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しょうがを煮詰めたような恋。

やすらぎの価値を知りつつ、その一方で、私はどうしてもときめきが永遠に上昇し続ける、という夢をみてしまうのだ。 
—穂村弘『もしもし、運命の人ですか。』

先日、読んでいたエッセイ集にこんな一文を見かけた。
「ときめき」による上昇を続けても、そのうち天井にぶつかってしまう。そこから「やすらぎ」という水平飛行が続き、終いには下降していくという、飛行機を模した秀逸な例えで、誰しもが共感してしまう。

人間の脳は、刺激を欲するように出来ている。部屋に何ヶ月も閉じ込めたら幻覚を見るという研究データは、変わらない景色に脳が退屈して、自ずから刺激を作り出すためだという。恋愛も、そうだ。「やすらぎ」に擬態した退屈に耐えがたいのは、人間の本能だとも言える。


『私はどうしてもときめきが永遠に上昇し続ける、という夢をみてしまうのだ。』

これは男女共通の夢ではないか。「まだ若いね」なんて意見が飛んできそうだが、何を隠そう、ぼくは現在25歳である。世間的に見てもまだ若いので、このテの意見には目を瞑らせてもらう。それなりには「やすらぎ」の素晴らしさについても理解しているつもりだが、「やすらぎ」は「ときめき」を諦める理由にはなりえない。「ときめき」を諦めたが故に「やすらぎ」に価値を感じてしまうようなことは、やすらぎだって不本意だろう。「高嶺の花を諦めて君と付き合うことにしたよ」なんて、口が裂けても言えやしない。


筆者はこれに、「ときめき延長大作戦」という提案を寄せている。

基本方針は、上昇の角度を穏やかに抑えることで『ときめき』の時間を引き延ばすというものだ。恋の初めの段階であまりにも急上昇するから水平飛行に移るのも早いのだ。ならば、穏やかな上昇によって時間を稼いだらどうか。これによって理論上、一生『ときめき』続けることが可能になる

具体的には、こうだ。
例えば、年齢も本名も知らない夫婦。お互いを「まあくん」「ちいちゃん」などとあだ名で呼び合っている。
そして、毎年の誕生日に「贈り物」として一つずつ互いのことを教えあう、というのだ。

1年目は血液型。
5年目は年齢。
そして、五十年目の死の床で。
「お前の名前を教えておくれ」
「ちか、あたし、ちかっていうの。あなた、死なないで」
「ちか・・・・・・・、いい名だ。ぼくはまさる」
「まさる」
「ありがとう、ちか。君のおかげで幸せな人生だった」
「まさる」
「ちか」
と、固く手を握り合って最期の時を迎える。 


なんて、うっとりしてしまう恋愛だろう。短編映画にして、是枝監督にメガホンを持ってほしいほどだ。
「知らないことを教えあう」というルールを設けることで、やすらぎの中にときめきを用意する、今すぐにでも実践できる至極具体的な策である。


知らないこと、といえば、ぼくはかつて、好きになった人のすべてを知っていたい種類の人間だった。恋愛のみに限らず、人間的に好きになった人でも、その人のすべてを知っていたいと思っていた。さいきん何を考えているか、散歩するときにはどんな曲を聴くのか、おせちは最初に何から手をつけるのか。寝るときの体勢は、うつぶせか仰向けか、それとも壁に背を向けて寝るのが好きなのか。

99%では物足りず、その人の100%を知っていたい。会う頻度が少なかろうが、100%を知っているという悦びに浸れれば、どこで何をしてようと構わない。頭のてっぺんから爪先まで、すべてを知っていたいのだ。
その自己満足極まりない欲求を見透かされて、「私の99%は知っていても、100%は知らないんだから、私を知ったような気にならないで」という言葉で、軽いうつ状態になったことだってある。


当時のぼくは、知らないことがあることにとても不安がっていたんだと思う。しかし、人間は成長するもので、今は知らない不安よりも、知らないことを知るよろこびのほうが、ぼくの中で勝っていったのだ。知らないからこそ知れるというよろこびに、気付いてしまったのである。

知らないことを知れるというのは、とんでもなくよろこばしいことだ。知らないことの多さを嘆くのではなく、知るよろこびを体験できる余白があると思った途端に、知らない海が急にロマンチックに見えた。ぼくがまだ知らない何かがあることが、途端にきらびやかに思えたのだ。

それらは、なにも学問的なことばかりではない。
ぼくがまだ知らない素敵な人も、たくさんこの世の中に生きている。まだ出会っていないだけで、たった1秒のきっかけで仲良くなるような人や、燃えるような恋をするかもしれない人、たくさん共に笑ってくれるような友人がこの世に生きているということを、ぼくはまだ知らないのだ。

一緒にいる時間が長く、ほとんど知っているかのような彼女でさえも、ぼくがまだ知らないおっちょこちょいなところや、ぶきっちょなところ、かわいいところや相容れないところ、そんな部分があると思うと、ぼくがまだ知らない貴方がいると思うと、うれしくってたまらない。そんな貴方に、出会いたくってたまらない。

すべてを知るということは、なんとも退屈なやすらぎなんだ。
否、ぼくたちは互いを知らないうえで、やすらぎを感じることができるのだ。分かり合うことでやすらぎを感じるのではなく、分かり合えないことで、「やすらぎ」と「ときめき」の両方を、ふたりは手にすることができるのだ。


なんだか熱っぽく語ってしまったけれど、知らないことや知らないあなたがいることを、心から祝福したいと思う。知っている分だけの「やすらぎ」と、知らないだけの「ときめき」を抱えて生きていけるのだとしたら、なんとも素敵なことだろう。

ときには上昇して、ときには水平飛行して、ときには下降して。
下降した先が地上だったとしても、「ときめき」と「やすらぎ」を手にしていれば、降り立った先でふたりは、歩いていけると思うのだ。


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先週は、ジンジャーエールを手作りした。
しょうがをみじん切りにして、唐辛子と共にふつふつと。
今週、彼女の家の冷蔵庫を開けると、すでに姿を消していた。

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毎年手伝っている田んぼ、今年は苗床からお世話することに。
この時点ではまだ、頭は垂れていないようだ。

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ときめきの 代わりにやすらぎ 手にした恋 あたためたくて しょうが煮詰めた

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