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スペースノットブランク『ウエア』イントロダクション 当日ver.

東京はるかに主宰の植村朔也が保存記録として携わったスペースノットブランク『ウエア』では、開場時間に10分程度、作品についてのイントロダクションを行いました。その原稿を掲載しておきます。
 なお、舞台写真にはtakaramahayaさんが撮影なさったものを利用させていただきます。

・これまでのスペースノットブランク

 スペースノットブランクはもともとダンスなど、身体表現を主とする領野で活動していた二人が展開するコレクティヴです。それは一般に、なにかの物語やメッセージを伝えることよりはも、その身体自体の魅惑的な現前に心血を注いだものでしょう。
 物語、なんらかの劇的な内容を提示することを離れて、舞台芸術のあり方それ自体を追求していくところに、スペースノットブランクの特徴を見て取ることができます。東京におけるポスト・ドラマ的な動向を恐ろしい勢いで加速させたのがスペースノットブランクです。
 では、「舞台」とはなんでしょう。客席より一段高いステージがあれば、それは舞台なのでしょうか? あるいは、上演台本とそれを話す俳優がいればよいのでしょうか。しかし、それらの考えは、見落としているものがあまりに多いような印象を受けます。結局「舞台」とは、俳優、観客、戯曲、演出、音響、照明、舞台美術、劇場空間、制作、広報などなど、その場所の生成に携わったいくつもの自律的な仕事が絡み合ってできるものということになると思います。
 この「舞台」それ自体を主題化する試みを様々に行ってきたのがスペースノットブランクなのだ、というのが僕の理解です。
 たとえば、俳優は特定の役を演じるのではなくて、俳優その人自身として舞台に立ちます。俳優その人の姿を、舞台芸術のメディウムの一つとして露出させているわけです。またそのテクストも、俳優の方々の発話に虚実を交えて構成したもので、ドラマ性よりも、共有された時間それ自体を扱うことに注意を向けたものでした。
 ですから、普通劇の台詞というのは、登場人物の人格を反映して、その生の感情を載せたようなものとして理解されると思うのですが、スペースノットブランクはこれをダンスの身振りと変わらないような、作品を占める一つの素材、フラットな情報として扱うことになります。だから、男性の台詞を女性が話すというようなこともまったく自然に行われますし、怒っている言葉を笑いながら話す、というようなことも起きるはずです。しかもそのとき、なぜ男性の台詞を女性が話しているのだろうとか、なぜ怒るはずの台詞を笑って話すのだろうと考えることにはあまり実りはないのです。そのような疑問は、ドラマの成立を重視する発想からきているからです。そうではなくて、ある言葉をなるべく魅力的に舞台に載せるときを考えるときに、たとえば男性の怒っている台詞でも、女性が笑って発話した方がよく映えるからそうしているのだ、と考える方が、スペースノットブランクの観方としてはたいてい自然であるように思えます。それだけ、言葉がもとの文脈から切り離された素朴な情報として扱われているのです。

・これからのスペースノットブランク

 けれども、彼らが「舞台三部作」と総称する作品群、特に昨年の夏に上演されたその三作目、『すべては原子で満満ちている』という傑作により、その試みは一定の達成を迎えます。これを踏まえて、スペースノットブランクは新たな方向へ舵を切ろうとしているようです。
 彼らは、「舞台」という存在のありようを追求した上で、より強いドラマを改めてそこに立ち上げていく道へと進みます。
 昨年の秋に香川県高松市で上演された『ささやかなさ』では、テクストに松原俊太郎さんという、コレクティヴ外の他者によって書かれた戯曲を採用しました。松原さんの戯曲は豊かなドラマを含んでいました。それに、普通物語を上演するに際しては、俳優は登場人物を演じる「役者」にならざるを得ず、そこでは俳優という存在は「役」の陰に隠れてしまいます。
 スペースノットブランクにとってこれはあらゆる意味で冒険的な試みだったわけですが、彼らはここに代弁の構造を持ち込みました。すなわち、俳優はあくまで登場人物を演じる「役者」ではなく、登場人物の言葉を観客に伝達する俳優その人自身として、『ささやかなさ』の物語を、記号化され情報化された声や身体を通じて伝達する一つのメディウムとして、そこに立ったのでした。

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・wear

 今回の『ウエア』に話をうつしましょう。近頃、服を脱ぎ着するような気楽さで役を演じ変えてゆく舞台作品が目立ちます。そんなの昔からそうじゃないか、との声もあるかもしれません。けれど、やはり現在の小劇場演劇シーンでの主体の流動性には目を見張るものがあります。俳優は演じる役が変わったことを明示せず、シームレスに別の状態へと移行していくのです。
 ですが、現実の社会に照らしてみれば、おそらくこれはそう目新しい事象ではありません。コミュニティによってキャラを自然に使い分ける人々。はまだ自身の身体性には嘘をついていないけれども、匿名掲示板やオンラインゲームで年齢や性別を詐称する人々、話題になったツイートをコピー&ペーストして自分もまた注目を集めようとパクツイする人々については、完全に主体の輪郭が溶け出してしまっています。
 『ウエア』もまた、こうした移行を描き出します。

・あらすじ

 新作の『ウエア』は、ゆうめいの池田亮さんが執筆なさった原作を素材として新たにテクストを準備し、上演します。音楽はヌトミックの額田大志さんが担当なさいます。
 原作は、池田さんが実際に使われなくなったメーリスへ送信したメールの集積から成ります。それを舞台に載せるわけで、『ウエア』にはメール演劇としての側面があるわけです。しかもそのメールは、様々なメディアや嘘を含んで複雑に重層化しています。これまで映像の利用を意識的に避けてきたスペースノットブランクが今回初めて映像を作品に用いるのも、おそらくは原作のマルチメディア的な性格がその背景にあるはずです。加えてメールに書かれたシナリオも、岡正樹、須田学という二人の登場人物の、冗談交じりの嘘ばかりのメールのやり取りを主軸として展開するため、現実と虚構と虚構の中の虚構とが混じり合い、主体も混じり合っています。
 岡と須田は、須田がディレクターを担当するとある映像配信企画のメンバー同士としてその仲を深めたのですが、その企画が終わってしばらくたった後、須田のもとに岡から奇妙なメールが届きます。須田も最初はあまり真剣にとってはいなかったのですが、岡の奔放な語りに引き込まれてゆきます。そして、やがて二人は物語に現れるとある存在に呑み込まれてゆくのです。物語は多分にユーモアを交えながら、なにが真実かわからない入り組んだ現実において、メグハギという匿名的なキャラクターの存在へと個人の輪郭が溶け出してゆくことを描いています。

・鑑賞のてびき

 池田さんの原作は、どのページでも縦書きの文章と横書きの文章が並列的に置かれていました。それは、いくつも並んだ世界を、幽体離脱のようにふわふわと行き来するシナリオと関係があるはずです。けれども、人の喋りには縦書きも横書きもなにもありません。
 『ささやかなさ』では、作中の人物が感じている筈の現実に対する距離感のようなものが、高さや遠さに変換されて、俳優の手の床からの高さですとか、俳優同士の位置関係、俳優の客席からの距離といった配置を通して表現されていました。そして、その高さや遠さを、観客は自分の中で一つの景色としてその手で解釈するのです。
 ドラマを捨てて高度に抽象化されたスペースノットブランクの舞台では、観客の想像力を通じて初めて景色が立ち上がります。今回みなさんが『ウエア』をご覧になることで、豊かな景色が広がる心を心より望んでおります。ご清聴ありがとうございました。


 
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