にすでにして書かれた戯曲を用いた岸田國士『紙風船』でした。そこでは戯曲の内容に加え、木村巴秋さん・佐々木美奈さんという二人の俳優の性格や稽古場での関係性が、舞台上での俳優の位置や移動、ふるまい、関係性を規定していました。ここでも戯曲と俳優自身の存在が両輪となって舞台を動かしていたのです。俳優存在との出会い、遊戯的なイメージの連合を通じ、書かれたテクストは開かれていきます。
 荒木さんや矢野さんの演技について、その本人性が戯曲に対して有する逸脱性の程度は観客にとって明らかではありません。しかし、そこに身体の複数性が何らかの形で保たれていることは自然と了解されるはずです。重要なのは俳優存在の内部に生じている何層ものレイヤーの動的な振動に観客が立ち会うことなのであって、俳優の本人性の如何が知られる必要はありません。そしてこの震えの中でこそ、俳優という存在の被膜を破り、物語の人物たちは産声を上げるのです。

・平面その1

 『ヒカリス』では日本の往年のヒット曲が台詞に無意味に挿入されます。そのように懐かしいメロディが脈絡なく引用され、反復され、単純な快楽を与える非歴史化されたノスタルジーの場がヒカリたちの移り住んだ「おもひでしんくうかん」です。
 循環するばかりで前進することのない停滞した「おもひでしんくうかん」はこの消費社会においてひとつの立派な現実を成しています。悲しい重みを伴う歴史を引き受けるのか、それとも非歴史化された記憶への安住を選ぶのか、作品はそうした選択を主題としているのです。
 さて、ほとんど名指しでディズニーを批判するかのようなこの作品では、「おもひでしんくうかん」における歴史の抽象と結びつく仕方で個人がその奥行きを失い二次元的な平面へと還元されてしまいます。一方でその平面はインタビューでの松原さんの言葉にもあるように「無理のある動きが、観る側にすごく自由を与え」、「楽に見れる映像の中から、飛び出す絵本のように次元が変わっていく」可能性を秘めてもいます。戯曲という平面のように。

 作品には二種類の映像が登場します。
 一つは上方のギャラリーに備えられた4つのモニターに映し出される、佐々木さんと矢野さんの顔面です。彼らはしばしば椅子の近くに用意されたカメラをのぞき込み、カメラに向かってマイクで演技をおこなうのです。
 彼らは時にカメラを無視し、舞台中央の役者に直接語りかけを行いもします。その時カメラは彼らを正面から捉えることはなくなるため、観客の意識は舞台上の俳優の三次元的なボリュームに向かうはずです。こうして佐々木さんと矢野さんは平面と立体との往還を繰り広げることになります。

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 もう一つの映像は、舞台上手に投射されるト書きです。これは「ト書きは適宜、王あるいは王女が発語するか、字幕で提示される」という戯曲冒頭の要請に従うものですが、その言葉は大きく縦書きで表示されて自律的な質を獲得しています。
 一方でト書きは小野さん・中澤さんによってマイク越しに読まれもする。彼らの語りは壁面に投射される文字と等価なのです。そもそもマイクでの発話が為されるとき、その音声は舞台に対して外化されます。その音は身体との結びつきを欠いて、純粋な聴覚情報へと一元化されます。脚立の上で舞台に背を向け、マイクのみで発話を行う小野さんは、文字通りにも象徴的にも舞台に対して上位の、外的なメタレベルの審級として君臨しているわけです。しかし物語への彼女の介入はヒカリたちの状況に本質的な変化を及ぼしているようには思われません。
 戯曲上で執行される、バニーによるKの殺害の身振りは、舞台上では表現されていませんでした。ですから、観客たちがKの死をそこで察知することはほとんど不可能だったでしょう。QにせよKにせよ、物語の進行上の重要性はほとんど排除されて見えるのです。支配者を代表するはずの彼らは、しかし、舞台上に展開される物語への支配性を決定的に喪失しているのです。Qに至っては、むしろひたすらに視線を浴び続ける一方的な客体の位置に置かれています。

・平面その2

 さて、このような文字通りの「平面性」のほかに、比喩的な意味での「平面性」をも『ヒカリス』は行き来していました。先にわたしは映像平面と戯曲平面を類比しましたが、立体化された物語世界をふたたびぺしゃんこにしてしまうような装置が、舞台にはいくつも仕掛けられていたのです。

 舞台奥の座席で、俳優はしばしばリラックスし、ステージや客席を見つめながら水を飲んで休憩を取っていました。そこでは彼らは演技を放棄して素の姿をさらしているように見えます。
 それから、演壇からステージを眺める中澤さんは、次回以降の上演に向けた改修点を本番中に平然と脚本に書きこんでいました。そのことは観客から必ずしも明らかではありませんが、しかし舞台をまなざし何事かを手元に書きこむその身振りは、Kの演技を離れた演出者中澤さんの姿を、そのままに露わにしていました。
 もちろん、観客のまなざしに拘束された上演のさなかに身を置く彼らが「素」の「ほんとう」の身体をここで提示しているとは限りません。しかし、ここで必要なのは「素」の身体なるものの厳密な定義ではありません。キャラクターの演技に向かわない極度に素朴な身体の表象が上演に積極的に組み込まれていることは確かなのです。

 一方で指摘しておかなければならないのは、『光の中のアリス』の上演構造が内に閉じていたことです。俳優たちは観客への呼びかけをほとんど行いませんが、これは普段のスペースノットブランクの舞台からすると、むしろ珍しいことです。公演3日目に行われたアフタートークで古賀さんは、普段のスペースノットブランクの舞台に比べて他の俳優と目が合う時間が多かったとおっしゃっていました。
 同月に地点によって上演されていた『正面に気をつけろ』は松原さんのテクストをコラージュし、ほとんどその筋を判読することの不可能な「声」が観客に直接的に発される場として舞台を用意していました。一方『光の中のアリス』では戯曲はコラージュを経ることなく上演されるため、観客は必死に耳を傾けていればなにがしかの物語をそこに見出すことは不可能ではありませんでした。観客には、ステージから距離を取って舞台をその場で解釈する余裕があったのです。
 これにはロームシアターという劇場の場所性も大きく関与しています。2019年にスペースノットブランクは松原作の『ささやかなさ』を香川県高松市のMOTIFというギャラリースペースで上演していますが、こちらは劇場というよりは部屋と呼ばれるほうが適切な、狭く親密なギャラリースペースでした。そしてそこでの発話はその近距離性を活かし、観客たちへの直接的な語りかけを主としていたのです。同様に、『正面』の上演されたアンダースローもその狭さに一つの特色があります。対して、客席とステージとが空間として截然と分断された広大な劇場では、直接的な呼びかけは有効ではなかったはずです。むしろ『ヒカリス』は観客の想像を誘発するようなイメージの強度を高めることに専心していたように思われます。

 しかしながら『ヒカリス』はステージと客席との結びつきを断念しません。作品は開演と同時に客席を明るく照らし出します。そしてバニーを演ずる矢野さんが客席の方に歩み寄り、ひとりひとり観客を指さしながら「アリス」「アリス」とつぶやきます。観客たちは自身を作品の主人公と名指されたことの自覚に出発して観劇を開始するのです。
 やがて客席の照明は落ちていきますが、以降客席は照明を幾度も当てられ、俳優たちの視線を浴びることになります。見る/見られるの一方通行的な関係性はここで回避されています。観客は俳優や他の観客の視線にさらされた全人格的な存在として舞台に居合わせることになるのです。バニーとミニーの顔を映し出す映像の正面性の強さも、映像に見つめ返されるような印象を客席に与えていたでしょう。
 客席の照明が付けられることの重要性は、観客が舞台に参与する主体としての位置を自覚することにとどまりません。客席とステージを等しく照明で照らすことはまた同時に、劇場空間の姿を即物的に明るみに出し、舞台上のイリュージョンを消去することにもなるからです。観客は暗闇の中に自らの身体を消去することはできず、自らの存在を自覚せざるを得ません。その時、むき出しの劇場はごく殺風景な仕方で物語のイリュージョンをかき払ってしまうでしょう。

・劇場はなぜ明るくなければならないのか

 戯曲の終幕部分で説かれているのは騎士の死という重く苦しい「現実」と、そこを逃れてこの舞台で空想され語られてきた「現実」をともに抱きかかえて生きることです。ヒカリは「ヒカリの中のアリス」とともに生きることを選ぶのです。平面化という舞台の「死」を堅持し続けながらも豊かなイメージをそこに次々と重ねていく上演構造は、この主題を形式的に具現するものでした。だからこそ、『ヒカリス』は劇場それ自体に光を当てて見せたのです。光、ということでは高嶋慈さんのレビューでの次の記述が参考になるでしょう。

「キング」と「クイーン」のさらに奥の正面壁際にずらりと設置された「照明器具=舞台美術」は、「ヒカリ=光」の両義性をめぐる、(鏡とモニターに続く)第3の重要な装置である。それは、(ディズニーランドの起源でもあるアニメ)映画、すなわちファンタジーやイリュージョンへの現実逃避的な没入であるとともに、そこからの「覚醒」を促す光の投射でもある。また、客席に向けられるこの「光」は、「知らない顔がたくさん並んでいる集合写真」として観客を二次元の世界に取り込み、写真(=「死」)の領域に固定化しようとする。数メートルの高さのスタンドに設置されたライトの列は、「首をちょん切れ」と命じるクイーンの台詞によってギロチンを想起させつつ、客席に向けて一斉に光を浴びせかけるその激しい明滅は、私たちに覚醒を促す集中砲火でもあるのだ。

 俳優のうちに俳優とともに抱きかかえられることで初めて登場人物が声を上げるように、ほんとうの物語はここから始まるのです。しかしそれはすぐに観客に託されてゆきます。戯曲はその後、差す光の中椅子に一人で座るヒカリを捉え、再びの暗転の後の「つづけ」という文字列とともに終えられます。終演後においてなお物語の持続を要請するこの構造が、その立ち上げを観客に強いるのです。
 舞台終盤では身体と言葉の結びつきは比較的に直接的になります。バニーやミニーへの熱のこもった叫びとともに騎士は舞台を駆け回り、ヒカリも周囲の呼びかけを強めていきます。それに伴い情報量は低下し、やがてヒカリの最後の台詞の後に暗転する。戯曲の指示通り舞台は一度明るくなりますが、そこでは荒木さんが客席の一つ一つを数えています。観客は作品を生きる「アリス」としての自分を再度意識させられるのです。やがて暗転し、上手側に壁に「つづけ」という文字が投射されるのを見ながら、観客はその闇にどのような物語を立ち上げることができるでしょうか。「ヒカリ」は依然として「アリス」をその身に宿しているでしょうか。
 終演後になお観客が「死者」に直面する経験を引き受け、還元不能な複数の基底なき「現実」の可能性を同時に生きるとき、物語は始まり続け、そして終わり続けます。そのためにこそ劇場は姿をさらし続けるでしょう。

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「劇場三部作」② バランス評

「劇場三部作」③ 救世主の劇場評




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