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落雷と楽奏のあとで スペースノットブランク『ウエア』評(省エネ版)

 本稿では、東京はるかにのメンバーの複数の評をコラージュして提示します。主宰の植村はこの公演に保存記録として携わりました。他メンバーは四人、観客として、この上演に参加しました。
 舞台写真にはtakaramahayaさんが撮影なさったものを利用させていただきます。
 なお、こちらは劇評を半分以下に縮小した省エネ版となっております。オリジナル版も、参考になりましたら幸いです。

・あらすじ

 二〇二〇年の三⽉十三⽇から十七⽇、新宿眼科画廊スペース地下で、スペースノットブランクの『ウエア』が上演されました。
 出演者は、荒⽊知佳さん、櫻井⿇樹さん、瀧腰教寛さん、深澤しほさんの四名です(台詞も彼⼥ら⾃⾝の名前で記されています)。

 最高にクールで、格好良い舞台でした。
 何が起こっていたのかを、この演劇を観たことが無い方に伝わるよう、簡潔に説明するとすれば、チームラボ的演出とコンテンポラリーダンスと演劇の融合です。

 スペースノットブランクとしては珍しい、物語=ドラマの上演となっていました。
 順風満帆にキャリアを積みあたたかな家庭を築いている様子の「須田」という男性のもとに、彼がかつて携わった映像配信企画の使われなくなったメーリスへ、当時の同僚の「岡」から奇妙なメールが送られてきます(原作は池田さんが、かつて勤めた企業の実際に使われなくなったメーリスに送った文章の集積から成っています。ですからこの時点で、岡の振る舞いと池田さんの創作はアナロジカルな関係に結ばれています)。
 読んでいるうちに、埼玉県十枡町のヤニクと呼ばれる場所で岡と一緒に薬物を栽培していた「ニコンロ」という男性と「ナミ」という女性の存在が明らかになります。
 ニコンロは自作の小説を読ませた岡にヤクを吸わせ、バッドトリップさせることで、岡と一体化し、夢想の世界で「ナミ」と逢瀬を果たそうとします。須田は真実を確かめにヤニクへ足を運びますが、自身の存在を岡に乗っ取られてゆきます。いつしか入り込んでいた冷蔵庫の中から、須田は岡の世界に取り込まれまいとして脱出しますが、その顔はもう岡になっていました。

 と言われてもよくわからないと思います。正直作品の全貌については、クリエイションメンバー全員よくわかっていなかったと思います。
 わかりえないことが『ウエア』の根幹をなしていたと思います。
 登場人物は嘘をつきますし、ヤクが吸われて幻覚と現実の区別は溶けだしていきますし、そもそも物語自体池田さんの描いたフィクションです。このように虚実の境界が幾重にも重層することが本作の特徴です。受け手は多重化し偶然化した現実のいくつかを選択することで、ようやく物語を受容するのです。

 スペースノットブランクの作品には、「なんだかよくわからないけど面白い」という声がよく聞かれます。けれどわたしは、できればわかってほしいと思います。ただし、ただ一つの「わかり方」はおそらく用意されていません。それぞれがそれぞれのわかり方で、想像をふわふわ羽ばたかせて欲しいと思っています。わからないのも一つのわかり方かもしれません。けれども、想像するためのフックはたっぷり用意されています。
 スペースノットブランク、そして『ウエア』は、自由なわかり方を許してくれる場所でした。しばしば難解でストイックとされるスペースノットブランクですが、その突き抜けた表現の中で展開されているのは、観客の想像力への信頼をもって初めて成立する詩情です。

 とにかく自然な演技が好きで、台本が無いかのように見えるのが芝居のゴールだと信じていたわたしには、不自然極まりない動きたちに乗って、何故か却って台詞がスッと入ってくるのが新鮮でした。

 シナリオに度々出て来るのが、「目に見えるものと今までを描写するしかできない」という一文に続く、名詞の羅列です。言葉が持つ力への不信感から、「目に見えるものと今までを描写するしかできない」という一文が繰り返されます。しかし、その後に続く、「綿埃 髪の毛 コンタクトレンズの箱とシート・・・」といった事物の描写でさえ、真実には思えません。それらの事物に人間が勝手につけた名前を並べ立てているに過ぎないのですから。
 そんな世界の中で、事実になり得ない真実を追い求める物語が『ウエア』なのでした。

 このような主体や真実の重層を許容させるのが、「メグハギ」という謎のキャラクターの存在です。メグハギは物語に突然現れ、誰にでもなれる集合的で抽象的な存在として、正体を明かさぬままに岡や須田を飲み込んでいきます。
 池田さんによれば「恵み」「剥ぎ」という二つの言葉から取られた名前だという、その可変的性格を露わにするかのようなこの「メグハギ」という言葉は、埼玉県「綿」谷市という架空の舞台に繁茂する雑草の名のようにも見えます(そこでは大麻を栽培しているのだからなおさらです)。

 この『ウエア』で、俳優はあくまで役の陰に隠れてしまうのではなく、その存在を強く主張し続けながら役の姿を重ね着してゆきます。
 解釈にも存在にもキャンセルをしない。ただ折り重なってゆくだけ。

・母音だけで会話できる場所

 物語の前半、舞台には前景に女性の肉体、後景に男性の肉体がそれぞれふたつずつ置かれます。非散文的で不定形な信頼できない語り手の声は女性たちの肉体を借り、矢継早でワードサラダめいた内容もさることながら発声も緊張と破裂をはらんでいて、不意にうえあああああ、とひびわれた母音が貫入しうるような、内容的にも音声的にも分裂した語りをなしています。
 意味は、通常の⾔葉は、その他にもさまざな⽅法で剥ぎ取られていきます。部屋の光景を描写する「カップ麺のコップに割り箸と割り箸の袋と痛み⽌め薬の空ケースと⾜の親指の⽖」という塊は、ほとんど快楽的に、ただの⾳として響きます。
 強迫的な反復と変奏も、そうです。台本には⼀度しか記されていない会話が何度も、ジャズ・セッションのように繰り返されます。その⼀連の中で聞こえる、「か⾏の発⾳が苦⼿です」という台詞がどこか伏線めいて響きます。
 発話のアクセントはいくつも不自然に脈絡なくつけられましたが、いずれも言葉に新たなニュアンスを付け足すというよりは、もともとの使用規則をキャンセルすることで、言葉を文脈から浮かせ、際立たせ、その情報に輪郭を与えることに全てを預けているようでした。言葉が意味を奪われて、一つの身振りへと化しているのです。

 名前への不信感。さらに言うと、名前に素直に収まっている感性への不信感。
 「ウエア」というタイトルには、少なくともwearとwhereの2つの意味が込められていました。役を脱ぎ着するような演劇の形式、ひいては、簡単に他人になれる(それが可能だと信じている)現代社会への疑問符としてのwear。そして、名前を持たない場所、「どこか」としてのwhere。wearがwhereを探し求めているのです。
 この「ウエア」という名前も、上演を通じて溶けていきました。U―E―A であるということに少しずつ気づくことができます。
 ⼤雑把に⾔って、⼦⾳は⻑く響かず、⺟⾳は⻑く響かせることができます。k という⾳を⻑く響かせることはできない。だから、叫びはほとんどの場合、⺟⾳でなくてはなりません。
 思えば⻑く伸びていったその声も、⺟⾳の中に溶けていったのでした。
 子音は、父音でもあり、それは母音に比べてずいぶん権力的な響きを宿しています。
 名前を与えられたので在ることになり、名前を与えられたのでそうであることになるという事態は、やはり拒絶されます。

⽣まれてから様々なものに名前があり 誰かに付けられて 名前が名前を読んで欲しい欲求に応え ⽂字も ⽇本語も ⽣まれた場所に応え あなたが名前を付けられて正しくないと感じた時 ようやく 孤独を感じる

 だからやはり、名前を離れなくてはならないのです。

・ウエアからメグハギへ

 では、「ウエア」がそのように名前から自由で集合的な場所を指すのなら、なぜ「メグハギ」は生まれなければならなかったのでしょうか。
 メグハギにはれっきとした名前があり、しかも一つとして母音だけの文字を含んでいません。人がメグハギという存在へと溶け合ったところで、そこには名前が残り、子音が残るのです。

 名前から自由になろうとする試みにはいつでも追手が来ます。言葉、子音、実名、権力、それは人間社会の営みの根幹をなしていて、それらを脱ぎ去る試みはおそらく刹那的なものに終わってしまうものです。

やはりUEAも駄目でしょうか これからUEAではなくメグハギに切り替えようと思います

とのメグハギの言葉が思い出されます。UEAサーバーのあるヤニクでは、ブラウザもメールボックスもすべて縦書きで、横書きは使わない掟なのだと言います。古いワープロの書式(や縦社会)を思わせるその場所は、横書きを主とするスマートフォンのあり方さえ飛び越え

ここには上も下もないの
縦も横もないの
世界のみんな 横に読んでるの 辛くなる時ない?
斜めでもいいよ

 と声もなく語りかける「メグハギ」へと私たちが移行するための、過渡的な地点であるようにも思われます。

 「何度でも消えて⽣まれる」メグハギは、繰り返しをその性質として持っています。
 子音を被りながら、それでも誰かと等しくなれる場所。
 「メグハギ」は抽象的で均一なUEAという場所と、個別的で具体的な世界をこまやかに揺れ動く私たちの、そのはざまのあり方を体現し続けるのです。
 そしてその在り方は、現実がいくつも重層し多様な選択や解釈を許容する作品の構造、創作者たちがそれぞれの相貌を保ちながら舞台という一つの場へと溶け出す作品の姿自体へと、延長されます。
 『ウエア』。それは個別化と抽象化という相反する2ベクトルの乱反射を超えて、安らいの場所へとたどり着き続けるための、まさにカオティックなアドベンチャーでした。

・重ね着する身体

 稽古期間の中ごろは俳優の方にテクストを読んでもらいながら、誰にどんな言葉をあてがうとより魅力的な舞台になるかを検討する時間に充てられていたようでした。
 スペースノットブランクでは俳優二人を組ませペアにするバディ性を採用し、稽古場でのさまざまな関係をバディ同士の関係や他ペアとの関係へと整理して、見やすくしています。
 今回は、荒木さんと深澤さん、櫻井さんと瀧腰さんがそれぞれバディを組んでいました。
 稽古場では、演出のお二人のいる、端に置かれたテーブルから見て手前の方で女性二人が和気藹々と動き、奥の方で男性二人が粛々と動きを相談し作る、そんな場面が多かったように記憶しています。

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 そんな状況を反映して、作品前半部の例の配置が組まれたわけです。男性二人は左後方で、ほとんど黙してお互いの体の状態を探り合っていました。そして女性二人は前方で、男性二つの役をにぎやかに演じ合っていました。 言葉を全然発さないで体を寄せ合う二人と、激しく動き、激しく話し、戯れ喧嘩し合う二人が同時に舞台に存在し続けるこの長いシークエンスは、命名の抑制と過剰との複雑なダイナミクスから成る作品の本質を見事に表現していました。

 意地を張り、下品な冗談を飛ばし合い、時には喧嘩のようにいがみ合いながら仲を深める過度にホモソーシャル的な原作の描写は、ほとんど一貫して女性によって演じられることになりました。
 けれどもそれは女性の男性性への同化や、男性性のキャンセルというよりは、女性性の拡張と考えた方がふさわしいものでした。
 荒木さんの身のこなしの奔放さ、足まわりの柔軟さに支えられた身体のうねりは、何を言い出すか知れないトリッキーな岡のパーソナリティを表現するのにぴったりでした。逆に体幹のしっかりして視覚的に安定感の強い深澤さんはまさに須田という人物に似つかわしく思われました。
 舞台上で見られた児戯的な演技の数々は、男性性の模倣でもなければ、女性性のステレオタイプへそれを収斂させるのでもない、荒木さんと深澤さんその人の姿を浮き彫りにするものだったと思います。
 そこでは、『ウエア』の人物と実在のその人が見事に重なり合って存在していたと言えましょう。メグハギのように。

・縦横の解体

 縦書きに支配されたUEAサーバーと、縦横や上下の区別から自由なメグハギの世界とに対応するかのように、『ウエア』の舞台には縦、横、斜めに還元可能な幾何学的な配置がいくつも施されていました。
 客席からして、舞台正面に設けられた通常の席に加え、舞台を横からまなざすことのできる席として、低い椅子が舞台左右に三席ずつ置かれていました。
 また照明も、真下を照らす垂直的なものや、奥と左右の三方に走らされた、強く水平性を意識させる蛍光灯が目立っていました。
 瀧腰さんが常に首から下げていたギターのネックも水平性を強く意識させるものでしたし、たとえば冒頭の荒木さんと深澤さんが頭をうなだれさせて客を上目遣いで睨むような不気味なシーンも、ひとりの身体に垂直性と水平性を同居させるような、複雑な想像力を掻き立てるものでした。

 完全に2Dの世界(液晶画面)で展開された池田さんの原作とは異なり、舞台はもとより奥行きを持つ三次元空間です。ですから自然にその空間を利用する限り、縦横の軸は解体されてゆきます。けれどもその奥行きの故に、縦横の区別の設定が複雑に、重層的に舞台上に現れ、観客の想像力はそれだけ一層刺激を受けることになったと思います。

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 スペースノットブランクにしては珍しく映像が使用されたことが本作の特徴の一つですが、映像は奥行きを表現できるにしても、それ自体は2D的な表現です。この性格に自己言及するかのように、stackpicturesさんの用意したオープニング映像は実写やCG、アニメーション等、多彩な表現を闇鍋のようにぎゅうぎゅう詰めにしながらも、平面性を強く意識させるものになっていました。
 オープニングの際俳優の方々は四人横並びで整列していました。正面性が強い配置ですが、それゆえに映像を投射される俳優方の浮き出るような厚みは一層はっきりと立ち現れていました。
 人体のいる空間に三方向から映像を投射することによる平面性と立体性の感覚の同居、「地」から浮き出す「図」としての俳優の存在が、チームラボ的な浮遊感、トリップ感の正体だったのではないでしょうか。

・抜け出る身体

 『ウエア』ではヤクのトリップ感や幽体離脱により、現実と虚妄の境界が揺らいで、ここではないどこかへ移動することが描かれていました。それは縦線と横線で引かれたコマ枠を抜け出る漫画のキャラクターのように。

 ウエアは浮遊のために上昇します。ウエへ、エアへ上昇するそのひびきは、人間の肉体でいう嘔吐や嗚咽をも連想させます。生体に起るこれらの現象は、認めがたい現状を身体に転嫁する拒絶的な反応ですから、ウエアによって上昇し浮遊する精神は拘束衣のごとき身体や現実性のハードウエアから幽体離脱的に脱出し、ソフトウエアの、劇中メグハギにより繰り返される言葉でいうならば「縦も横もない」「良いことも悪いこともない」「テキトーな世界」へ連れてゆかれるわけです。

 たとえば後半部の、荒木さん演じる「岡」がヤクを使いバッドトリップを始めるシーン。本番では櫻井さんが荒木さんをお姫様抱っこのように抱え、荒木さんがそこから動いて櫻井さんの肩に移り体重を預ける、という動きが採用されました。

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 オープニングの際、俳優が空間から浮き出て見えたことを先ほど指摘しました。事実、ここで俳優方は眠りにつくので、ヤクのバッドトリップのようなオープニング映像はまさしく彼らが見ている夢のようです。
 そして後半には、夢と、創作されたいくつかの虚構と、ヤクのトリップと、おそらく現実と思われる地平とが互いに侵食し合い、これまで維持されていたバディも崩れ、なにがなんだか、誰が誰だかわからない世界が、サイケデリックにめくるめく景色をくぐりぬけてゆく浮遊感あるアトラクション的な世界が、待ち構えているのです。

・物語への俯瞰的な没入

何かが何かに、誰かが誰かに「なる」ことができる、異常さ。あるいはわたしたちがそう信じてしまえるということのおかしさ。原作の池⽥亮さんは、バーチャルYouTuber を「メグハギ」の着想の源流としてとりあげています。
 でもそれは、わたしたちがフィクションを通るときに、奇妙なほど⾃然にしてしまっていることです。半ば信じ、半ば信じない。あるいは信じさせるふりをする。
 現実世界を切り捨てて物語の世界へ没入しきるのではなくて、それが日常と位相の異なる別の世界であることを理解しながらそれでも夢中になっていく、その方が物語の体験としては実情に近いのではないでしょうか。
 そしてこの高度のある軽やかな没入の様相は、まさしく名前や言葉、真実が混じり合い、偶然的で選択的なものと化した『ウエア』とこの現代の世界にふさわしいスタンスだと言えるでしょう。

 普段のスペースノットブランクの作品には、客席と舞台の区別を前提しないための配慮がみられます。
 たとえば、演出の二人やスタッフは舞台の近く(時に舞台内)に机を構えて、観客の目に入る箇所から本番に参加することが多いです。そして、遅れて入ってくる観客のいらした場合、他の観客の目につくような仕方で客席へと招き入れます。
 それは、舞台から観客やスタッフを排除するような嘘をつかず、舞台の生成に携わる人びとをみな可視化するひとつの工夫だったと思います。

 けれども今回、演出のお二人は本番を客席の裏から見届け、遅れ客も気づかれぬようひっそりと案内されていました。それは、今回の『ウエア』が物語の上演であり、その没入度合いを高めたかったという配慮からの選択ではあったと思います。
 しかし同時にそこでは、いわゆる「演劇」らしさを偽装することで嘘くささを醸し出そうとする意図も働いていたのではないかと僕は睨みます。
 今回オープニング映像を設けることに関して中澤さんは嬉しそうに「演劇っぽくします」と仰っていました。「嘘くさくします」と同義だったと思います。
 ちなみに同時期に制作され、『ウエア』千秋楽のわずか五日後に上演された『氷と冬』はこの通俗的な「演劇」らしさを徹底的に解体する試みでもありました。

 それだけ作品内のリアリティが嘘くささを帯びるからには、一つ一つのシーンが強度を持たないと作品全体から説得力はまるきり失われただろうと思います。俳優方の発話にはそれを支えるだけの説得力があったわけです。

・溶け合う身体/押し合う身体

 荒木さんと深澤さんには、身体は客席に背を向けながら、上半身を捻ることで正面を切って観客に話しかける動きがありました。これはもともと相手の腕を引っ張って相手の身体を振り向かせる動きが作られていたのを、引っ張られ側だけで実践した動きだったのだそうです。

 一人でいながら、自分を引っ張る透明なバディを近くに感じる動きです。離れていながら相手の身体をひどく近づける動きです。

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 前半部の男性二人が寄せ合っている状態は、「アメーバ」と呼ばれていました。僕はその状態を作る稽古には立ち会えなかったので、困惑させられました。アメーバというほど輪郭のふにゃついた印象はなかったからです。
 姿をゆらゆら自在に変え、プリミティヴな印象を与える原生生物、単細胞生物のイメージが重要だったのでしょう。
 櫻井さんは瀧腰さんの背後に立ち、両手で相手の身体を支えます。しかしその「支え・支えられる」一方通行的な関係性は40分にもわたる沈黙の中で次第に融解していきます。身体の深いところで一つになる感覚は、両者の間で強く共有されていました。

 けれども、ひとつになる、といったところで、わたしたちは肉にかたどられた物理的な存在です。愛する二人の没我的な抱擁もまた刹那のことで、強く抱き合う力にはいつもきまって反作用の力学が働き、腕に込める力が強まれば強まるほど、二人の間に引かれた混じり合わない国境のような身体が確認されるばかりです。
 強く寄せ合う身体たちは、強く溶け合おうとすればするほど、強く押し合う互いの身体を意識せざるを得ないのです。

 「カタパルト」、と呼ばれた動きがありました。櫻井さんが強く腕を押し出して、瀧腰さんを弾のように射出するから、カタパルト。
 それは別世界へと抜け出ていく瀧腰さんの動性の表現でもあるでしょうし、それまでの深くもたれ合った時間の反作用、この巨大な単細胞生物の輪郭のゆらめきとみることも出来ると思います。
 けれども、櫻井さんの両腕は依然相手の肩に置かれ、瀧腰さんはすぐ元の位置へと引き戻されます。ふたたびひとつになる二人。考えてみれば、腕を離さずに射出の動きを為すには、二人の息がそろっていることが前提になります。
 単純な分離でも単純な混淆でもない、相反する二ベクトルの複雑な作用、押し引きの力学が、この寄せ合う身体には見られたのです。
 そのようにして、「メグハギ」の幻影はしきりに立ち現れては立ち消えてゆきます。

 冒頭で荒木さんは台詞なく小刻みな動きを繰り返します。この形の不確かなふるえの持続を経て、荒木さんは手を深澤さんに伸ばし、触れ合わせます。けれどもその後の掛け合いはなんだか対立的です。二人が混じり合っているような印象は、明示的には感じ取れません。
 やがてメグハギになった荒木さんは、

メグハギはあなたとも繋がるよ

と口にして、寝そべっている深澤さんの両手をとり、持ち上げますが、すぐにその手は離され、深澤さんの身体は地に叩きつけられます。繋がることは、同時に切断をも意味するのです。カテゴライゼーションはいつでもディスクリミネーションを含意します。

・落雷と楽奏のあとで

 ラストのシーンで初音ミクの消失を思い出したのはわたしだけでしょうか。

 終盤、落雷がメーリス上のすべてのメールを消去します。それはメーリスへ送られて紡がれた原作のすべての言葉、ここまで舞台に紡がれたあらゆる言葉を無へと還します。

 時として別れや消滅は、それまで過ごしてきた言葉の重さ、現実の重さを軽やかに脱ぎ捨てるための救いとなります。落雷の描写の後作品のほとんどを消去することに喜びと快感を感じたという、インタビューでの池田さんの言葉が思い出されます。
 瀧腰さんは落雷を経て言葉がすべて消えた世界で、ギターを激しく演奏します。音楽。そこには言葉や概念、意味を離れて、ただエモーションがあふれます。これまで何を見てきたのだか忘れてしまいそうになるようなエモさ、突拍子もなさのあるシーンでした。すべての言葉を離れた場所に、ついにたどり着いたという実感が、情感が、感動が、そこにはありました。
 けれどもやがてピックは胸ポケットにしまわれ、瀧腰さんは静かに舞台裏へ去ってゆきます。これから新しい物語がわずかに舞台に立ち上がるのを知っているからです。

 インタビューによれば、池田さんは大部分が形を失った物語の残骸を提示したのち、スペースノットブランクのお二人との相談を経て、物語の復元を試みることになったそうです。

 過去の自身の悲しい記憶を物語化し、その上演を通じて物語を現在にだぶらせながら、家庭を構え一定の評価を獲得なさり幸福を手に入れつつある池田さんの実生活上の引き裂かれと不安が、実は『ウエア』の融合と分裂の核をなしている、という読解は可能だと思います(この引き裂かれについては、後に「ゆうめいの座標軸」評で詳細に扱いたく思っています)。誰かを傷つけながら物語を育むことの責任。誰かを傷つけながら家庭を育むことの責任。
 物語の中で赤子をもうける須田は、池田さんの現況の私小説的な投影に思えてなりません。そしてそれはいつまでも絶えることのない、永遠普遍の人間の生の写しといえるでしょう。

⽣まれてから様々なものに名前があり 誰かに付けられて 名前が名前を読んで欲しい欲求に応え ⽂字も ⽇本語も ⽣まれた場所に応え あなたが名前を付けられて正しくないと感じた時 ようやく 孤独を感じる

 その孤独にもかかわらず、わたしたちは名前を与え続けるでしょう。そしてやはり名前は拒まれるでしょう。メグハギは何度でも消えては生まれてゆきます。いつまでも、わたしたちは現実の重みを時に受け入れ時に手放しながら、その身を寄せ合うでしょう。落雷と楽奏の後で。

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