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【現代語訳】植木枝盛「教育は自由にしなければならない」 (原題:「教育は自由にせざるべからず」、1880(明治13)年)

原文:植木枝盛  現代語訳:山本泰弘

 今日、欧州各国がこのように開明な社会になっているのは、各種の主義が混在して互いにぶつかり合いしのぎを削り、その結果一つの主義が社会を支配していないことによる。アジア各国の開明は欧州よりはるか前になされていながら、徐々に退歩した結果今日の状態を呈しているのは、結局のところ一つの主義が社会を支配し、他の主義を消滅させたからだ――とは、今日欧米の学者が常に得意気に誇示するところだ。

 ゆえに、一国の開明をますます進展させようと望むなら、まずはそのための各種の要素を養わなければならない。わが国の文部省は先頃「教育令」を定め、一律の普通教育の制度を設け、国の職員を各地に派遣してその実施を駆り立てている。それまで国中一丸となって文部省の「学制」に従い、その定める教育を行ってきたものの、各地域はもともと人情や風俗などが異なるのだから、実際には適切ではなかった。このため全国的に、一律の「学制」によって強行的に教育を行うことは無理であるとの論調が広まり、この方法は非難された。

 そこで文部省は昨年(1879(明治12)年)、従来の「学制」を改める「教育令」を出して自由教育の制度とし、教科書などについては各地方で適宜決めるように任せることとした。これは実に真っ当なことであり、当時私だけでなく全国の論者はこれに賛成したのだった。

 もともとわが国は明治維新の前、幕府の世から、今とは教育の主義が異なるとはいえ、学問に打ち込む者が少なくない。現に、学問の水準が中等以上の者はだいたい、普通の漢文の文書は読み通せるものであり、中等以下の者は寺子屋というもので習っていて、手紙をやり取りするような日常の読み書きができない者はごくわずかだ。ゆえにわが国は、学問と知識に優れた人物が西洋各国に比べ乏しいが、その一方で字も読めず無知な野蛮人は少ないのだ。言い換えれば、わが国は学識の蓄積は乏しいが、学識の普及の面では優れているのである。実にこの点では、欧州各国の中でわが国の右に出るものは無いだろう。すでに学識の普及では優れているのに、どうして強行的な教育で人々の心を束縛すべきなのか。

 ここでさらに踏み込めば、そもそも「文部」〔教育・文化を司る政策〕とは「教部」〔神道をはじめとした宗教を司る政策〕の格下であって、国の政治の中で最重要なものではない。人々の知的水準が徐々に向上すれば、文部の役割はさっさと縮小するものだ。ゆえに英国・米国のような開明国はすでに文部の省を設けておらず、その仕事を内務省が担当している。フランスはまだ文部省を設けているが、その長官は他の省の長官を兼任している。文部という仕事は、社会が成立して最後に現れ、最初に手を引くものなのだ。

 わが国は先に述べたように、すでに学識の普及に優れているのだから、今さらに一律の教育制度を設けて普通教育を強行するのは最も的外れである。まして実際にやってみてとっくにそれが無理なことがわかっているのだ。だいたい一律の教育制度を設けて国民を一様に教育しようとするのは、結局実現はしないだろうし、たとえ実行されても、いわゆる一つの主義を国中に行き渡らせるもので、国家の開明の最も害になるものである。全国民を一様で一体の精神に養成しようとするならば、揃いの浴衣を着せるでもよく、揃って裸にさせるでもよい。教育もこれも等しく一様で一体である。ただ有形・無形の差があるのみだ。国民をこのような操り人形に化してはならない。精神の違いをこそ養成して、それにより独立の気性を呼び起さなければならない。

 田舎の糞尿桶を担う者に、地球儀だとか、外国の山や川だとか、全く縁のないものを教えるのは実に現実離れの極みというべきだ。また、小さく粗末な家々の中に何階建てもの白壁造りの校舎を建築するなどは、最も不似合いである。たとえて言えば、上品な蒔絵の重箱の中に黒いあんこのぼた餅を詰め込んだようなもので、その蓋を開けば一様一体の黒団子を見るのみだ。これよりは、茅ぶきの古民家の寺子屋のほうが、各種の要素を養成するのに明らかに優れている。これはまさに、先頃世の意見が一律の強行的教育を非難して、今日の自由教育を提唱した理由ではないか。

 今や河野敏鎌(こうの・とがま)氏が文部卿〔≒文部大臣〕となり、以来しきりに自由教育を否定し、干渉主義の立場で強行的教育を主張しているという。私はかつて、河野氏は以前元老院の幹事だった時、専ら自由と改革・進歩を提唱していた人だと聞いた。前後のこの矛盾はなんと甚だしいことか。ああ、河野氏ともあろう者がこの有様とは、私には全く信じられない。
 河野氏が前者のように主張しているとは誤報であるはずだが、もしそれが事実だというならば、私は固くこう信じる。政府が各地方に対し厳しい監視のもと教育を行わせる道理があるとすれば、その目的は、支配者の独裁をよしとする思想を全国に普及して、それにより国民に揃いの浴衣を着させるような一様で一体の精神を養成することでは断じてなく、ただ学問を振興するという一点にのみあるべきだと。
 その上で私は、普通教育についてはなるべく各地方に任せ、政府は国家の元気の源となる高尚な学問を奨励することを深く希望する。わが国が今日欠点とするものは、学識の普及よりもむしろその蓄積、つまり高尚な学問である。操り人形のような者を養成すべき時ではないのだ。世の教育家も、このことを思い過ごしてはならない。

〔原文底本:『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』〕

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