小野彩加・中澤陽『紙風船』(作:岸田國士)評

小野彩加・中澤陽『紙風船』(作:岸田國士)評

・作品概要

 『紙風船』(作:岸田國士)は2020年10月18日に兵庫県豊岡市の江原河畔劇場で、演劇人コンクール2020の一作品として上演されました。演出は小野彩加・中澤陽さん。出演は木村巴秋・佐々木美奈さんです。
 戯曲はコンクールの方で提示された六つの作品から選ばれたもので、郊外に暮らす若い夫婦の倦怠と、そこから抜け出ようという夢想とが循環的に描かれます。目白文化村に代表されるような西洋流の自由な生活というステレオタイプに夫婦は憧れながらも、日本的な個我の弱さがそれを許しません。芝居だって活動(映画のこと)にだって江ノ島にだって行けばよいのですが、二人はとかく話すうちにその晴れた午後を暮らしてしまいます。けれどそれは必ずしも意志の弱さにのみ帰せられることではありません。そうした通俗的な享楽の先にほんとうの楽しみがないだろうことを二人が了解していることは自然と窺い知れるからです。その退屈の中で、妻を家においてばかりの夫への不満が露わにされます。紙風船は、夫婦がそれぞれに守り続ける空虚でもろい関係の稚気的なメタファーだというわけです。以上が、おそらくはこの戯曲への一般的な理解のあらましであると思われます。

 まず最初に指摘しておきたいのは、小野さん・中澤さんと岸田戯曲との親和性です。
 小野さん・中澤さんは、テキストを舞台上にそれを再現すべき絶対的存在ではなく、俳優の存在などと等しい資格で舞台に並ぶ一素材として扱います。特権的な作家としての「戯曲家」を措定することなく、俳優やスタッフのそれぞれが「作家」として、真の意味で集団的な制作を行うのです。
 彼らの姿勢は、理論家でもあった岸田の「脚本の演出者は、云ふまでもなく俳優であります」「俳優はもう単なる俳優ではなくして、作者の領域に足を踏み込んでゐる」というような発言に対応するものです。「今日の新劇の如く、辛うじて舞台から文学を感じて満足するなどといふわけには行かぬ」からです。文学とも絵画とも区別される「純粋演劇」を唱えた岸田にとっては、舞台に固有の美を追求することが必要だったのです。
 審査にあたって提出された演出ノートを全文引用します。なお、本人性を強調すべきことは保存記録の立場からわたしが提案したのですが、それが集団全体の意向に沿う記述であることは確かです。

上演によって『紙風船』の戯曲を確かめることを主軸に制作を行なった。現代解釈に還元することなく、物語、登場人物の関係性、ことばの意味自体を増幅させるためのイメージを多用している。『紙風船』を上演するにあたって「夫妻とは何か:個々とは何か」という問いについて考察した。夫と妻の関係性を均質化するための「呼吸」と差別化するための「高低差」を用いて、出演者の本人性や制作過程に於ける関係性をシームレスに舞台に表すことを前提として、戯曲に表れている台詞やト書きを俯瞰した新しい全体像を作り出している。

 「物語、登場人物の関係性、ことばの意味自体を増幅させるためのイメージを多用している」とあるように、上演は岸田の意図したメッセージの効果的な伝達よりも、その意味やイメージの拡大を目指していました。これは岸田自身の「私の朧ろげに掴み得た「純粋戯曲」といふものは、恐らく、既成観念による文学としては通用しがたいもので、これこそ、一連の「声と動作の符牒」にすぎないものである」という発言と呼応しますが、彼らのクリエーションは戯曲の主題から軽やかに定位し、テキストをラディカルに「声と動作の符牒」として扱っていました。岸田戯曲に見られる軽やかで知的な韻律の流れには、音程やスピード、強弱の自由な操作によって、新たな音楽の命が吹き込まれていました。

・高低差

 戯曲は、舞台を縁側のある、庭に面した座敷に指定しています。外に開けた、開放的な空間が想定されているわけですが、彼らは特に舞台美術を設けることなく裸舞台で上演を行いました。どころか、上演は劇場空間の内部性を意識させるような、楽屋のドアをきつく締めるバタンという音から始まり、閉塞感が強く強調されています。
 岸田は上記の純粋演劇への志向性から、物語世界を再現するための明示的な舞台美術よりも、裸舞台に近いものを好む趣旨の発言をしています。それは彼がフランスでまなんだジャック・コポーの舞台理論を汲んだものでもあるわけですが、美術をまったくおかないどころか空間自体縁側のそれを離れて、抽象的な再構成が試みられています。
 夫婦の倦怠と退屈をなぞるようにして、作品は基本的に複数のミニマルな動きのパターンの反復を組み合わせることで成立しています。以降、本稿はこのパターンのいくつかを取り上げることに終始致しますが、その前に空間構成を簡単に示しておきましょう。例外もありますが、俳優の二人は基本的に次の図をベースに演技なさっていました。

紙風船配置図

 夫婦にあてられる最初のト書きにはそれぞれ、

夫 (縁側の籐椅子に倚(すわ)り、新聞を読んでゐる)
妻 (縁側近く座布団を敷き、編物をしてゐる)

とあります。小野さん・中澤さんは、この「籐椅子」と「座布団」の高低差に見られる夫婦間の非対称性に注意していました。その高低差は上記の木村さんの立ち位置や移動の自由さによって暗示されているでしょう。岸田戯曲の男女間にはしばしばぎょっとするような暴力性が垣間見えます。『紙風船』もその例に洩れません。
 夫役の木村さんはA、妻役の佐々木さんはB→C→Dを定位置とします。木村さんはかなり自由にこの定位置を離れ舞台を動き回りますが、佐々木さんはこのBCDデルタに移動範囲をほとんど制約されています。舞台が裸であるゆえに二人の遠近感覚が強調され、物理的にも象徴的にも「矢面に立つ」木村さんと、遠方に小さく留まる佐々木さんとの対照が際立ちます。これは「新聞」の外向性と「編物」の内向性にも対応しているでしょうか。そして、開閉音が示唆するドア、すなわち自由に開けた外部空間に最も近い場所としてBが置かれていることもあって、空間は一層多義的です。
 しかし、木村さんはAの場所にたどり着くなり、横になります。この動きは作品の中で木村さん・佐々木さんの双方によって幾度も反復されるものですが、高低差のうちで最も極端な低位置を示唆するものとみてよいでしょう(この動作が腰を落とすことに重ねられているのは、たとえばタクシーへの乗車時の描写から窺い知れます)。権力構造についてのステレオタイプでは一方的に高みに置かれるはずの男性たる木村さんを、まずもって低みに置くことから作品は出発するのです。以降も、二人の高低はしきりに交換されてゆきます。

・本人性

 これは彼らなりの作品の解釈からくるものでもあるかもしれませんが、それよりも、木村さんと佐々木さんとの関係性が舞台に反映されたものと捉えることが必要です。小野さん・中澤さんは上下関係や権力関係をなるべく廃絶し、個々が自由に創造性を発揮することを尊重した場づくりを心がけています。その伸びやかさは、座組中最も若輩者のわたしが強く証言いたします。
 そのような関係性の中で、木村さんが佐々木さんに対して、男性的で一方的な強さを顕示するような場面は殆ど見られないのです。むしろ木村さんは明るくにこやかに協調的で、それでいて時折繊細さを垣間見せる方です。また、佐々木さんはキャリア的には木村さんの先輩にあたります。そのこともあってか、木村さんは佐々木さんに信頼を強く寄せていらっしゃいました。そして、その信頼と親密さは相互的なものでした。佐々木さんはいつも毅然としていて、柔和さの中にも強さを放っている方だと私には感じられました。重心の安定して、しかしかすかに揺らぎを湛えて見える佐々木さんの佇まいと、木村さんの両足から少し前に重心が置かれ、立ち姿の均衡の軽やかな崩れを喚起する立ち姿とは、こうした本人性や関係性を暗示するものでした。木村さんの脱力を基調としつつ洒脱に語気を強める闊達な言葉遣いと、佐々木さんの芯の通った言葉の強度もそうです。
 暗示。そう、もちろん、こうした関係性は観客に対して明示されるわけではありません。けれども、舞台上に置かれる種々の姿や関係性の内に、そうしたものが暗示されていれば十分なのです。動作を戯曲上のそれと一致させず、また発話の強弱やイントネーション、ニュアンスをも多義的に操作したその演技は、舞台の緊張を持続させると同時に、俳優たちの役からの距離をも示しています。彼らはけっして役に完全に同一化することなく、主体的な俳優自身として舞台上に屹立します。こうして、テクストに示された夫婦間の静かな対立が、俳優たちとの邂逅によって豊かに変奏されることになるのです。

・循環

 佐々木さんはB→C→D→B…という風に、BCDデルタをくるくる廻るのですが、そのたびに前方へとまっすぐ手を伸ばして、BからDへの間じゅう、掌を腰当たりの高さで床に並行に滑らしています。この行き来は、たとえば舞台前方の座を占めてやろう、いまある場所への拘束から逃れて外へ出ようという意図の反映に見えます。その場合、Cへと引き戻されていくことの内にその失敗は明らかです。あるいは、雑巾がけといった日々の雑事のアレゴリーであるようにも、あるいは座布団に座る妻の「高度」を示しているようでもあります
この動作は幾度も幾度も反復されます。
 けれども、最初は自身の手に向けられていた佐々木さんの視線が木村さんの方に向けられるようになると、動きの意味合いも大きく変わってきます。そういう時木村さんはたいていAの位置に寝そべっていて、佐々木さんの手から見えない糸で引っ張られるように体を起こしていきます。夫婦で一緒にいたいという心情の発露の意味合いが、動きに含まれてくるのです。
 この動作パターンは木村さんによっても行われ、また糸で引き上げる動作/引き上げられる動作とも相手不在の状態で行われもすることで、一層多様なニュアンスを与えられてゆきます。
 夫婦は部屋の中で鎌倉行きをまるでほんとうに眼前で事が展開しているかのように夢想し、自由な空想の世界の中へと入ってゆきます。空想の主導権は最初夫の方にありますが、やがて妻へと移ってゆきます。と同時に、佐々木さんはCから大きく歩みを進めて、EやAの位置へと踊り出てきます。しかし、このBCDデルタからの解放もつかの間のことです。空想が終わると次第にルーティーンへと回帰していく彼女は、退屈と享楽のマクロな循環性の中にあるのです。

・呼吸と均質性

夫 (…)おれが新聞を読む。お前は編物をしはじめる。おれが溜息を吐く。お前も溜息を吐く。おれが欠伸をする。お前も欠伸をする。

 溜息、欠伸。ともに退屈に伴う生理現象ですが、注目すべきは、高/低・内/外の差を表していた動作からの移行です。退屈が動作の同期を促しているのです。
 小野さん・中澤さんは、「夫と妻の関係性を均質化するための「呼吸」」に着目しました。これは退屈や「紙風船」のファクターに結びつく、万人普遍の呼吸を通じて夫婦を架橋する試みです。けれどもその普遍性は、当時の郊外夫婦の「自由な暮らし」のありきたりさを裏返したものでもあります。
 「呼吸」のファクターは、正座・跪座・胡座・立って腕をピシと伸ばした決めポーズ等をしきりに繰り返しながらヒュッと息を吸う木村さんの動作としてまず現れます。
 正座→ヒュッ→中座→ヒュッ→胡坐→ヒュッ→正座→……
という感じで上演中、木村さんはしきりにこの呼吸を繰り返します。やがて、

夫 (…)お前が若し男だったら、さういふ時、どうする。

という正座した夫の問いかけに対し、妻も正座し、ヒュッと呼吸して応えます。妻が男の立場に成り代わることを通じて、呼吸の均質的な動機がもたらされるのです。
 さて、均質性はよいにしても、なぜこの息を吸う動作は上演を通じて、木村さんにほとんど集中しているのでしょう? それに、呼吸であるなら、吸ってばかりで息を吹く動作に乏しいことはなんだか不自然です。

・新しい紙風船

 紙風船に息を吹き込む準備をしているのだと考えてはいかがでしょうか?


夫  犬でも飼はうか。
妻  小鳥の方がよかない。

(長い沈黙)

夫  (欠伸をする)
妻  (欠伸をする)

(間)

夫  おい、話をしてやらうか。
妻  えゝ。
夫  昔々ある処に、男と女とがあつた。男は学校を出るとすぐ会社に勤めた。女は、まだ女学校に通つてゐた。二人は毎朝、同じ時刻に、郊外の同じ停車場で顔を合せた。そのうちに、二人は、お辞儀をするやうになつた。男が早く来た時には、男は女の来るのを待つた。女が早く来た時には、女は……
妻  先へ行つてしまつた……。
夫  さういふこともあつた。

 犬と小鳥、飼いたいものは異なっていて、二人の平行線のすれ違いを表現する描写であるようにも思われますが、思えば戯曲をとおして妻ははっきりと夫にものを言っています。意見を共有できるだけの信頼関係が二人の間にあることも確かなのです。欠伸の同期はその信頼の証と読んでもいいのです。第一、「先へ行つてしまつた……」だなんてはっきり伝えて、夫もそれを悠然と認めているのは、妻の自由な振る舞いを示していてなんだか愉快ではないでしょうか。舞台上の俳優の演技は、そのような信頼の中の愛嬌ある茶目っ気を薫らせるものでした。
 岸田國士にはユーモアやエロティシズムを通じて、筋の主張の強さから距離を取る相対化の動性が含まれています。その距離は舞台上の数々のイメージに増幅されて、ここに新たな像を結びつつあります。
 『紙風船』は必ずしも単なる倦怠を描く劇と見られる必要はありません。夫婦の退屈の緩慢な反復は、ここでは再鑑賞にも耐えうる舞台上の豊穣に包まれた、いつでも飽きずに仲良く喧嘩する男女版トム&ジェリーなのです。
 戯曲では最後、隣家の千枝子という少女の紙風船が庭に飛び込んできて、夫が紙風船を突き始め、やがて妻がそれを奪います。けれども舞台では、木村さんと佐々木さんとは舞台上で向かい合っていて、紙風船を突く動きは為されません。佐々木さんは静止していて、木村さんは両手を組んで左右に振りながら屈伸を繰り返していました。芸人の「キャイ~ン」のキャイ~ン・ポーズのような動作を、手で弧を描きつつ左右交互に繰り返すようなイメージです。
 たいへんユーモラスなこのイメージは、夫ひいては木村さんの屈託のない陽気さを示しているようですが、場面と弧状の運動性から言って、紙風船の動きをそこに推測することもできます。一度そう捉えると、むしろ紙風船と思わない方が不自然なくらいですが、とはいえこの動きは紙風船の動きからは距離があります。
 第一に、この場面では男は独りで紙風船を突いていますから、風船は上下運動をしているはずです。第二に、手は下向きに回旋するので、宙を舞う紙風船の動きと捉えるのは不自然なのです。この両者の観点を突き合わせたとき、振り付けは二人の人物の間でやりとりされる紙風船の写像の軌道を描いたものと受け取られます。この相互性を男性の木村さんが表象することはいかようにも重く取られるべきでしょう。そして紙風船の実体は彼の身振りの内には不在です。それは観客のイマジネーションを通じて初めて姿を現すでしょう。
 必死にキャイ~ン・ポーズ風の動作を繰り返す木村さんは次第に息が切れてきますが、やがてペースを落ち着けて、両手を付けた膝を折り畳んで、前かがみになって、ほっ、と息を整えます。「どら貸して見ろ、おい……。」それは、新しい紙風船に息吹を吹き込むことです。戯曲と演出家と観客との出会いの中で、そのそれぞれが開かれ、長い長い退屈な人生で幾度も幾度も繰り返されるだろう遊戯の新たな始まりがそこでは告げられているのです。

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