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太陽よりも、雨が似合う人たち。

  この連載を置かせてもらっている古着屋は、神戸三宮のセンター街の地下にある。素人の僕でも少しは分かるくらい上質な古着が並び、価格も良心的すぎて心配になる。それだけならまだしも、極め付けに、併設されたカウンターでコーヒーやお酒が飲める。しかもそれが安くてウマい。いつもアイスコーヒーを頼んで店主とダベっては帰る始末。店主が淹れるコーヒーの美味しさと優しさにかまけて、一度も服を買っていないまま通ってしまって一年が経とうとしていた。

 店主は僕にとって、少し歳の離れたお兄ちゃんのような存在で、ここだけの話、甘えまくっている。コーヒー1杯で通い続けているのもそうだし、歳下のくせにエラそーに説教を垂れたこともある。それでもちゃんと付き合いが続いているのは、店主の人柄に他ならない。

 そんな店主に、一度だけ本気で頭を下げたことがある。今年の夏、共通の知り合いの葬式に参列した次の日だ。


写真:HOKUTONE

 亡くなった彼は雨の似合う人だった。そんな彼を気遣うように、葬式の当日、激しさを伴わない静かな雨が降っていた。ちょうど一日前に店主伝いに訃報を聞いたばかりだった。死は突然で、葬式も突然だ。親族はもちろん、参列している誰もが何の整理もついていないまま、式場へ訪れていた。もちろん僕もそのうちの一人だ。

 わんわんと涙を流す人、パイプ椅子に座ったまま数十分動かない人、彼の好きだった音楽を流す人、告別の仕方は人それぞれだ。葬式は亡くなった人のためというより、残された人のためにある。悼む気持ちにすら整理がつかないまま参列してしまった僕は、訪れる人が次々と別れを受け入れていく中、その場を包む哀しみを、まるで他人事のように眺めていた。

 式場からの帰り道、タクシーの中で「おれ、なんだか哀しくないんスよ」と店主に吐露してしまった。正直な気持ちというより実感がなかった。哀しさよりも悔しさの方が勝っていた。彼は、僕のエッセイの読者の一人でもあったからだ。雨が車窓を叩く音が聞こえる。店主は黙り込んだのち、僕の気持ちを否定することもなく、ただ「僕は哀しいな」とつぶやくだけだった。

 仕事を済ませて帰宅した夜、熱いシャワーを浴びながら亡くなった彼のことを考えていた。血行と一緒に哀しみが身体中を駆け回る。水が滴る浴室で僕はようやく彼がいなくなったことを受け入れた。同時に、僕以上に彼と仲が良かった店主に「哀しくないんスよ」なんて言ってしまったことをひどく後悔した。気持ちに嘘はなかった、けれど、哀しんでいる人にまちがっても吐露する言葉じゃなかった。

 翌日、居ても立ってもいられなくなり、謝罪しに店へ赴く。店主は僕の謝罪を茶化すこともなく、「全然気にしてないよ」と言うこともなかった。真正面からちゃんと受け止めてくれた。そのことが本当に嬉しくて、有り難かった。謝って済むことばかりじゃない中で、ちゃんと謝ったことを受け止めてくれる大人がいる。許される許されないとかじゃなく、受け止めてくれたことがただただ嬉しかった。そんな大人が淹れるコーヒーが、マズいわけがない。


 きっと来年もまだこの連載は続くと思う。悲しみをずっと抱えながら生きていけるほど僕たちは強くないし、くじけて前に進めなくなるほど僕たちは弱くない。また明日から、たいしてドラマチックでもない日常が始まる。二〇二三年も変わらず、センター街の地下でコーヒー1杯で粘り続けているだろう。来年こそは、僕が好きなこの店で、僕が好きな店主から服を買おうと思っている。大切な誰かがいなくなっても、「それでも日々はつづくから」。


写真:HOKUTONE


*このエッセイは #今日もどこかで雨をしのいで というタイトルの第32回です。神戸にある「ARERYNA」という古着屋で毎週連載されています。

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