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落雷と楽奏のあとで スペースノットブランク『ウエア』評

 本稿では、東京はるかにのメンバーの複数の評をコラージュして提示します。主宰の植村はこの公演に保存記録として携わり、稽古場には週一、二回程度の頻度で赴きながら、その制作プロセスを見届けてきました。十七日の夜の回以外のすべての本番を観劇し、また開場時間には客席に向けたイントロダクションを行いました。他メンバーは四人、観客として、この上演に参加しました。その様々な声の集合を、どれが誰のものであるかわからないように編集し、整理したものが以下の文章になります。
 舞台写真にはtakaramahayaさんが撮影なさったものを利用させていただきます。
 なお、23628字という長大さを鑑みて、字数を半分以下に縮小した省エネ版を用意いたしました。そちらも、参考になりましたら幸いです。

・保存記録の立ち位置

 今回わたしは保存記録という立場で、稽古場への自由な出入りが許されていました。演出助手のような役割を想像される方もいらっしゃると思うのですが、基本的にはわたしは稽古場の端にいました。俳優の方々を観る稽古場脇の演出のお二人のさらにその後ろにいました。終始、稽古を見学させていただくような仕方での参加になりました。
 ときどき作品に意見を出すことはありましたが、細かい見え方の調整というか確認が主で、作品の解釈を左右するような素材や構造については、みなさんが創っていかれるのを傍からずっと見守り過ごしました。

 スペースノットブランクのクリエーションではなるべく個々人の個別の演技については良し悪しを言わず、誰がどの台詞をどう発話するのが作品全体により資するかというバランスの面から作品を構成していくやり方が取られていました。
 ですから、それぞれの俳優について、何が出来て何が出来ないのか、ですとか、シーンや台詞ごとにどのような文脈を帯びて逆にどのような文脈を帯びないのかを検討し、脚本を組み直すことに、多くの時間が充てられていました。
 それだけに、今回が初参加の櫻井さんは、目指すべき演技の方向性がわかりづらそうでした。かなり特殊な方法だったと言ってよいでしょう。

 動きや台詞、演出について、それを行う理由をさほど提示しないところにスペースノットブランクのやり方の特徴があったと感じています。それは一見演出家とその他のメンバーの間に情報の勾配をもたらし、演出家に有利な権力構造を助長させそうですが、そうではありません。演出サイドも解釈の確定的な答えを用意せずに、ただ状況を敷いていく仕方で創作が行われていたということです。
 というか、誰がどう動き話すのか、その最終的な状態を観ない限り、なにが現れるのかは演出サイドもわからない、というスタンスが取られているように見えました。演出家の頭の中にある何らかの意図を実現するためにそれまでの道のりを組み立てるというよりは、おおまかに目指したい方向に向けて人や動きや言葉を配置していった結果、おもしろい物が見れて嬉しい、その積み重ねから作品が出来ているようでした。
 そして、やはり、その成果物の受け取られ方も一意に定まるものではありません。舞台は受け手の想像力によって編まれなおされるのを待っているのです。

 ですからこの批評も、観客の皆さんに作り手の意思を提示して答え合わせをしてもらうというよりは、作品により長く寄り添ってきた一観客の目から、あくまで主観的に自らの批評を披露するものです。
 『ウエア』を創られた方々に「わたしはこのように想像し、受け取りましたよ」と意見を提示するための批評という性格をも強く帯びています。
 そのように、稽古場の内にいながら、あくまで客観性をもって批評を行えるような配慮、外に軸足を置きながら創作環境の内へと入り込めるような手引きは、皆さんが親切に和やかに用意してくださっていました。
 わたしは、にこにこけらけらと作品の世界を楽しみ続ける、ちょっと特権的な一人の観客に過ぎなかったと思います。
 ですから、公演を「保存」し、「記録」するためのこの文章も、あくまで「批評」として提示したく思います。

 わたしは公演前にクリエイションメンバーにインタビューをさせていただき、またイントロダクションの執筆をも行いました。開場時間でのイントロダクションも、観客の方々の鑑賞に一定の方向付けを行ったことと思います。
 それらの全文もnoteに掲載しておきます。

池田亮さん インタビュー

額田大志さん インタビュー

荒木知佳さん・櫻井麻樹さん インタビュー

瀧腰教寛さん・深澤しほさん インタビュー

WEB版 イントロダクション

当日版 イントロダクション

・あらすじ

 「あの」? 二〇二〇年の三⽉十三⽇から十七⽇、新宿眼科画廊スペース地下で、スペースノットブランクの『ウエア』が上演されました。
 出演者は、荒⽊知佳さん、櫻井⿇樹さん、瀧腰教寛さん、深澤しほさんの四名です(台詞も彼⼥ら⾃⾝の名前で記されています)。

 山崎健太さんの書かれたレビューも、上演の様子をみごとに伝えていらっしゃいます。ぜひ一読されることをお勧めいたします。

 最高にクールで、格好良い舞台でした。
 何が起こっていたのかを、この演劇を観たことが無い方に伝わるよう、簡潔に説明するとすれば、チームラボ的演出とコンテンポラリーダンスと演劇の融合です。

 スペースノットブランクとしては珍しい、物語=ドラマの上演となっていました。
 順風満帆にキャリアを積みあたたかな家庭を築いている様子の「須田」という男性のもとに、彼がかつて携わった映像配信企画の使われなくなったメーリスへ、当時の同僚の「岡」から奇妙なメールが送られてきます(原作は池田さんが、かつて勤めた企業の実際に使われなくなったメーリスに送った文章の集積から成っています。ですからこの時点で、岡の振る舞いと池田さんの創作はアナロジカルな関係に結ばれています)。
 読んでいるうちに、埼玉県十枡町のヤニクと呼ばれる場所で岡と一緒に薬物を栽培していた「ニコンロ」という男性と「ナミ」という女性の存在が明らかになります。
 ニコンロは自作の小説を読ませた岡にヤクを吸わせ、バッドトリップさせることで、岡と一体化し、夢想の世界で「ナミ」と逢瀬を果たそうとします。須田は真実を確かめにヤニクへ足を運びますが、自身の存在を岡に乗っ取られてゆきます。いつしか入り込んでいた冷蔵庫の中から、須田は岡の世界に取り込まれまいとして脱出しますが、その顔はもう岡になっていました。

 と言われてもよくわからないと思います。正直作品の全貌については、クリエイションメンバー全員よくわかっていなかったと思います。
 わかりえないことが『ウエア』の根幹をなしていたと思います。
 登場人物は嘘をつきますし、ヤクが吸われて幻覚と現実の区別は溶けだしていきますし、そもそも物語自体池田さんの描いたフィクションです。このように、虚実の境界が幾重にも重層することが、本作の特徴です。受け手は、多重化し偶然化した現実のいくつかを選択することで、ようやく物語を受容するのです。

 シナリオに度々出て来るのが、「目に見えるものと今までを描写するしかできない」という一文に続く、名詞の羅列です。従来の演劇では、物語を組み立てるに当たり、台詞としての言葉が大きな構成要素となっています。一方この作品では、その言葉が持つ力への不信感から、「目に見えるものと今までを描写するしかできない」という一文が繰り返されます。しかし、その後に続く、「綿埃 髪の毛 コンタクトレンズの箱とシート・・・」といった事物の描写でさえ、真実には思えません。それらの事物に人間が勝手につけた名前を並べ立てているに過ぎないのですから。
 そんな世界の中で、事実になり得ない真実を追い求める物語が『ウエア』なのでした。

 このような主体や真実の重層を許容させるのが、「メグハギ」という謎のキャラクターの存在です。メグハギは物語に突然現れ、誰にでもなれる集合的で抽象的な存在として、正体を明かさぬままに岡や須田を飲み込んでいきます。

・メグハギ

 「メグハギ」の正体を抽象的に説明するならば、それはわたしたちが没肉体的な世界へ幽体離脱する際に必要になるメディウムmediumです。それは芸術家の用いる媒体をも、他者の声に身体を貸す霊媒師をも意味し、メディアmediaの単数形とされます。複数のものの間を-メmed-なかだちするというのが本意であり、日本語においても〈媒〉はなかだちと訓まれるのは、はたしてただの偶然でしょうか。

 物語の前半、舞台には前景に女性の肉体、後景に男性の肉体がそれぞれふたつずつ置かれます。非散文的で不定形な信頼できない語り手の声は女性たちの肉体を借り、矢継早でワードサラダめいた内容もさることながら発声も緊張と破裂をはらんでいて、不意にうえあああああ、とひびわれた母音が貫入しうるような、内容的にも音声的にも分裂した語りをなしています。

 この、より媒介的な性格を持つ声を(グラデーションとはいえ)女性の肉体のほうが担わされているのは、「メグハギ」にオナモミとメナモミのメme(=女)が見いだされうることも手つだうところでしょうし、現実からの救済へのきざはしとして、男性にまなざされるものとして帯びている、うっすらとした作劇的女性性にもよるのでしょう。
 〈媒〉は形声文字であり、男女の仲をとりもつ意の偏と神木に祈る意のつくりからなるのですが、しかしここでは〈なにがし〉と〈それがし〉の折りかさなりあう一人称的な匿名性によって、男たちのあいだを稀釈されてただよう、うすらかな少女の表象が嗅ぎとられるのです。

 池田さんによれば「恵み」「剥ぎ」という二つの言葉から取られた名前だという、その可変的性格を露わにするかのような「メグハギ」という言葉は、埼玉県「綿」谷市という架空の舞台に繁茂する雑草の名のようにも見えます(そこでは大麻を栽培しているのだからなおさらです)。ここに「つぎねぷ」という類似のひびきを持ちだして、出典となる藤井貞和の詩「つぎねぷと言ってみた」も引いておきます。

ヨるがあケようトして
ぴトびトはいっしゅん
つぎねぷをまくらに
うごかなくなる

コトばをトぽしてさぱる

なにに
なににかぱわからない
ゆるしをコぷために
かいてゐるのだト
おもぷトきがすこしある

 藤井貞和は国文学研究者でもあります。「つぎねぷ」とは古代の正体不明の枕詞。つかうともつかわれるともつかない関係をひとびととの間にむすびながらかれらの間を浮遊し、つぎねぷは不定形なことだまの提喩として登場します。(この詩はASA-CHANG&巡礼によって楽曲に変奏されましたが、そのミュージックビデオにおいて女性ふたりの踊子は音に合せて終始びくんびくんと動きまわります。その様子もまた、『ウエア』の前景における〈媒〉としての女性ふたりをつよく思わせるのです)

・メディウムの現前性の先へ

 メディウムがすぐれて媒介たりえるのは、メディウムが自身の存在性格をうまく観客の目から消去している時です。絵は「絵じゃないみたい」であればあるほど、リアルな別世界への窓たりえます。また、ドラマや演劇を見ていて、「俳優の顔や私生活がちらついて感情移入できない」などとのヤジが耳にされたことも一度や二度ではありません。
 ですがスペースノットブランクは、俳優や戯曲、演出家に照明、音響といった舞台を構成するメディウムの存在に決して嘘をつきません。普段の彼らの作品は俳優自身の発話のコラージュから成り、俳優はなんらかの役を演ずる「役者」ではなく、あくまで「俳優」その人自身としてそこに立つのです。

 けれども今回の『ウエア』は、誰かが別の誰かになる、という状況を扱った物語です。物語には登場人物がおり、それを演ずるとき、俳優その人の顔は普通その「役」の陰に隠れてしまいます。俳優は質料ではなく、媒介としてのメディウムにならざるを得ないのです。そしてスペースノットブランクにとってそれは退行を意味しています。
 ですが、メディウムそれ自体の質料としてのありようを表出的に現前させるようなアートは、そう長い寿命を持ちません。
 絵画の場合、キャンバスを一色で平坦に塗ったりしてみて、「色」「形」「筆触」「キャンバス」といったその構成要素を前景化した歴史がありますが、すぐにインスピレーションの泉は涸れ果てました。言葉少なに抑制された表現によって明るみに出された「モノ」は、語りだす時を今か今かと待ち受けています。
 松原俊太郎さんの戯曲を用いた『ささやかなさ』を上演したスペースノットブランクは、よりドラマ性の強い表現を、表出されたメディウムの上へとインストールする道へと進みつつあるのだと思います。それは確かな前進と言えるでしょう。

 とにかく自然な演技が好きで、台本が無いかのように見えるのが芝居のゴールだと信じていたわたしには、不自然極まりない動きたちに乗って、何故か却って台詞がスッと入ってくるのが新鮮でした。

 スペースノットブランクの作品には、「なんだかよくわからないけど面白い」という声がよく聞かれます。けれどわたしは、できればわかってほしいと思います。ただし、ただ一つの「わかり方」はおそらく用意されていません。それぞれがそれぞれのわかり方で、想像をふわふわ羽ばたかせて欲しいと思っています。わからないのも一つのわかり方かもしれません。けれども、想像するためのフックはたっぷり用意されています。
 スペースノットブランク、そして『ウエア』は、自由なわかり方を許してくれる場所でした。しばしば難解でストイックとされるスペースノットブランクですが、その突き抜けた表現の中で展開されているのは、観客の想像力への信頼をもって初めて成立する詩情です。
 ですから開場時間でのイントロダクションでは、みなさんのイマジネーションの駆動を促すことを意識しました。

 この『ウエア』で、俳優はあくまで役の陰に隠れてしまうのではなく、その存在を強く主張し続けながら役の姿を重ね着してゆきます。
 解釈にも存在にもキャンセルをしない。ただ折り重なってゆくだけ。
 その在り方は『ウエア』の世界観にも実にうまく符合するものです。以下ではその実際を検討していきます。

・母音だけで会話できる場所

 一九九三年、イギリスの美術家ダグラス・ゴードンは、あるビデオ・アート作品を発表します。
 タイトルは《24 時間サイコ》。アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』の⾳を消し、二時間⾜らずの同作を二十四時間に引き伸ばして上映するものです。
 一秒に二フレーム程度の超スローモーで映し出される「それ」は、すでにサスペンス映画としての相貌を失っています。代わりに⾒る者の眼に映るのは、そのあまりに些細な細部たち、⼀瞬⼀瞬のトリビアルなモーション、⼈間らしさを喪失したグロテスクな時間です。
 あまりに過剰な引き延ばしによる、「psycho――精神病――過剰な意味づけ」、からの解放。それが《24 時間サイコ》のもたらすものでした。わたしたちの動作や声がすべて意味であってしまうこの時間からの。あの、あまりに遅い絶演は、それとよく似ています。

 前半のほとんどの間、声を発するのは荒⽊さんと深澤さんのニ⼈だけです。その間、櫻井さんと瀧腰さんは後ろでゆっくりと動き続けています。
 それは演奏のように⾒えます。瀧腰さんがギターを持ち、櫻井さんはそれを後ろから⽀えます。演奏はしかしあまりに遅く、かつ⾳楽が聞こえることもありません。だからそれは、流れる演奏ではない、いわばある種のモビールへと次第に変化していったのでした。
 意味は、通常の⾔葉は、その他にもさまざな⽅法で剥ぎ取られていきます。部屋の光景を描写する「カップ麺のコップに割り箸と割り箸の袋と痛み⽌め薬の空ケースと⾜の親指の⽖」という塊は、ほとんど快楽的に、ただの⾳として響きます。
 強迫的な反復と変奏も、そうです。台本には⼀度しか記されていない会話が何度も、ジャズ・セッションのように繰り返されます。その⼀連の中で聞こえる、「か⾏の発⾳が苦⼿です」という台詞がどこか伏線めいて響きます。
 印象的なのは、伸びて響く台詞の最後です。「⼥であることも、不安が募る、ばーかーりーーーーーーーーーーーーーーーー」というように。「希望の⼈⽣でしたーーーーーーーーーーーーーーーー」というように。⾔葉が溶けて⾳となっていくように。

 本番期間中の修正を紹介します。「ジョーカーならまだいい」という言葉は普通なら文末のイントネーションを下げて「まだしも」のニュアンスを出すところですが、逆にこれを上げて、「ジョーカーはまだ要らない」という、本来と異なるニュアンスの発話に変換しました。
 このほかにも言い方のアクセントは様々に脈絡なくつけられましたが、いずれも言葉に新たなニュアンスを付け足すというよりは、もともとの使用規則をキャンセルすることで、言葉を文脈から浮かせ、際立たせ、その情報に輪郭を与えることに全てを預けているようでした。
 深澤さんの台詞に、荒木さんと掛け合いしながら同じ言葉を執拗に反復した後で「あーーもう全部だめ!」と、怒ったような大声でそのやり取りを閉じるものがありました。稽古場では深澤さんから、声を大きくする理由について質問が上がりました。それに対しての中澤さんの答えは、「理由は特になく、掛け合いの終わり方を整えるため」といったものでした(より正確には前半部は「理由として特定のものを用意したくはないけれど」と言い直されるべきだったでしょう)。またそのとき、感情でなく音で会話を断ち切るような演技を、との指示がありました。
 この同語反復的な掛け合いについて深澤さんは、ラインのトーク画面のようなイメージで、ゼロトーンで演じていると仰られていました。作品のコンテクストや人物の感情に寄りかからず、体への負荷やリズム感を支えに話していると。

 「動きができればあとはセリフを入れていくだけ」といった発言も制作過程で耳にし、驚かされました。全体として、台詞やシナリオの流れから逆算して動きを作るよりは、作品から連想される動きを先に作り、あとで台詞やシーンをそれぞれの動きにあてがうような仕方で、制作は進められていきました。その場合、動きは台詞の織り成すコンテクストからいくらか乖離するはずです。
 中澤さんはたびたび俳優の方へ「デザイン的に」読んでほしいと仰っていました。それは、言葉の意味や流れを咀嚼するのではなくて、あくまで字面や音の手触りを形にしてほしい、ということだと解釈しています(もちろんそれは発話への種々の方向付けのうちの一つにすぎません)。誤解のないよう付け加えると、これも相手の出す音を聞きながらの、時間間隔を意識した掛け合いですから、そこにコミュニケーションは成立しています。ただ、言葉が意味を奪われて、一つの身振りへと化しているのです。

 名前への不信感。さらに言うと、名前に素直に収まっている感性への不信感。ここで言う「孤独」は、「孤高」に近い、プライドを持った孤独でしょう。
 「ウエア」というタイトルには、少なくともwearとwhereの2つの意味が込められていました。役を脱ぎ着するような演劇の形式、ひいては、簡単に他人になれる現代社会への疑問符としてのwear。そして、名前を持たない場所、「どこか」としてのwhere。wearがwhereを探し求めているのです。
 作品には映画『ジョーカー』のモチーフが何度も登場します。孤独な男が殺人鬼となり生を取り戻し死んでゆく物語。

ジョーカーは笑ってしまうが 君は泣いてしまう 心が泣いてるからな

 ジョーカーだって心は泣いています。彼は泣いている心を隠す仮面として笑ってしまうのです。だから、顔自体が仮面なのです。岡は、ジョーカーはスゥーダーだと言います。仮面をつける(wear)ことで、冷蔵庫の世界から脱出し真の居場所(where)を見つけるという意味で、須田はやっぱりスゥーダーなのかも知れません。

 この「ウエア」という名前も、上演を通じて溶けていきました。U―E―A であるということに少しずつ気づくことができます。
 ⼤雑把に⾔って、⼦⾳は⻑く響かず、⺟⾳は⻑く響かせることができます。k という⾳を⻑く響かせることはできない。だから、叫びはほとんどの場合、⺟⾳でなくてはなりません。
 思えば⻑く伸びていったその声も、⺟⾳の中に溶けていったのでした。
 子音は、父音でもあり、それは母音に比べてずいぶん権力的な響きを宿しています。
 名前を与えられたので在ることになり、名前を与えられたのでそうであることになるという事態は、やはり拒絶されます。それは演劇たちが、名前をwear として、簡単に着替えてしまっていること(それが可能だと信じていること)とも関係します。

⽣まれてから様々なものに名前があり 誰かに付けられて 名前が名前を読んで欲しい欲求に応え ⽂字も ⽇本語も ⽣まれた場所に応え あなたが名前を付けられて正しくないと感じた時 ようやく 孤独を感じる

 だからやはり、名前を離れなくてはならないのです。

・ウエアからメグハギへ

 「ウエア」がそのように名前から自由で集合的な場所を指すのなら、なぜ「メグハギ」は生まれなければならなかったのでしょうか。
 メグハギには、メグハギというれっきとした名前があり、しかも一つとして母音だけの文字を含んでいません。人がメグハギという存在へと溶け合ったところで、そこには名前が残り、子音が残るのです。

 名前から自由になろうとする試みにはいつでも追手が来ます。言葉、子音、実名、権力、それは人間社会の営みの根幹をなしていて、それらを脱ぎ去る試みはおそらく刹那的なものに終わってしまうものです。

 「母音だけで会話できる場所」=「ウエア」を表現したいのなら、本当に母音だけで会話し続けてみればよかったのではないでしょうか。そしてその試みはおそらくスペースノットブランクの作風と相性がよかったでしょう。そしてやはり、陳腐なものとして、すぐに棄却されたでしょう。

やはりUEAも駄目でしょうか これからUEAではなくメグハギに切り替えようと思います

とのメグハギの言葉が思い出されます。UEAサーバーのあるヤニクでは、ブラウザもメールボックスもすべて縦書きで、横書きは使わない掟なのだと言います。古いワープロの書式(や縦社会)を思わせるその場所は、横書きを主とするスマートフォンのあり方さえ飛び越え

ここには上も下もないの
縦も横もないの
世界のみんな 横に読んでるの 辛くなる時ない?
斜めでもいいよ

 と声もなく語りかける「メグハギ」へと私たちが移行するための、過渡的な地点であるようにも思われます。

 現実に対する閉塞感からある楽土の夢想(麻薬によるトリップ)へ誰かを道連れにはしるとき、天使的な気配、まさに気配としか呼びようのない曖昧な諒解性を媒介にして幻想への共犯関係はとりむすばれます。

 けっきょく、そこで必要な〈媒〉としての「メグハギ」の具体的な内容は、藤井の「つぎねぷ」と同様、作中に明示されはしません。
 ボーカロイドは声の、VTuberは肉体のなかだちを可能にしましたが、それらよりずっと原始的な、しかし物語の重要なツールであるメーリングリストもまた、多声的に内閉した世界へのきざはしであり、またそれは上古の文献のなかの言葉にも担いうる役割であるはずです。
 現実に閉塞感をいだくわたしたちは、ウエアのように自由に着脱できるものとしての仮想現実へのあこがれに共感しながら、そのゼロ年代的(と思われがちだった)夢がいままでもこれからもくりかえすだろうことと、そのはかなさとを、同時に確認するのです。
 わたしたちは出番を終えた霊媒師たちがひとびとにもどるころ、劇場を脱けでて駅へ向う道すがら、「メグハギ」と、彼女(あえてこう書きます)へのあこがれに対していだいたそこはかとないさびしさとを、かえりみて反芻することになるのです。

 ですから現実には、誰もが溶け合い同じ存在になるような状態は、どれだけ夢想されようとも持続しません。ヤクのバッドトリップに終わりがあるように。Vtuberの透明な足跡もやがて途絶えるように。
 情報を次々に生んで混じり合う世界では、エントロピーは増大して平衡に達し、宇宙を均一性の海へと還元します。けれどもその海の混沌は、未知なる生を養い解き放つ大きな揺籃でもあります。

 「何度でも消えて⽣まれる」メグハギは、繰り返しをその性質として持っています。
 子音を被りながら、それでも誰かと等しくなれる場所。
 「メグハギ」は抽象的で均一なUEAという場所と、個別的で具体的な世界をこまやかに揺れ動く私たちの、そのはざまのあり方を体現し続けるのです。
 そしてその在り方は、現実がいくつも重層し多様な選択や解釈を許容する作品の構造、創作者たちがそれぞれの相貌を保ちながら舞台という一つの場へと溶け出す作品の姿自体へと、延長されます。
 『ウエア』。それは個別化と抽象化という相反する2ベクトルの乱反射を超えて、安らいの場所へとたどり着き続けるための、まさにカオティックなアドベンチャーでした。

・稽古場と作品の対応

 改めて。スペースノットブランクは制作プロセスでの俳優の言葉や関係性を舞台上に載せる仕方でクリエイションを進めていきます。今回はテクストが池田さんによって書かれていたので、一見その性格は影を潜めているように思われますが、稽古場における状況はやはり如実に上演されていました。
 稽古期間の中ごろは、俳優の方にテクストを読んでもらいながら、誰にどんな言葉をあてがうとより魅力的な舞台になるかを検討する時間に充てられていたようでした。
 スペースノットブランクでは、俳優二人を組ませペアにするバディ性を採用し、稽古場でのさまざまな関係をバディ同士の関係や他ペアとの関係へと整理して、見やすくしています。
 今回は、荒木さんと深澤さん、櫻井さんと瀧腰さんがそれぞれバディを組んでいました。櫻井さんと深澤さんはスペースノットブランクの作品に参加するのは初めてでしたから、その二人がくっつくことは避けられたのでしょう。それに、櫻井さんと瀧腰さんは実は顔が少し似ていて、人と人が同じ存在になる『ウエア』を演ずるうえで格好の二人でした。
 どちらのペアも一心同体感が強く、また制作メンバーは全体として適切な距離感を保ちながらあたたかく親密でした。けれども同じ一心同体でも、その在り方には違いが見られました。
 稽古場では、演出のお二人のいる、端に置かれたテーブルから見て手前の方で女性二人が和気藹々と動き、奥の方で男性二人が粛々と動きを相談し作る、そんな場面が多かったように記憶しています。
 その背景として、深澤さんは演技の方針に疑問を抱えた場合、演出のお二人にぱっと尋ねていたのに対し、櫻井さんや瀧腰さんはあくまで自分の中でその解決を図る傾向があったと思います。
 また、ヌトミックに所属し台詞の音としての側面を強く意識した発話に長けている深澤さんは、これまでのスペースノットブランクの作品にも何度か足を運ばれていたことも背景としてあったでしょうけれども、演技のスタイルへの慣れが早かったです。

 そんな状況を反映してか、作品前半部の例の配置が組まれたわけです。すなわち、男性二人は左後方で、色を移ろわせる真上からの照明に照らされながら、ほとんど黙してお互いの体の状態を探り合っていました。そしてその間女性二人は前方で、男性である「岡」「須田」という二つの役をにぎやかに演じ合っていました。

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 これはなかなか大胆な演出だったと思います。しかし、言葉を全然発さないで体を寄せ合う二人と、激しく動き、激しく話し、戯れ喧嘩し合う二人が同時に舞台に存在し続けるこの長いシークエンスは、命名の抑制と過剰との複雑なダイナミクスから成る作品の本質を見事に表現していました。

 意地を張り、下品な冗談を飛ばし合い、時には喧嘩のようにいがみ合いながら仲を深める過度にホモソーシャル的な原作の描写は、ほとんど一貫して女性によって演じられることになりました。丁々発止の緊迫感に満ちた掛け合いはたいへん見ごたえがありました(稽古中盤には演出サイドから「自宅にいるようなリラックスした演技を目指したい」との声もありましたが、そこから大きくかけ離れた状態が最終的には選ばれてゆきました)。
 けれどもそれは女性の男性性への同化や、男性性のキャンセルというよりは、女性性の拡張と考えた方がふさわしいものであったように僕には思われました。
 原作の下品な言葉には規制がかけられ、舞台では使われませんでしたが、これは作品に品を持たせるだけではなく、おそらくその台詞を女性が発するのを見越してのことだったと思います。少なくとも荒木さんや深澤さんはそれらの台詞を自然に口にする人ではなかったのです。
 逆に、舞台上で見られた児戯的な演技の数々は、男性性の模倣でもなければ、女性性のステレオタイプへそれを収斂させるのでもない、荒木さんと深澤さんその人の姿を浮き彫りにするものだったと思います。
 「ドゥンドゥンドゥンドゥン!(額田さんの作った作中のラインの効果音)」の声に合わせて腕を大きく上下させる深澤さん。これはラインスタンプを迷惑なくらい送りつけるいわゆる「スタ爆」の表現でしょうけれど、観ている側も演じる側もただただ理屈抜きで楽しくなってしまう、屈指の名シーンでした。

 荒木さんの身のこなしの奔放さ、足まわりの柔軟さに支えられた身体のうねりは、何を言い出すか知れないトリッキーな岡のパーソナリティを表現するのにぴったりでした。逆に体幹のしっかりして視覚的に安定感の強い深澤さんはまさに須田という人物に似つかわしく思われました。
 そこでは、『ウエア』の人物と実在のその人が見事に重なり合って存在していたと言えましょう。
 二人の同語反復的な掛け合いは、意味が形骸化し遊戯性が前景化するようなゲーム性を強く打ち出したものですが、やはり深澤さんのヌトミックでの出演作の作風を反映してもいたようです(ちなみに深澤さんの「あ あの」という台詞は、彼女の直近の出演作であるヌトミック『それからの街』を想起させますが、演出サイドとしては別段意識していないのだそうです(嘘だと思っています))。

 このように作中人物に同化し、作中人物が同化しながらも、俳優各自はあくまでその人として立つ、その在り方はまさにメグハギそのものだったと言えましょう。
 俳優が舞台に入ってから、音楽が始まり物語が始まるまで、俳優は何の役をも演じない状態で、演技をするための心の準備を舞台上で行っているかのようでした。それは俳優の自然体の姿がさらけ出される時間だったと思います。
 先に「デザイン的に」読むことについて触れましたが、逆にそうしたデザイン性を排し、文の意味を汲み取りながら話すよう演出がなされる局面も多々ありました。それは、自ら文意をかみ砕く、俳優その人の生理的なリズムが場に出ることを重視しているからでしょう。
 生理的なタイミングに依拠した演技を行うということは、それだけ舞台が生ものになり、本番の環境や体調等の影響を受け、不安定なものへと化すことを意味します。それでもそのような演出プランが選ばれるのは、俳優自身の姿の表出を目指す気持ちと、その不安定性にもかかわらず上質なクオリティを実現できるという、俳優の方々への信頼や期待、自信があってのことだと思います。

・縦横の解体/解体の解体

 先に、縦書きに支配されたUEAサーバーと、縦横や上下の区別から自由なメグハギの世界とを対比しました。
 それに対応するかのように、『ウエア』の舞台には縦、横、斜めに還元可能な幾何学的な配置がいくつも施されていました。
 客席からして、舞台正面に設けられた通常の席に加え、舞台を横からまなざすことのできる席として、低い椅子が舞台左右に三席ずつ置かれていました。この脇の席はほとんど舞台の中に入り込んでいる状態なので、没入感が段違いでした。
 また照明も、真下を照らす垂直的なものや、奥と左右の三方に走らされた、強く水平性を意識させる蛍光灯が目立っていました。
 俳優の配置も縦、横、斜めの三方向に回収されるようなものがいくつか見られました。
 瀧腰さんが常に首から下げていたギターのネックも水平性を強く意識させるものでしたし、たとえば冒頭の荒木さんと深澤さんが頭をうなだれさせて客を上目遣いで睨むような不気味なシーンも、ひとりの身体に垂直性と水平性を同居させるような、複雑な想像力を掻き立てるものでした。

 それだけ観客が想像を働かせやすいモチーフと感じたので、特にこの縦横の区別については開場時間のイントロダクションで明示的に言及しました。

 完全に2Dの世界(液晶画面)で展開された池田さんの原作とは異なり、舞台はもとより奥行きを持つ三次元空間です。ですから自然にその空間を利用する限り、縦横の軸は解体されてゆきます。けれどもその奥行きの故に、縦横の区別の設定が複雑に、重層的に舞台上に現れ、観客の想像力はそれだけ一層刺激を受けることになったと思います。
 UEAサーバーの縦の世界、を具現するかのように、垂直的に屹立する俳優たち。そしてそれを様々な仕方で越え出てゆく、時に水平で時には斜のメグハギの世界。といった風に。

 ですが、この奥行きの故に立体的な情報がかえって平面性へと還元されてゆくこともあるのです。
 メグハギが生まれるシーンの後、向かい合って立っていた深澤さんと荒木さんは、順に舞台にゆっくりと、横たわってゆきます。二人の身体は、客席から見ると斜めな一直線をひと並びに描き出していました。そしてその延長線上には、櫻井さんと瀧腰さんが身を寄せ合いすっくと立っています。
 客席から見れば、実に三次元的な配置の施されたこのシーンですが、櫻井さんと瀧腰さんの身体を縦軸に、荒木さんと深澤さんの身体を横軸にとれば、結局その配置は新たな平面性のうちに解体されてしまいます。
 それは情報量の増大の帰結としての熱力学的な死に相似できます。その均一な平面こそは、まさしく誰もがフラットに存在できる安らかな地平でもあるでしょう。その平面はやがて舞台上の動きにより崩され、その混沌はやがて新たな平面の立ち上がる素地となり、やがてまた崩れてゆきます。
 このエントロピーの循環的な爆発を具現する運動性こそが『ウエア』という舞台の説得性を支えるものでした。

 岡や須田、メグハギの言葉は映像として正面左右と三つの壁に投射されました。そのうち左右の文字は、プロジェクターとの位置関係の都合で、多少斜めに傾いていました。
 僕は、LINEの文章を意識しているこれらの文字が横書きで表示されないのは問題はないのでしょうかと演出のお二人に尋ねましたが、さほど気にされていないようでした。
 縦横の照明についても、特定の象徴的な意味が与えられている印象はありませんでした。落雷の表現や、話者のターン変更のキッカケなど、それぞれの次元はその時々で様々なニュアンスや役割をあてがわれているようでした。
 このシーンに縦横斜めの軸がこのように配されているからこの台詞はこう解釈すべきなのだ、というよりは、想像力を広げるためのフックとしての情報量を、まさしく縦横無尽に敷き詰めるようなものとして、僕はこれらの演出を理解しています。

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 スペースノットブランクにしては珍しく映像が使用されたことが本作の特異な点の一つですが、映像は奥行きを表現できるにしても、それ自体は二次元的な表現です。この性格に自己言及するかのように、stackpicturesさんの用意したオープニング映像は実写やCG、アニメーション等、多彩な表現を闇鍋のようにぎゅうぎゅう詰めにしながらも、平面性を強く意識させるものになっていました。
 オープニングの際、俳優の方々は四人横並びで、目を閉じながら一列に整列していました。正面性が強く、平面的な印象の強い配置ではあるのですが、それゆえに映像を投射される俳優方の浮き出るような厚みは、ここにおいて一層はっきりと立ち現れることになったのです。
 人体のいる空間に三方向から映像を投射することによる、平面性と立体性の感覚の同居、「地」から浮き出す「図」としての俳優の存在が、チームラボ的な浮遊感、トリップ感の正体だったのではないでしょうか。

・抜け出る身体

 『ウエア』ではヤクのトリップ感や幽体離脱により、現実と虚妄の境界が揺らいで、ここではないどこかへ移動することが描かれていました。それは縦線と横線で引かれたコマ枠を抜け出る漫画のキャラクターのように。
 この体外離脱のモチーフも、作品には多数散りばめられていました。

 ウエアは浮遊のために上昇します。ウエへ、エアへ上昇するそのひびきは、人間の肉体でいう嘔吐や嗚咽をも連想させます。生体に起るこれらの現象は、認めがたい現状を身体に転嫁する拒絶的な反応ですから、ウエアによって上昇し浮遊する精神は拘束衣のごとき身体や現実性のハードウエアから幽体離脱的に脱出し、ソフトウエアの、劇中メグハギにより繰り返される言葉でいうならば「縦も横もない」「良いことも悪いこともない」「テキトーな世界」へ連れてゆかれるわけです。

 たとえば後半部の、荒木さん演じる「岡」がヤクを使いバッドトリップを始めるシーン。本番では櫻井さんが荒木さんをお姫様抱っこのように抱え、荒木さんがそこから動いて櫻井さんの肩に移り体重を預ける、という動きが採用されました。

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 稽古場では荒木さんの体をうつぶせ状態にし、他三人で高く持ち上げるような動きも一案として作られました。けれども、全員が必要になる動きだし、なにより高く浮きすぎて見えるという理由から、この案は棄却されました。
 高く浮きすぎて見えることが回避されたのは、一つには身体の状態が「浮いている」という解釈に一意に回収され、かえって受け手の想像力をせばめるからでもあったでしょうし、また同時に、俳優同士の身体は浮き出す状況下でこそ近くに寄せ合う必要があったからだと思われます(これについては後述します)。それに、深澤さんが荒木さんに身体を預け宙に浮く動きも前半部にあったので、その時の深澤さんと、櫻井さんに持ち上げられる荒木さんがシンクロする、という効果もあったと思います。

 瀧腰さんが稽古初期に作った動きには、「ドゥン!」と口にしながら両手で枠を作り目の前の景色をフレーミングする動きを、この「ドゥン!」という言葉とともに反復するものがありました。体を動かしながら、次々に見える世界を両手で区切り、また別の世界へシフトする。次へ次へ。
 こちらも身体自体は特段浮く幽体離脱を表象していませんが、軽やかに世界を抜け出てシフトする動性の表現として見事な振り付けだったと思います。本番で披露されるには至らなかったのが残念です。

 オープニングの際、俳優が空間から浮き出て見えたことを先ほど指摘しました。事実、ここで俳優方は眠りにつくので、ヤクのバッドトリップのようなオープニング映像はまさしく彼らが見ている夢のようなのです。
 そして後半には、夢と、創作されたいくつかの虚構と、ヤクのトリップと、おそらく現実と思われる地平とが互いに侵食し合い、これまで維持されていたバディも崩れ、なにがなんだか、誰が誰だかわからない世界が、サイケデリックにめくるめく景色をくぐりぬけてゆく浮遊感あるアトラクション的な世界が、待ち構えているのです。

・マルチメディア性

 ところで池田さんの原作はジョーカーのポスターのパロディ画像や、でたらめばかりの架空の新聞(早朝新聞)、アニメの脚本、プレゼン用のスライドなど様々な媒体を含んだマルチメディア的な性格に特色がありました。
 映像の利用はそれを反映してのことだったでしょうし、また開場時間、客席には早朝新聞が一部ずつ置かれていました。
 原作のごった煮的なマルチメディア性は、インタビューでの池田さんの言葉を借りれば、TikTokやインスタグラムで強制的に差し挟まれる広告のような「ちゃっちさ」の表現でした。一つの情報への没入を妨げ、「ちゃっちさ」を感じさせる、情報の並列性。
 この並列性は舞台『ウエア』では、映像や新聞を待たずとも、俳優がそもそもマルチメディア的な存在としてあるスペースノットブランクの作風によって、ひとまず担保されていました。
 それは繰り返し述べてきたように、ここで言葉はコンテクストを離れ、それゆえに身体の流れを離れ、言葉それ自体と、言葉の発話のされ方と、俳優の表情、姿勢、身振りetc……は、それぞれ独立に情報を発信するからです。

 ここではそこにもう一つ、メディアとして機能していた存在を付け加えたく思います。
 それは、照明です。
 床に直に置かれた蛍光灯から、ダン・フレイヴィンのライト・アートを連想された方は多くいらしたのではないかと思います。フレイヴィンはミニマリズムを代表する作家として知られ、蛍光灯という日用品をホワイトキューブに持ち込み、「光」を新たなメディウムとして芸術界に取り入れた先駆的な存在です。
 フレイヴィンは光による周囲の環境の作品化を唱える言説や、耐久性に限界のある工業製品を使用する批評性で知られています。そこでは作品の宗教性は否定されているけれども、彼が最初に光を用いた作品の題は『Icons』であったことを考え併せると、これはあくまで当時のミニマリズムのコンテクストを踏まえたある種のポジション・トークであり、実際には神学を背景とした光それ自体の崇高な現前性をいくらか念頭に置きながら制作を行っていたことは否定できない事実だったろうと考えられます。
 演劇において照明は一般に、シーンを劇的にする装飾的・補助的な用途で用いられ、独立に際立って働くことはないでしょう。けれども蛍光灯、すなわち製品として巷に溢れその物質性を強く意識させる照明は、自らの存在を上演中強く主張し続け、水平性や場の切り替わり、落雷、などなど種々の情報をそれ自体伝達する、一つのメディアとして存在していたわけです。
 前半部で男性二人を真上から照らしたカラフルに色を変化させてゆく照明は、開場中、そして終演後、俳優のいなくなってからも同じ場所を照らし続けていました。この照明もまた、姿を次々変えてゆくメグハギがいつでもいつまでも世界に存在し続けることを示唆するメディアであるかのようでした。

・物語への俯瞰的な没入

 マルチメディア性は「ちゃっちさ」を感じさせ、没入を阻害すると申し上げましたが、客席の新聞は作品世界が第四の壁を突き抜け観客の元まで延長されるのを助けますし、映像や俳優、照明による情報の奔流は寧ろ作品への没頭を促すものとしてあったでしょう。
 映像は左右と奥の壁の三面に同じものが投影されていました。映像が空間を包み込み、チームラボ的な没入感がもたらされましたが、同じ映像が三つ同時に照射されているな、つまりこの没入感はつくられたものだな、という気付きの意識は、同時にシニカルな視点をわたしに付与しました。

 何かが何かに、誰かが誰かに「なる」ことができる、異常さ。あるいはわたしたちがそう信じてしまえるということのおかしさ。原作の池⽥亮さんは、バーチャルYouTuber を「メグハギ」の着想の源流としてとりあげています。
 でもそれは、わたしたちがフィクションを通るときに、奇妙なほど⾃然にしてしまっていることです。半ば信じ、半ば信じない。あるいは信じさせるふりをする。
 現実世界を切り捨てて物語の世界へ没入しきるのではなくて、それが日常と位相の異なる別の世界であることを理解しながらそれでも夢中になっていく、その方が物語の体験としては実情に近いのではないでしょうか。
 そしてこの高度のある軽やかな没入の様相は、まさしく名前や言葉、真実が混じり合い、偶然的で選択的なものと化した『ウエア』とこの現代の世界にふさわしいスタンスだと言えるでしょう。

 客数が少ないときは、横の客席は取り払われていました。客席を縦横に敷く見せ方には強いこだわりはないのだろうかと驚きましたが、没入感のあまりに強い脇の席よりも、舞台から距離を持ってみることになる正面の席の方が、演出サイドとしてはより視点として望ましかったのでしょう(思えば、時勢を鑑みて平時より席同士の距離をあける配慮がありましたので、脇に席を置かないとキャパを用意できないという現実的な理由もあったと思います)。

 新宿眼科画廊でリハーサルをしている際、小野さんは櫻井さんの正面性の強さ、舞台にいるという意識の強さを指摘し、修正を促していらっしゃいました。
 また演技に際し、俳優の方々はしきりに観客と目を合わせ、観客に語りかけるように台詞を口にしていました。

 このような客席と舞台の区別を前提しないための配慮は普段のスペースノットブランクの作品にもみられるものです。
 たとえば、演出の二人やスタッフは舞台の近く(時に舞台内)に机を構えて、観客の目に入る箇所から本番に参加することが多いです。そして、遅れて入ってくる観客のいらした場合、他の観客の目につくような仕方で客席へと招き入れます。
 それは、舞台から観客やスタッフを排除するような嘘をつかず、舞台の生成に携わる人びとをみな可視化するひとつの工夫だったと思います。

 けれども今回、演出のお二人は本番を客席の裏から見届け、遅れ客も気づかれぬようひっそりと案内されていました。
 それは、今回の『ウエア』が物語の上演であり、その没入度合いを高めたかったという配慮からの選択ではあったと思います。
 しかし同時にそこでは、いわゆる「演劇」らしさを偽装することで、あの「ちゃっちさ」、嘘くささを醸し出そうとする意図も働いていたのではないかと僕は睨みます。
 ちなみに同時期に制作され、『ウエア』千秋楽のわずか五日後に上演された『氷と冬』はこの通俗的な「演劇」らしさを徹底的に解体する試みでもありました。ここに逆説的な符合を見出すことが出来ます。

 今回オープニング映像を設けることに関して中澤さんは嬉しそうに「演劇っぽくします」と仰っていました。「嘘くさくします」と同義だったと思います。
 開始後40分、全体のちょうど折り返し地点にオープニングが挟まれるというのも突拍子もないし、それまで物語に没入していた人の注意を一度逸らすような操作です。
 このオープニングによって前後半での世界観の転換は明示的になり、リアリティをシフトする作品世界のあり方を上演の構造が具現するようになったのも確かですが、それにしてもそのスイッチはほかの仕方でもありえたはずです。かなり冗談めいた、「ちゃっちさ」のある演出だったと思います(このあたりで断りを入れておきますがこの「ちゃっちさ」は、チープさよりは、道化的な一種のダンディズムに近いものでしょう)。
 実際、映像はかなりキッチュな印象が強く、「これがスペースノットブランクの作品に使われるのかあ」と驚かされました。

 状況が錯綜しリアリティが入り乱れる後半は、ドローンのバタバタという効果音から幕を開けます。それは現実という地に足のつかなくなってゆく俳優たちのメタファーでもあるでしょうし、距離を持ち高度を持って作品世界を俯瞰する観客の視点を自覚させてもいたでしょう。
 本番期間には、脇の席が取り払われても、正面の客席への訴えかけを強めなくてよい、という演出を繰り返し耳にしました。それは嘘くさい「舞台」を立てようとするためだけではなく、客席から作品を鳥瞰出来るようにするためでもあったでしょう。
 そういえば、観客を見ると本人が現れてしまうから見ないように、との演出も稽古場では為されていました。俳優をキャラクター的な抽象度の高い存在として舞台に立たせようとする方向づけも『ウエア』では複雑に働いていたわけです(余談ですが、誰が主にメグハギを演ずるのかが稽古場で検討されていた際、僕はもとより荒木さんだと嬉しいなと思っていました。荒木さんの身のこなしにはアニメの作画的なメリハリの気持ちよさがあったからです)。

 けれども改めて、これらのシニカルな俯瞰性が逆説的に観客の作品への没入を強めていたことは強調しておきたいです。メディアやリアリティが並列的に置かれるこの超平面性においては、その情報を取捨する視座の高い動性のうちに、かえって観客の没入は促進されるのです。
 また、それだけ作品内のリアリティが嘘くささを帯びた偶然的なものになるからには、一つ一つのシーンが強度を持たないと作品全体から説得力はまるきり失われただろうと思います。それを支えるだけの俳優の方々の発話の説得力があってこそ、舞台『ウエア』は成立しえたのです(前半部終わりごろの櫻井さんの喋りは、短く嘘くさすぎるのに説得力がありすぎて、悪魔的に面白かったです)。

・溶け合う身体/押し合う身体

 さて、『ウエア』の想像力を喚起するモチーフとして、これまで縦横斜めという幾何学的な軸の設定と、抜け出るような幽体離脱を指摘してきました。わたしの気づいたモチーフとして、最後に溶け合い、押し合い、寄せ合う身体を提示したいと思います。

 本番期間中、瀧腰さんが荒木さんのとある台詞を稽古場でのご自身のものだと誤解していたことが明らかになりました。
 実際のところ発話されるテクストはすべて池田さんの原作から取られましたので、そんなことはあり得ないのですが、これはそれだけ荒木さんや池田さんの意識へと瀧腰さんの存在が溶け出していたことを示すエピソードだと思います。
 それから瀧腰さんは最後に客席に語りかけるシーンについて、不完全燃焼感を抱き悩んでいらっしゃいました。けれども最終的には、メグハギのようにみんなと一つになる意識を持つことで、このスランプを克服なさっていました。

 視線は向けないにせよ舞台上のほかの俳優の存在を意識し、勝手に相手をなきものにしないように、という演出がいくつか聞かれました。その意識の対象は俳優だけでなく、観客や照明などにも延長されてゆきました。それは、舞台上の存在に嘘をつくまいという、舞台芸術一般に対する日ごろからのスペースノットブランクの姿勢でもあったでしょうが、メグハギとして舞台に立つためのマニフェストのように聞こえたのも確かです。

 三月十六日の夜の回は、昼の回を受けて、尺が伸びないように緩慢な時間を減らし、引き締まった演技を目指そうという姿勢が共有されました。そのこともあってか深澤さんの気迫が物凄く、彼女の勢いに乗せられてか場全体のボルテージが最高潮に達した最高の回になりました。
 舞台上の俳優方の身体感覚はつながっていて、その空気はひとつの生き物なのだと実感させられた上演でした。

 ですが、『ウエア』ではこのように意識や感覚上の連帯が図られていただけではなく、実際に集合的な状況を表現する振り付けが施されていたのです。
 荒木さんと深澤さんには、身体は客席に背を向けながら、上半身を捻ることで正面を切って観客に話しかける動きがありました。これは、2D的なレイヤーを一度抜け出て別の平面性へ移行する運動なのだと解していました。
 が、楽屋でお二人に聞いたところによると、これはもともと相手の腕を引っ張って相手の身体を振り向かせる動きが作られていたのを、引っ張られ側だけで実践した動きだったのだそうです。
 一人でいながら、自分を引っ張る透明なバディを近くに感じる動きです。離れていながら相手の身体をひどく近づける動きです。

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 前半部の男性二人が寄せ合っている状態は、「アメーバ」と呼ばれていました。僕はその状態を作る稽古には立ち会えなかったので、どういうことだろう……と困惑させられました。アメーバというほど輪郭のふにゃついた印象はなかったからです。
 姿をゆらゆら自在に変え、プリミティヴな印象を与える原生生物、単細胞生物のイメージが重要だったのでしょう。
 櫻井さんは瀧腰さんの背後に立ち、両手で相手の身体を支えます。しかしその「支え・支えられる」一方通行的な関係性は40分にもわたる沈黙の中で次第に融解していきます。身体の深いところで一つになる感覚は、両者の間で強く共有されていました。

 けれども、ひとつになる、といったところで、わたしたちは肉にかたどられた物理的な存在です。愛する二人の没我的な抱擁もまた刹那のことで、強く抱き合う力にはいつもきまって反作用の力学が働き、腕に込める力が強まれば強まるほど、二人の間に引かれた混じり合わない国境のような身体が確認されるばかりです。
 強く寄せ合う身体たちは、強く溶け合おうとすればするほど、強く押し合う互いの身体を意識せざるを得ないのです。

 「カタパルト」、と呼ばれた動きがありました。櫻井さんが強く腕を押し出して、瀧腰さんを弾のように射出するから、カタパルト。
 それは別世界へと抜け出ていく瀧腰さんの動性の表現でもあるでしょうし、それまでの深くもたれ合った時間の反作用、この巨大な単細胞生物の輪郭のゆらめきとみることも出来ると思います。
 けれども、櫻井さんの両腕は依然相手の肩に置かれ、瀧腰さんはすぐ元の位置へと引き戻されます。ふたたびひとつになる二人。考えてみれば、腕を離さずに射出の動きを為すには、二人の息がそろっていることが前提になります。
 単純な分離でも単純な混淆でもない、相反する二ベクトルの複雑な作用、押し引きの力学が、この寄せ合う身体には見られたのです。
 荒木さんに持ち上げられる深澤さん、櫻井さんに持ち上げられる荒木さんの体外離脱の表現もまた、相手に密着し強く自身の身体を意識させる状況下でこそ為されたのです。
 そのようにして、「メグハギ」の幻影はしきりに立ち現れては立ち消えてゆきます。

 冒頭で荒木さんは台詞なく小刻みな動きを繰り返します。この形の不確かなふるえの持続を経て、荒木さんは手を深澤さんに伸ばし、触れ合わせます。けれどもその後の掛け合いはなんだか対立的です。二人が混じり合っているような印象は、明示的には感じ取れません。
 やがてメグハギになった荒木さんは、

メグハギはあなたとも繋がるよ

と口にして、寝そべっている深澤さんの両手をとり、持ち上げますが、すぐにその手は離され、深澤さんの身体は地に叩きつけられます。繋がることは、同時に切断をも意味するのです。カテゴライゼーションはいつでもディスクリミネーションを含意します。

・落雷と楽奏のあとで

 ラストのシーンで初音ミクの消失を思い出したのはわたしだけでしょうか。

 意味から遠く離れて、⼦⾳と名前を剥ぎ取り、メグハギを⽣んだ岡は、最後にもう⼀度戻ってきます。岡はもう岡であり須田でありメグハギであり荒木さんであり深澤さんで、須田はもう須田であり岡でありメグハギであり荒木さんであり深澤さんです。
 何度も豊かに変奏された「やいやい」「でいでい」という⾳(メグハギの決まり文句)を繰り返してこの演劇の声は閉じていきます。その面持ちは安らかです。嘘くさいカーテンコールと閉場がすぐそこに控えています。

 終盤、落雷がメーリス上のすべてのメールを消去します。それはメーリスへ送られて紡がれた原作のすべての言葉、ここまで舞台に紡がれたあらゆる言葉を無へと還します。

 時として別れや消滅は、それまで過ごしてきた言葉の重さ、現実の重さを軽やかに脱ぎ捨てるための救いとなります。落雷の描写の後作品のほとんどを消去することに喜びと快感を感じたという、インタビューでの池田さんの言葉が思い出されます。
 瀧腰さんは落雷を経て言葉がすべて消えた世界で、ついにギターを激しく演奏し始めます。音楽。そこには言葉や概念、意味を離れて、ただエモーションがあふれていました。これまで何を見てきたのだか忘れてしまいそうになるような、エモさ、突拍子もなさのあるシーンでした。すべての言葉を離れた場所に、ついにたどり着いたという実感が、情感が、感動が、そこにはありました。
 けれどもやがてピックは胸ポケットにしまわれ、瀧腰さんは静かに舞台裏へ去ってゆきます。これから新しい物語がわずかに舞台に立ち上がるのを知っているからです。

 インタビューによれば、池田さんは大部分が形を失った物語の残骸を提示したのち、スペースノットブランクのお二人との相談を経て、物語の復元を試みることになったそうです。

 過去の自身の悲しい記憶を物語化し、その上演を通じて物語を現在にだぶらせながら、家庭を構え一定の評価を獲得なさり幸福を手に入れつつある池田さんの実生活上の引き裂かれと不安が、実は『ウエア』の融合と分裂の核をなしている、という読解は可能だと思います(この引き裂かれについては、後に「ゆうめいの座標軸」評で詳細に扱いたく思っています)。誰かを傷つけながら物語を育むことの責任。誰かを傷つけながら家庭を育むことの責任。
 同時期のロロ『四角い2つのさみしい窓』もまた、物語の執筆と赤子の出産が、ともに希望や不安をもたらす存在として描かれていました。
 言葉を用いることの暴力。その反作用としての傷。物語の中で赤子をもうける須田は、池田さんの現況の私小説的な投影に思えてなりません(インタビューでは否定されましたが、やはり、嘘だと思っています)。そしてそれはいつまでも絶えることのない、永遠普遍の人間の生の写しといえるでしょう。

⽣まれてから様々なものに名前があり 誰かに付けられて 名前が名前を読んで欲しい欲求に応え ⽂字も ⽇本語も ⽣まれた場所に応え あなたが名前を付けられて正しくないと感じた時 ようやく 孤独を感じる

 その孤独にもかかわらず、わたしたちは名前を与え続けるでしょう。そしてやはり名前は拒まれるでしょう。メグハギは何度でも消えては生まれてゆきます。いつまでも、わたしたちは現実の重みを時に受け入れ時に手放しながら、その身を寄せ合うでしょう。落雷と楽奏の後で。

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