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取り繕っても意味がない

先日、オンラインでセミナーを受けたのだが、今回は課題レポート付きであった。レポートといっても、文字を書いていくタイプのものではなく、問題を解いていくタイプのもので、理系大学生のレポートのようである。こういうのもレポートって呼ぶんだった、懐かしいとかなんとか思いつつ、問題は解かねばならないので、計算をしないとなぁと思っていた。

今日、時間が空いたので少しやってみたが、なるほど、セミナーのテキストをちゃんと読んでいれば回答にたどり着けそうな出題内容であった。講師もそこまで意地悪なことをしていなさそうで、いささか安心した。この分ならば、もう少し時間を掛ければ何とか期日までに終わりそうである。

「他の人のレポートを写したのでは意味が無いので、自力でやってください」とセミナーの最後に事務局からのアナウンスがあったことを思い出す。確かにそれはそうだ。自分の理解力を試す機会を見す見す失ってしまうのはもったいない。そりゃ、課題だから終わらせることは大事だが、そこに至るまでのプロセスのほうが重要だと思う。

人から聞いた話だが、昔、何人かでゴルフに行って、スコアをちょろまかした者がいたという。そういう不正はもってほかなのだが、趣味でやっているゴルフで虚偽のスコアを申請して、一体何の意味があるのかと思う。不正をした本人は気が付いていないのかもしれないが、周りは気づいているのだから、張る見栄もなかろう。それだったら、今の実力をスコアで表して、次への糧にしたほうが本人のためになるのだろうが、その場を凌げればもはや何でもいいのだろうと推測する。

人間、楽をしたい方向に動いてしまうので、何とかその場を取り繕ってしまいそうになるが、やはりそれでは真の実力は付かない。時には痛い目を見たり、辛い目に合うかもしれないが、それでも目の前の課題と真摯に向き合うほうが長い目で見たらいいことのほうが多い。そういう選択ができるかどうかは、自分を律せられるかどうかだから、些細なことでも楽なほうに逃げないように心がけたいものである。

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