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いたるところに私の死、夢みる私の死:スペースノットブランク『ラブ・ダイアローグ・ナウ』評

・概要

 『ラブ・ダイアローグ・ナウ』は兵庫県の豊岡演劇祭2020(9/12,13)、静岡県のストレンジシード静岡2020 the Park(9/21,22)、そして鳥取県の鳥の演劇祭13(9/26,27)という3つのフェスティバルを巡回した作品でした。しかし、作品は途中で大きな変更を加えられています。
 豊岡と静岡では古賀友樹さんと札内茜梨さんが出演を務めていたのに対し、鳥取ではそれまで演出をしていた小野彩加さんと中澤陽さんが出演する。ここまでは当初から想定されていたのですが、豊岡滞在中に鳥取公演をテクストから一新することが決定されたのです。
 なお、鳥取でのテクストにはわたしの言葉も部分的に使用されているのですが、それはわたしの発話時の思惑や文脈から大きく逃れたものです。作品の制作プロセスには守秘義務があるため抽象的な説明になり恐縮なのですが、わたしがクリエーションに参加してなお批評性を保ちうる特殊な立場にあったことはあらかじめ断らせてください。

 さて、『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のおおまかな形式については、すでにスペースノットブランクのウェブサイトに掲載されたイントロダクションで論じ終えています。そこで本稿では、多少議論が複雑かつ主観的になることも恐れずに、しばしば難解とされる彼らのテクストの具体的な解釈に踏み込んだのち、作品がそれぞれの場所を通過するにしたがってどのようにその形を変えていったのかを整理します。

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 スペースノットブランクの舞台の特徴はその本人性の強さです。テクストは稽古場での人々の発話をコラージュ的に編集することで立ち上げられ、俳優は基本的には自らの言葉を喋ります。とはいえ、もちろんコラージュを通じて自分でない人の言葉を受け渡されることもあります。『ラブ・ダイアローグ・ナウ』はこれまでにも三度上演が行われており、そのときのテクストに用いられた言葉も残した状態で上演が行われましたから、俳優は身の回りの他者だけでなく過去の他者の言葉を背負うことにもなります。古賀さん・札内さんの両名は過去の『ラブ・ダイアローグ・ナウ』にも出演なさっているので、自然とそのときの身体のコンテクストをも身に帯びて振舞うことになったでしょう。
 こうした発話主体の曖昧さは、登場人物が一貫しているようには思われないテクストの内容によって、そして『ラブ・ダイアローグ・ナウ』という作品自体の性格によって、一層強められています。この作品は、人称が自在に交換される視点の動的な語りに特徴があります。たとえば、豊岡・静岡版の以下の箇所をご覧ください。

♠ 僕に
♥ 私に / とっての 出会い は 今 は なんか 選択するものだと思っていて 前までは 結構 来た 出会い をただ受け容れる感じだったんですけど 離れていく人は 出会い 終わったというか それも受け身だったんですよね 出会うか 出会わないかを 選択している
♠ 彼女にとっての出会いとは 出会っている 相手と 出会っている 自分を 自覚すること

 テクストには具体的な役名の表記はなく、俳優ごとにトランプのマークがそれぞれあてがわれているだけです。♠は古賀さん、♥は札内さんが演じていらっしゃいました。
 最初の「僕に」「私に」の台詞はふたりの俳優によってほぼ同時に発話されます。♠が喋ろうとしていたのを♥が横取りしたと、そういう風に受け取れる箇所ですが、この同時性のゆえに、発話の主導権だけでなく内容までもが横取りされたようにも解釈できます。その解釈は、先に述べたストーリー自体における主体の曖昧さの印象によって補強されます。
 そしてその解釈に立つとき、「彼女にとっての出会い」を説明する♠の語りは多義的です。あくまでフラットな他者として♥のパーソナリティに対する自己解釈を開陳しているようにも、あるいは三人称的な神の視点に立って♥の心の内側を客観的に説明しているようにも思われてくるからです。
 自分の視座に立つ一人称、相手の視座に入り込む二人称、そうした入り込みを可能にする汎神的な三人称のいずれをも行き来して見える人物たちは、しかしそうであってみれば、もはや主体とは言えないような、輪郭の溶けだした存在になっているようにも思われます。もちろん、そうした流動性は積極的な表現であって、そのことを通じて『ラブ・ダイアローグ・ナウ』では視点を取り交わす「対話」のなかで数々のありえた/ありえなかった出会いが肯定的に取り結ばれてゆきもするのです。
 しかし、はたしてこうした主体の弱さは直ちに受け入れられるものでしょうか? そこでは個々の俳優の個性や本人性は結局集合性へと還元されてしまうのではないでしょうか。この舞台では、現実とはなんらの実体的な基底を持たない、気楽に編集=交換可能なものへと化しているようにも思われるのです。それは、今日の消費社会と、その中を生きる我々の姿とに相似です。はたしてそこにはなんらの個体性も残されてはいないのでしょうか?

・ストーリーの合理的解釈

 豊岡・静岡版のテクストは17のチャプターから成るふたり組の会話劇です。以下にその内容を整理します。

1・辻褄 ある初対面のふたりの会話、およびつじつまや出会いの概念についての注釈
2・対話 少し距離のあるふたりの、距離をめぐる会話(おそらくは1と同一のふたり)
3・説明 ふたりが無関係な他者との出会いを強く記憶していること、♥が消失する(してしまっている)ことの説明
4・質問 またも距離のあるふたりの会話(モノローグを含む)、および階段を前にした♥の状況描写、向かい合う家に住むふたりの窓越しの出会いを再会として語る♥の状況描写
5・記憶 螺旋階段を下るふたりの状況描写、中学時代の回想、出会いの概念についての注釈
6・外出 服を買いに行くふたり(豊岡版では水着、静岡版ではコート)
7・部屋 螺旋階段の到達点の部屋の状況描写
8・定義 出会いの概念についての注釈
9・一度 中学時代の同級生(に似た人)との窓越しの出会い
10・二度 同上。ただし、窓ではなく扉越しの出会いとして描く部分もあり、描写には混乱が見られる
11・何度 電車の中のトイレでの中学時代の同級生(に似た人)との扉越しの出会い
12・四度 鉄格子の中での中学時代の同級生(に似た人)との扉越しの出会い
13・保続 ♠を置いてある場所の外へ出てゆく♥、その状況をめぐる両者のモノローグ
14・別離 窓越しの出会いとその中断、および♠が無関係な他者との出会いを強く記憶していることの説明
15・発券 劇場の開場前に出会う初対面のふたりの会話
16・再会 ある初対面のふたりの会話
17・死別 (空白)

 主体が分裂している以上、このふたりを人間や生物と捉える必然性すら霧散しはするのですが、ここではあえてテクストの最も愚直な解釈を図ることで、作品を線型的な筋に強引に押し込めることを目指します。
 ここには明らかに複数の異なるふたり組のエピソードが並在しており、かつ、それら同士の関係性も明瞭ではありません。すべてが同一のふたりによって展開されたものだとすると基本的に辻褄が合いません。その不条理は

♠ つじつま というのは なくてもいいものだと考えていて そもそも つじつま があっていない は その人の生理にあっていない とか 既存のものにそっていないものを見ると つじつまがあっていない

という、古賀さんの最初に発するモノローグによって既に宣言されたものでもあります。では実際のところ、恐らく作り手の意向に逆らいながら、『ラブ・ダイアローグ・ナウ』のつじつまを合わせることはどこまで可能なのでしょうか?
 スペースノットブランクの舞台は整合性の取れた全体的ドラマを過去のものとして、多義的で分裂的な生を生きるものですが、あえてここではそうした舞台のあり方に逆行して、語りを線型化、物語化することに努めてみましょう。それは、スペースノットブランクの舞台において、どこまでまとまった強い個人の姿を措定できるのかという問いに答えるためでもあります。観客の解釈の自由のために複雑にコラージュされたテクスト、それだけにしばしば観客の理解をはねつけ、「考えるな、感じろ」的構えをとらせることもしばしばのテクストを、あえて最も愚直かつシンプルに捉える道を進んでみるのです。上演をご覧になっていない方には、知らない筋が詳述されいささか読みづらいかもしれませんが、しばし御辛抱ください。
 描かれるふたりの状態は以下に大別できます。

①初対面のふたり
②螺旋階段のふたり
③窓越しのふたり
④服を買うふたり
⑤電車の中のトイレのふたり
⑥鉄格子の中のふたり
⑦開場前のふたり
⑧ふたたび初対面のふたり
⑨たがいに相手を注釈しあうふたり

 実は、これらの辻褄を合わせることはたやすいです。9組のふたり全てを別々の存在と見なし、まったく無縁の人びとを淡々と描いた群像劇として作品を受容すれば、矛盾はどこにも生じ得ないからです。しかし、それではつじつまが通っていても、どこがおもしろいのか、なにがしたいのかがわかりません。
 では逆に、全てが同一人物によるものと考えることはできるのでしょうか? その際互いに矛盾することになるのは③⑤⑥と、①⑦(⑧)です。③⑤⑥は、いずれも中学校の同級生との初めての再会を描いた箇所ですから、それを同一のふたりが三回繰り返すのはあまりに奇妙です。また①⑦は初対面の出会いを二度繰り返すことはできないために矛盾しています。さらに、これらの組同士が矛盾をきたしています。③⑤⑥は中学校時代の級友同士の再会を描きますが、①⑦(⑧)は初対面のふたりの出会いを描いているからです。
 さて、こうした矛盾につじつまを合わせるためには、もちろんメタ的な方法を取るほかありません。夢オチや妄想オチを採用するのです。愚直な解決ですが、スペースノットブランクのテクストに整合性を付けるうえではこれくらい大した禁忌ではありません。それに、肝心なのは、なにがそうした妄想を導くのかということです。
 ④⑨については、ふたりの仲は親密なものと見受けられます。一緒に服を買いに行ったり、お互いの性格を評し合うことは初対面では普通考えにくいからです。服を選ぶふたりのやりとりは足踏みの動きの反復を通じて演技され、わけてもにぎやかで微笑ましいシーンとして上演されていました。それにしても、「出会い」を描くことをコンセプトとするとステートメントでも主張し、モノローグでも幾度も「出会い」についてばかり語る『ラブ・ダイアローグ・ナウ』に、なぜこのような出会いの先の光景が描かれているのでしょうか?
 ②の螺旋階段の箇所は、ふたりの間の倦怠感のメタフォリカルな表現として理解できます。螺旋階段の終点たる「部屋」の描写は、買い物をした「外出」に続く箇所に置かれています。

♥ 外の光は もう なかった たぶん その光と同じくらいの存在感だったんですよ 彼が たどり着いて そこには 小さい部屋があった なんか 匂いが ちょっと 違ったのは これだ 書物の匂い
♠ ひとつの 小さな 部屋でした 無数の本棚が並んでおり 僕は ひとつを手に取ると 埃をはらって 目次を開きました でも まったく 文字が 読めません 書いてある言葉はわかるのですが 何故だか その言葉の 意味を 捉えることができません 目の中に浮かぶ埃のように 気持ち悪くなって その本を 床に 落としてしまいました
♥ 私は とにかく興奮していて 最初は 暗くて こわかったけど 私たちは もう この中を全部知っているから もうここは こわい場所 じゃなくて 安全 知っている から 安全な場所だ って思う
(…)
♠ だから 彼女が ここから 外へ出る って言った時は とても驚きました 何故なら 彼女が 一番 こういう場所を 安全で 落ち着ける場所を 探していた はずだから

 ふたりはその「中を全部知っている」のだけれど、そこの書物の「言葉の意味を捉えることができ」なくなっているのです。それは狭く小さな輪の中で、互いを知り尽くしたようでいながらそこに意味を見出しづらくなる人間関係の喩としては、直截すぎるほどです。「安全で落ち着ける」と同時にしかし「小さな部屋」でもあるその場所から、♥は出ていきます。そしてそのことに対する落胆が♠から聞かれます。
 わたしは、妄想の主体たる視点人物をこの倦怠期を経た別れを経験する人物(以下、A。♥はBとする)に設定します。すると、なぜ様々の刹那の出会いが幾度も形を変えて反復されるのかが見えてきます。出会いの先の破局を恐れるトラウマが、強迫的に「出会い」のイマジネーションを彼に反復させているのです。
 冒頭に置かれ、たびたび繰り返されるモノローグをここで参照しましょう。

♦ 今 ここにいるのは 消えてしまってからの 今 なわけだから ただ 出会わなかった 出会った すべての誰か にとって 消えるか 消えていないかは 等しい価値をもった現象であって 今も 町は 雑踏している 誰かと 誰かは 互いに 消え合わずに 対話している

この「消えてしまってからの今」という言葉については、何が消えてしまったのか、まるで明らかにされません。ここでやはり最も愚直に、BがAの目の前から消えてしまったのだと考えてみましょう。すると出会っている状態と出会っていない状態、消えている状態と消えていない状態との交換自由性を主張する上のモノローグは、愛する人の不在に直面してリアリティを喪失し、虚と実との区別さえつかなくなったAの心情告白として読めます。そうしたリアリティの欠落においては、「誰かと誰かは互いに消え合わずに対話している」。そのためには幾度も最初の「出会い」を繰り返さなければいけないのです。

♠ (…)印象的な出会いって訊かれたら 全然関わりのない人
♥ その瞬間だけ
♠ 出会った人みたいなのが
♥ すごい覚えてて
♠ 出会いっていうか その 記憶に残っている その 印象的な人って言うのは やっぱり あの いますよ 彼女も
♥ それ以上でも それ以下でもない
♠ それ以上でも それ以下でもない
♥ 話 / 私は 彼にとっては それが 必要なんだろうな と思ってました

という会話はこの解釈を正当化しているでしょう。「瞬間だけ」の刹那の出会い、「それ以上でもそれ以下でもない話」が、Aにとって必要だったのです。
 ふたりは中学校以来の同級生で、窓越しに再会を果たしたのだとしましょう、ひとまず。けれどもやがて破局を迎えます。Aは妄想の中で幾度もその出会いを反復しようとします。ある時は電車の中のトイレで、またある時は鉄格子の中で。
 では、ふたりがある時は初対面として、ある時は再会を果たしているものとして描かれているのはどういうわけでしょうか。冒頭の初対面のふたりのやり取りを見てみましょう

♠ はじめまして ですよね
♥ はじめまして ですね
♠ 前に会ってない ですよね
♥ そう ですね
(…)
♠ 出会っていない けど 出会っている
♥ 出会っていない けど 出会っている

ここでふたりは初対面で、過去には「出会っていないけど出会っている」。これはどういうわけなのでしょうか? 私はこの箇所については、妄想ではなくドッペルゲンガー説を採りたいと思います。♠(A)は相手に、前に会っていないかどうか確認をしています。それは、過去にあった人の面影がそこに薫っていたからにほかなりません。わたしたちはしばしば誰かにまた別の誰かの表情を見出して、同時にふたりの人間と会話をすることがあります。この他人の空似は錯覚かもしれないけれど、感覚はつくられたものではなく、実体的です。そのような時、わたしたちは実際に、「出会っていないけど出会っている」生を生きるのです。
 以上のように、妄想説と他人の空似説を採るとき、Aは一貫して同一人物でありえます。そして、Bの「消失」後にAが見出した様々の射影として、舞台上の種々のイメージを理解できるようになります。ただし、初対面のふたりが描かれるのは一度ではありません。
 ⑦開場前のふたりは、発見したチケットについて話を取り交わし、やがて番号の早い♥の方が先にホールへと入っていきます。

♥ じゃあ また後で
♠ え
♥ また 後で
♠ あー はい

この♥は、AがわかれたBとも、①での♥ともまた別の人物と取るのがよいでしょう。♥がAを置いていく、その構図の内に、AはBとの出会い、別れ、そして再会の「再演」を見出しているでしょう。それは、彼らがこれから見届けることになる舞台という、メタ的な次元へと構造化され、循環します。さきほどの9場面の区別に、さらにわたしたちは

⑩『ラブ・ダイアローグ・ナウ』を演ずることになったふたり

をも加えるべきなのです。
 ふたりの陥っていた、停滞へと向かうあの螺旋階段を包括する、より大きな終わりのない「螺旋階段」がこうして設えられました。この終わりのなさの中で、幾度も幾度もふたりは「出会い」を続けるのでしょう。以上の解釈は、『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の筋を十分統合的に整理するものであるように思われます。

・愛と死

 ボードリヤールは消費社会を批評したポスト構造主義の批評家としてよく知られており、その代表的な概念に「ハイパー・リアリズム」というものがあります。今日ではもはや基底的な現実というものは霧散していて、全てがシミュラークルという複製された代理表象と化しているというのです。ポストモダンを代表する作家であるボードリヤールの思想は、言い古されたクリシェ的なものとしてどこか忘れ去られているようにも思われるのですが、彼の予言した消費社会の姿がますます本格化する昨今では、むしろアクチュアリティを増していると言ってよいでしょう。
 そのようにしてコード化された消費的な生の牢獄からわたしたちは逃れられないのでしょうか?
 ボードリヤールはそれについて決定的な答えは用意していませんが、端的に言えば、死んでしまうことがその解決なのだと言います。死を以て消費的な生から逃れることができるというのではありません。短絡な死はすぐに消費の対象へとすり替えられてしまうでしょう。そうではなく、システムの側で贈与し返すことのできない、交換不可能なものとして自らの「死」を記号の戯れに投げ入れることだけが、それを駆逐することで循環してきたこのシミュラークルの世界から逃れ得る術なのです。「死者」という名の本性的に偶有的な「他者」をいかにして招来するのか。
 もちろん、この「死ね」という主張を文字通りに受け取っては自決の美学、テロリズムの美学です。
 しばしば舞台上の俳優の姿は死体に喩えられます。もちろん、そこに生命力や意思がないとか、そういうことが言われているのではありません。「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」と述べたのは土方巽ですが、これは自らの身体を徹底して受動的な相に置き入れることを言ったものだと読めます。身体的アイデンティティの自己消尽を通じて、合理化された社会の中に再度「死者」を呼び起こし、主体やシステムのありようを根底からぐらつかせることが、舞台の重要な機能なのです。
 こうした受動性は舞台一般の特徴です。一方的に視線を浴びせられる客体の場に自ら身を投じ、自分でない存在になることが舞台の経験と言えるからです。『ラブ・ダイアローグ・ナウ』が今回いずれの公演でも屋外で上演されたことも銘記されるべきです。特に豊岡や鳥取は天候がうつろいやすく、一時間先の天気もわからないような偶然性に曝されながら上演は催されました。豊岡・静岡ではどちらも一日目には抜けるような青空が広がり、二日目には雨風の強い厳しい環境で、ひどく対照的な空模様のなかで公演が敢行されたのです。
 もちろん、スペースノットブランクの舞台において客席と観客の視線は相互的なものですし、またたしかに俳優の本人性が強調されますから、出演者は主体性を保持しているということもできます。しかしそれは、俳優の身体存在を純粋化することで、さもなくば透明化されてしまったであろう客体化された彼らの具体的な相貌を現前させるプロセスとして読むことができます。本人性は商品化のコードから逸脱してゆくのです。交換と編集という消費文化の論理から逃走することなくむしろそれを歓迎したうえで、そこにバグとしてのオーセンティシティを仕組みシステムをハッキングすることが、スペースノットブランクのテクストの要諦なのです。
 スペースノットブランクが本人性を重視する仕方は、実は了解されにくいのではないかと思われることが私にはしばしばです。舞台のどこにどのようにして俳優自身の本人性や関係性が出力されているのかは観客にとって明瞭ではありません。しかしそれは、個人のアイデンティティを瞬時に判別できるようなスマートな記号に還元しないという配慮の帰結でもあります。
 ボードリヤールが「死者」を呼び込む方法として示唆するのが、ソシュールのアナグラム理論を下敷きにした詩的言語論です。アナグラムというと普通は文字列をランダムに並び替えたものが想像されるかもしれませんが、ここでは異なる語法で用いられています。言葉の音同士がまったく意味的な脈絡を欠いて結びつき、奇妙なネットワークを構築してしまう。そのことで線型的な文章構造をでこぼこに穿ち、ある種の「革命」へと至るのだというのが詩的言語の理念です。
スペースノットブランクの演技では、しばしばこうした無意味な種々の「押韻」が見られます。テクストの意味内容や文脈からは距離のある謎の動きやイントネーションが頻繁にあてがわれていて、それらがシーンを無意味に跳躍したつじつまの通らないイメージの連結を引き起こすのです。
 また、そもそもスペースノットブランクのテクスト自体が、こうしたアナグラム的読解による産物なのだということもできます。彼らの舞台について「言葉同士のつながりが意味不明だ」という感想はよく聞かれますが、それもそのはずで、稽古場での膨大な発話の集積から、まさにアナグラム的な手法で、特定の語彙に注目して文脈をリープすることで言葉が編まれているのです。

♣ 東浩紀さんが 『動物化するポストモダン』で そういう ゲーム的なリアリティというか 世界が並行的に存在していて そのどこに 軸足を置くか というのが まったく偶然でしかないような リアリティの感覚を 論じていた と思うんですけど そういうものを 感性的な 感覚的なレベルで 実現してるのが ドラクエだなって 思って アートだなって 思いました そう考えると そういう 公共交通機関 って 出会いの宝庫だなあ と思って その 不特定多数 の人と 定期的に すれ違ったり 出会ったりするから

こちらは鳥取版の戯曲の一部で、「そう考えると」の前後のつながりは明らかにおかしいのだけれど、この言葉自体は、ドラクエがアートであるという話の直後に来ても問題がない。とにかくなにかしらの言葉や構文の対応を捉えて、非意味的な切断と接続がここでは行われている。そのような継ぎ接ぎが作品のいたるところで行われているのです。
 そしてこの継ぎ接ぎ構造は、語りを継いでゆくことを明示的に観客に示す『ラブ・ダイアローグ・ナウ』では一層前景化し、イメージの複雑な交感を用意していたのでした。たとえば以下の箇所をご確認ください。

♥ なんか / 一秒に 一人すれ違っても あの この世の人と 全員とは 出会えないっていうのが あって
♠ そういう ことを しないと もう 話すこともないし あの 関わりを持てない って いうことを 思うんですよね なんか
♥ なんか / 一秒に 一人すれ違っても あの この世の人と 全員とは 出会えないっていうのが あって
♠ 悲しい というか / 少し 寂しい というか
♥ 冷たい 冷たくて / ひんやりして / で すごいこわくて
♠ だから このソフトクリームさえあれば 向こう側にいる人に 出会えるんじゃないかって あの マクドナルドの二階の窓から 横断歩道を見下ろして よく 考えてたりしました

 さて、あらゆるものを交換可能な記号へと変換する消費社会の体系を流通しつつも内側から蝕む、こうしたまったき偶有的他者としての「死者」の表象が、『ラブ・ダイアローグ・ナウ』、ひいてはスペースノットブランクの核に認められることをここまでで確認してきました。そこでは前節でわたしに解釈されたような、虚実の曖昧なシミュラークルの世界のただなかで、居心地よい出会いの瞬間ばかりに手を伸ばす終わりのない幸福な循環も、やがて食い破られてゆくことでしょう。
 豊岡・静岡版のテクスト末尾を飾る空白の終章、「死別」という副題の含意が、ここでようやく了解されるはずです。武者小路実篤ではありませんが、実は『ラブ・ダイアローグ・ナウ』における愛は常に死と隣り合わせだったのです。「ラブ・ダイ(…)」。
 観客に明示こそされませんでしたが、鳥取版のテクストは豊岡・静岡版の終章「死別」の続きから始まりました(尤も、彼らの舞台は常に過去のコンテクストを含みこんで途上にあるものですから、そこに特段の断りが必要だったとは思われません)。「出会い」という言葉とは裏腹に離別を思わせる台詞が多く読まれ、愛/死、出会い/別れの区別はいまやほとんど見られなくなってしまっているのでした。

♢ よくやりがち 前進 桜 全開 一方通行 待ったなし
♧ ちょっと響き的には 寂しめ かもしれない
♢ 死ぬ こと
♧ 解脱
♢ 人生 を 辞めること これ 質問です 知ってますか
♧ 知らないです
♢ ひとこと で言えば 記憶 が 一切ない です
♧ 今まで 僕が 会ってた人と 会えなくなって これから 会う人が 決まってくるやつ なんやな って 思ってます

 しかし、それを高度情報社会のクールな死、つまり死と重ね合わせのような空虚な生というありがちなイメージの写しとのみ捉えるのは貧しい見方であるように思われます。むしろこのことは、よりよく現実を生きるためには「死」を選ぶほかないのだ、というボードリヤールの箴言とともに理解されるべきでしょう。この閉塞した過剰接続の世界を瓦解させてしまうこと。

・内と外

 『ラブ・ダイアローグ・ナウ』は今回、内/外という二項対立を縦横に張り巡らせていました。それは野外劇という上演形式、あるいは外部から招かれた客としての各地でのスペースノットブランク自身の立ち位置にも呼応しているでしょう。
 ソーシャル・ディスタンスがしきりに叫ばれて、誰もが家に閉じこもることを余儀なくされた季節、隣県への移動もが容易でなかった季節を通過しあるいはそのただなかにあるわたしたちにとって、この概念の対が持つ含みは一層複雑です。
 九月の間じゅう、三地域を回ったそのツアーのなかで、どの場所もわたしにはアットホームで親密な場所として過ごされました。豊岡はキノシタという喫茶店のレーズンバターサンドが最高でしたし、宿もオーナーが気さくで舞台にも近く、心安らぐ場所でした。静岡はなんといってもさわやかのハンバーグがおいしくて二回も訪ねてしまいましたし、時代の異なる様々な建物が重層的に立ち並ぶ街の表情がエキゾチックでした。鳥取は宿がジョジョの奇妙な冒険を完備していて読み狂いましたし、近くに安価な温泉があって毎晩そこを利用して、いつになく快活な気持ちでいました。どの場所も大切な思い出としてわたしの血肉になっています。
 舞台とは「内」と「外」の境界がゆらいでいき、彼岸と此岸とが邂逅を遂げる場でもあります。それはトランプの記号に代理された主体が俳優自身の実存を離れて、生物一般や場所、出来事に変貌し得るまで拡散するよろめきのステージです。以下では、それぞれの場所と作品とがどのような出会いを遂げたのかを整理しておきましょう。

 最初のテクストが制作された七月の時点では、さまざまな事情から静岡・鳥取での公演は確定していませんでした。ですからテクストは、豊岡での上演を主に想定してつくられたのです。そして七月当時、作品は神鍋地域の噴火口で行われる予定でした。実際には諸事情から、同じ神鍋に位置する、オフシーズンということで休業しているゲレンデことアップかんなべで上演はとり行われたのですが、螺旋階段を降りていくというのは、中央に向かって狭まってゆく火口の印象から派生したもののように感じられました。
 アップかんなべは見晴らしの良い高原で、何本か高くそびえた木が、垂直性の印象を強く喚起しました。高い木々の下方にふたりが位置するのは、螺旋階段を下りてゆくその先の景色であるようにも見えてきます。テクストと場所とが予期せぬ偶然的な関係を結びました。

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 偶然の呼応ということで言えば、アップかんなべはオフシーズンにはゴルフ場としても解放されているのか、あちらこちらにフラッグが立てられていました。スペースノットブランクはあえてその場所性を否定することなく、フラッグを残した状態で上演を行いました。そして、作品中で俳優のふたりがそれぞれ水を飲むためにとどまるフラッグの番号が、意図せず開場前のシーンで読まれるそれぞれのチケットの番号に対応していたのです。このことに最初に気づいたのは俳優の古賀さんで、すべての公演が終わった後で「わざとそうしているのかと思った」と言って、みんなを驚かせていらっしゃいました。
 開放感あるこの見晴らしの中で、客席としてはキャンプ椅子が用意されました。観客と舞台との間には少し距離があり、この遠近のちぐはぐさ、木々の高さと人々のサイズ感のちぐはぐさが作品の構造とも照応していたと思います。こうして設けられたいくつかの「距離」を超えてゆく「対話」の力強さが、『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の舞台経験の根幹にあったようにも思われます。

 古賀さんは言葉も身体もとても柔軟で、心の奥底の見えない繊細な強度をもった俳優だと感じます。稽古中も気さくに冗談をとばしていらして、その道化的な闊達自在さを発話や動きの豊かなバリエーションで以て如何なく発揮していらっしゃったと思います。
 札内さんはよく笑い親しみやすい方で、と同時にどこか穏やかに芯が通っていらっしゃる方だなと感じました。多彩な飛び道具を振るう古賀さんが作品の「動」の部分なら、札内さんは重心を低く構えた「静」の位置を司っていらっしゃるように思われました。スペースノットブランクの舞台では、観客と視線を共有し、言葉を共有し、つまりそこになにがしかの場を生起させることが本質的な契機として働いているのですが、札内さんは眼に表情に力があって、その力によってこの「場」へと自然に引き込まれてしまうのでした。この循環的に互いの魅力を高め合うようなメリハリの利いた関係性が、舞台に動的な力をもたらしていたと思います。

 豊岡の舞台は四方を自然に囲まれて人も少なく、ある種俗世から離れたファンタジックな空間だったのですが、静岡の舞台は、人通りの多い駿府城公園のただなかでした。また、舞台は横長に区切られ、客席は舞台を正面から捉えるパイプ椅子。豊岡と違い比較的に場所性の希薄な、劇場に近い空間設計の舞台だったと言えます。
 静岡の舞台が独特だったのは、周囲に人がいるというこの環境でした。公演の行われたストレンジシードというイベントは基本無料でありながら、感染症対策でステージと客席は柵に囲われていて、内/外の区別が初めから意識される空間となっていましたし、柵の外から舞台を見る市民の方などもいらして、その中間地点で舞台を見る演出家の立ち位置や、舞台とその外部との関係を多義的に増幅していました。周囲の人々の声や環境音が舞台にひときわ干渉した点でも、静岡は「出会い」を意識させる場所だったでしょう。
 声の聞こえへの配慮から演技はピンマイクとともに為され、空間の開放性のゆえに声が拡散してしまう困難さのあった豊岡版に比べて、会話の質がシャープでクリアになる楽しみもありました。

 内と外ということで強調せねばならないのは、豊岡・静岡版では演出の小野さん、中澤さんもが舞台に登場して台詞を発していたことです。上演時間中、ふたりは観客の目に届く位置に腰掛け、観客と同じように舞台をまなざし、しばしば笑みをこぼしていました。
 彼らは舞台の外縁に設置されたマイクで発話します。マイクを用いた表現はスペースノットブランクにはしばしば見られますが、それは一つには、視覚的な身体性をキャンセルし、純粋に音響的な形で舞台に参与するための方法なのだと言えます。あるいは物理的心理的な種々の境界を越えて、求心性の強い仕方で言語情報を打ち出すための術だと観ることもできるでしょう。
 いずれにせよ、そこでは演出のふたりの声は、俳優ふたりの位置する舞台に対して超越的な「外」の位置に置かれることになります。けれどもその空間は視線の場に拘束され客体化される「内」部でもある。純粋な聴覚情報へと外部化された幽霊のような他者を内に取り込む上演構造が積極的にとられていたのです。
 内/外という問題系は、当然システムの外部者としての「死者」の座する場所をも想起させるでしょう。静岡の公演の二日目(これが千秋楽でした)には、わたしも含めて、使用するマイクの位置をこれまでの公演とは反対側にするよう演出が下されました。それは作品が大きな反転を迎えた鳥取公演に対する一定の身構えであったのでしょう。

 続く鳥取は鳥の劇場の屋外に置かれた舞台でした。劇場がすぐそばにあるのです。静岡でも舞台の形が劇場のそれに接近したと先ほど述べましたが、ここにきて舞台は文字通りに最も劇場に接近し、すなわち虚構の場としてのその性格が自然と意識されるようにもなっていたのです(とはいえ、鳥の劇場のグラウンドに設置されたこの舞台は、中央の舞台から後方二手に斜めに伸びる花道が渡されて、後方二つの舞台とこれをつなぐような極めて特殊な形状が取られていましたが)。

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 (こちらの写真は鳥の劇場のTwitterから拝借しました)

 古賀さんと札内さんは静岡で離脱し、小野さんと中澤さん、それに舞台監督の河井さんと制作の花井さんとが出演なさいました。豊岡でテクストの変更を決心し上演に間に合わせた彼らのこうした制作の素早さは特筆に値しますし、場や文脈に応じて作品の姿を切り替えていく姿勢は作品自体の質を貫通してもいます。
 劇場への接近、それから古賀さん・札内さんの不在といった種々のファクターが絡み合ってか、作品は前の節で論じた「死」の側へと突き抜けてゆきます。『ラブ・ダイアローグ・ナウ』はタイトルを裏切るかのようにそのほとんどをモノローグで構成していたのですが、鳥取版ではダイアローグは徹底的に切り詰められて、一人の出演者が長台詞を展開する場面が続きました。もとはドラムなどを持ち込んでにぎやかな舞台にしようというプランもありましたがその案は結局放棄され、動きやイントネーションの豊富さによる装いも抑制されて、発話も平坦、リフレインの構造を強調したミニマルな舞台でした。小野さん・中澤さんが静岡にいる間、河井さんは豊岡、花井さんは東京にいらして、そのようなリモート制作が不可避の状況にとってモノローグがより適合していたという事情もあったでしょう。
 わけても刺激的だったのは、この舞台奥から花井さんが匍匐前進で舞台の下を這って来て、すっと舞台の下側から観客の目の前に急に姿を現すという一連のシーンです。舞台上では中澤さんがドラクエの地底世界についてのモノローグを展開していました。
 中澤さんは鳥の劇場の屋根に上ることを画策していたようですが、建造物の耐久性の観点から実現ならずとなっていました。これまでの批評でもほとんど筆を尽くせずにいた箇所ですし、またここでも詳述することは控えるつもりなのですが、彼らの空間を余すことなく活かそうという姿勢と、その実現の見事さは特筆に値します。

 劇場への接近の帰結として、この鳥取版では舞台と客席との関係が強く主題化されていました。中澤さんの最初の長台詞は

♣ ここと そこって 遠くないですか 見えるし 聞こえるのに 遠くないですか

というように始まりますが、ここには明らかに客席との「距離」についての含意があります。  
 豊岡・静岡版で描かれていた窓越し、電車の中のトイレ、鉄格子の中での幾度もの出会いは、観客にとっては構造化の容易でわかりやすく、創造も膨らませやすい、楽しい箇所だったかと思われますが、鳥取版ではばっさりとカットされています。類似した異なるエピソードの並在という論理を離れ、内と外の関係性の方へと作品の重心が移行していたのです。
 稽古中にはペーター・ハントケの『観客罵倒』の題も聞かれました。観客に直接語りかけることで、俳優と観客との関係性を新たに構築することを志向した有名な作品です。『ラブ・ダイアローグ・ナウ』は露骨に挑発的な台詞を含んでこそいませんでしたが、鳥取というローカルな環境の観客に対し、あえてひときわストイックな形式で以て対峙し、単純な消費にとどまらない批評的な受容を観客に促す志向性を持っていたと評価できるでしょう。モノローグの増加は、観客に対する直接の語りかけの比重が増すことを意味してもいます。
 鳥取の一日目ではアフタートークがありましたが、最前列で熱心に話を聞いていらしたご年配の方が終演後わたしに声をかけてくださり、二、三の質問の後で、理解はできなかったけれども興味深く見た、また機会があれば足を運びたいという旨のことを仰っていました。
 個人の声を集積し接続するスペースノットブランクの舞台はこの『ラブ・ダイアローグ・ナウ』の緊密な「対話」にあって、自己閉塞の裏返しであるようなあまりに過剰な接続の場へと躍り出てしまったかのようでした。しかし、そうした逆巻く波の中へ自在にダイブする彼らは、全てを交換可能性へと還元する冷徹な消費構造のただなかに、たしかな風穴を開けてもいたのです。

参考:
ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』.
林道郎『死者とともに生きる―ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す』.

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