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【現代語訳】政府は天なんかじゃない(原題:「政府は天に非ず」、1880(明治13)年)

原文:植木枝盛  現代語訳:山本泰弘

〔訳注1:全国の自由民権団体をつなぐ組織として1880(明治13)年に発足した「国会期成同盟」は、片岡健吉河野広中を代表として、国会開設を求める願望書(請願書)を太政官(立法・行政を司る政府中枢機関)に提出しようとしたが、願望書は受け付けられなかった。〕

〔訳注2:片岡らは、1877(明治10)年に、天皇に国会開設を訴える建白書(意見書)を京都行在所(天皇の滞在所)に提出しようと試み、拒否されている。〕

〔訳注3:1870(明治3)年、薩摩藩士の横山安武(正太郎)は、政府の腐敗・悪政を批判する建言書(提言書)を残して切腹した。〕



 悲しいかな、卑屈な論者は、政府を天とみなしている。

 彼らは言う、「近頃の国会開設願望者は、一書生の横山正太郎〔※訳注3参照〕に及ばない。国会開設の願望書〔請願書〕を提出する委員の片岡健吉・河野広中は、なぜあくまで太政大臣に面会を求め、どうにかしてその理解を得ようとしなかったのか。太政官が願望書を受け取らなかったとして願望する道は途絶えたとし、すぐに郷里に帰ってしまったのは全く志を成し遂げていないものだ」と。

 これだけでなく、聞くところによれば、国内各方面の国会開設願望者の中には片岡氏や河野氏らが願望書を提出したけれども受け取られずすぐに帰郷したことにすこぶる不満を抱き、「いつまでも懇切に提出の道を模索し尽くさなかったのは残念だ」とか、「もう少し丁寧に事を運べばうまくいっただろうに、あまりに即断で見切りを付けたのは残念の極みだ」などとし、挙句にはこのせいで国会開設の望みを絶やしてしまった者までいるという。

 これにとどまらず、一地方の代表として大政府に願望書を持参し、正面では明らかに受け付けられなくても裏からだろうと脇からだろうとどうにかしてそれを政府に出そうとのみ努力し、他に道が無いと思っているような者が現にいるのだ。実に悲しむべきことではないか。時代遅れの習わしから脱せない卑屈の極みである。

 このような者はつまり、政府を「天」とみなしているのであり、政府があることは知っているが人民がいることを知らないのである。つまりは政府の奴隷である。かわいそうに。


 そのような憐れな人のために論じよう。第一、政府は政府であり、天ではない。政府は単に国家の事務を行うものに過ぎない。さらに言えば、政府は国家の一部分である。そして、われら人民も国家の一部分だ。本来全く同等で、異なるところは無い。だから人民は人民の人民であって、決して政府の人民だなどという道理は無い。人民にとっての天は人民自身、人民の自由である。ゆえに国会を開設するということも結局は人民自らが行うべきであり、自ら行っていけないものではないのだ。

 とはいえ国会は全国の会であり、一部の人民の会ではない。一部の人民は一部の人民に過ぎない。政府は国家の一部ではあるが、現に国の行政を運営し、全国を治めている。ゆえに、国家の一部である人民が国会を設立したいと思えば、初めはまだ全国の多数を得ていないのだから、現に全国の政治制度を司る政府に申し出て、政府が全国に号令して国会開設を実行するよう、また、国会を開設することを許可するよう求めなくてはならない。これは当然のことであり、合理的な策である。

 しかし、人民がすでにこのことを政府に願望したものの、政府がそれを受け入れない場合は、政府はその人の発言を取り合わないということであり、その人に真っ向反対するということであり、その人に背を向けるということである。そこでどうしてその人がそのような政府に期待できるというのか。

 政府はすでにその人に反対し、その人の発言を取り合わないのに、人民たる者がなお政府に依存して国会開設を実行しようとするのは、古い和歌に
「行く水に数書くよりもはかなきは思わぬ人を思うなりけり」
〔流れゆく水に数を書くよりもはかないのは、私のことを思ってくれない人を思うことだ〕
とあるようなもので、そんな思いを断ち切ることこそが良い手だ。政府に頼る道は早く断ち切って、本来望むところである本物の国会を実現する策を練ることこそが良い手なのである。

 国会を実現しようとして、自分たちに反対する政府にのみ頼ってその望みを果たそうとしては、国会の影を追ってその実を得ずに終わってしまうはずだ。仏教の説話にある「水中の金影」〔水面に映った金の仏像を手に入れようと何度も水に潜る〕とならざるを得ず、実現できるはずがない。


 孟子はこう言った。「どうしようもなくなったら、根本に立ち返る」と。良い言葉だ。いま、人民は政府に頼って国会を開設しようとしている。政府は無論これを受け入れるはずである。ところが政府はこれを一切受け入れず退けた。人民はどうしようもない状況に至った。まさに、根本に立ち返らざるを得ない。かくなる上はただ自ら根本に立ち返り、その痛恨さを天に叫ぶべきである。根本は堅く、天は大きい。堅い根本をよりどころとして広い天に挑む。天に余裕はいくらでもある。縮こまることはない。

 ああ、人間は自由で自主だ。自由と自主はわれら人の本性である。ゆえにわが国に政府があってそれに頼れるのならば頼ろう、しかしやむを得ない場合には、根本に立ち返って自分自身の自由に頼ろうではないか。

 自由というものの世界は限りなく広大で、池のフナが大海に出たようなものどころではない。われらはつまるところ自由によって生まれた自由の民である。たとえどんなに政府に退けられても、本来正当な地位に立っており、広大な天のもとに存在している。身を置く立場を失った者ではないのだ。われらが身を置くのは、正しい道理の大世界である。世界はまことに広く、大きい。正しい道理の大世界は果てが無い。われらはそんな大世界にあって大いに自由の本質を働かせるべきだ。政府がわれらの発言を受け入れないならば、われらは自らの力で国会を開設すべきである。

 とはいえ、国会は一人のものではなく全国に関わるものであるから、一人一人が勝手に開設できるものではなく、全国の人民の自由意思に基づいて開設すべきはずである。ゆえに、全国の人民がすでに一致結束しているならばともかく、まだそうではない場合は、まず国会を開設しようとする者が、他の全国の人民にそれを提案し、多数の同意を得た上で国会を開設すべきなのだ。これは実に正当な順序をたどったものと言うべきである。まして国会は、天皇陛下のお志であり、万人が熱望するものである。それを今日に至って拒絶するというのは、拒絶は拒絶でもごく一部の人がそうしたに過ぎず、その数も高が知れているのだから、そのことに特に深い意味があるわけではないのだ。

 このようなわけで、例の片岡健吉、河野広中の両名が日本国民9万人余りの代表となって、国会を開設することを願望する文書を差し上げ、太政官がこれを受け付けなかったことにより願望の道は絶えたとし、帰郷したのは全く正当な行為なのである。かつ、政府に受け入れられなかったからと言ってこのことを諦めるようなことはせず、さらに力を尽くして全国の人民と談義し、ともに国会開設を成し遂げようとするのは、実に自らの根本に立ち返って責任を担った勇姿であり、感嘆すべきものだ。立派な態度を失わないでいるものと言えよう。


 無知蒙昧なこと甚だしいのは、国会開設の願望は前述のような次第であるのに、世間の論者たる者がなおこの道理を察することができず、願望書提出のことをこう論じることである。

「今その願望書を普通の順序で提出しようとすれば、必ずこのことを管轄する地方の官庁を経由せざるを得ず、そうした場合にその地方官庁の長が何らかの判断を示して却下したならば、両名は甘んじてその反応に従って願望の道は絶えたとするか、またはそれは不服だとして次の策つまり太政官に提出する手をとるだろう。私はそうであるべきと信じていたのに、それに反し実際ははるばる数百里の道のりを海を渡り山を越えて上京しながら、ただ一人の書記官から鉄の棒だか鋭い刀だかでたった一言のもとに同志の仲間の貴重な権利を圧倒されて引き下がってしまった。三年前に拒否された天皇陛下あての意見書〔※訳注2参照〕と今回の太政大臣あての願望書とで訴え方を変えなければならないわけではないが、太政大臣に直接願い出てもすぐには理解されないはずであろうと決めつけてあえて直接願い出ず、願望の道は途絶えてしまったと郷里にすごすご帰ったのは、両名がその使命を尽くさなかったと言わざるを得ない」と。

 これらは到底理解できない。
 そもそも国会は全国単位のものである。国会開設の願望は日本人民たる身分で行ったものだ。一府県の人民の身分で行ったものではない。一府県の人民の身分で願望したならば、確かに府県庁を経由することがあるだろう。日本国民の身分で日本全国単位のことを望むというのに、どうして地方の役所を経由しなければならないというのか。これは全く明らかなことだから、あえて長々と述べる必要は無いだろう。

 そして、一書記官の一言のもとに貴重な権利を圧倒されたなどというのは、でたらめもはなはだしい。片岡氏らが提出した国会開設願望書を受け付けなかったのは一書記官ではなく、太政官である。初め太政大臣に面会を求めたもののできなかったために、その代理の者に面会を求めた結果例の書記官に会ったものだから、書記官の口から述べたことはつまり太政大臣の意思である。何の疑いがあろうか。すなわち書記官が片岡氏らに面会して、「人民に国政のことを願望する権利は無いからその文書を受け付けない」として退けた以上は、組織としての太政官が、その長の太政大臣が、それを受け付けなかったのである。それをさらに太政大臣に面会して理解を求めることをしなかったと言って職務を尽くさなかったなどと評するのは、無知もはなはだしいというものだ。


 論者はまた、「立憲政体・議院政治は、おそれ多くもわれらが天皇陛下による明治8年4月のお言葉『立憲政体樹立の詔』によってあらかじめ人々と誓われたものなのだから、両名はなぜあくまで太政大臣に面会を求めて、筋道を通して帰ってこなかったのか。そもそも臣下の身分として、天皇陛下に訴えるのはつまり苦痛を天に叫ぶことであり、それがいわゆる『人が窮地に至って根本に立ち返る』というものだ。ゆえに、願望を受け付けないとの旨を大臣が直接語り、両氏もそれを直接大臣から聞いたならそこで決着するのである。そうであればまだ、委任された義務を尽くしたわけであり、その結果として願望の道が途絶えたと言ってよいだろう」と。

 これまたおかしなことを言うものだ。だいたい片岡氏らは太政官に対して国会の願望書を提出しようとしたのに、太政官が「人民に願望の権利無し」と言ってそれを受け付けなかったのではないか。ならば片岡氏らは実に筋道を通したわけである。「願望の権利が無いから受理しない」と言われて帰ったのは実に筋の通ったことである。世にはこれに勝る筋道があるだろうか。それを、太政大臣に直に面会しなかったと言い、大臣から直接「受け付けない」と聞かなかったと言い、それで任せられた職務を尽くさなかったと断じるのは全く愚かである。かつ、臣下の身分として天皇陛下に訴えるのは苦痛を天に叫ぶことで、それがいわゆる「人が窮地に至って根本に立ち返る」というものだと言うのも、卑屈の体内から出た言い草である。つまりは政府を天とし、政府に頼る他に国会開設の道は無いとするものである。ああ、また狭い天をいただくものだ。憐れまざるを得ない。私は自由という大きな体を持つ者であるから、そのような狭く小さい天をいただくわけにはいかない。どうしてそんな見方に同調できようか。


 この他、何とかという論者のように横山正太郎の行為を賞賛する者もいるが、横山正太郎は結局政府を天とみなして、自らの根本に立ち返って国家のあり方を自力で動かせばよいと思うことなく待っていたわけである。それは自暴自棄であり、卑屈な奴隷である。どうして賞賛できるものか。さらに言えば彼は日本人民の身分を持つ者であり、ゆえに政府の過ちを正すべきであれば正し、政府に言うべきことは言うのが筋である。自分一人でも政府を正し、ものを言い、でも改まらなければさらに自分自身は一国民として国家の人民に訴え、人民の多数を自身の考えに一致させ、その人々と一体となって自国の政府を改めればよく、それは決して難しいことはないはずだ。もし一気には実現できなくても、やがては実現しないこともないであろう。だからまさに自ら実行に出るべきはずだが、政府を正す意見が通じなかったとして衆議院の裏門で自ら命を絶ったというのは、忠誠心こそ感じられるものの、はなはだ狭い考えから逃れられなかった結果である。憐れむことはあっても、取るに足らない行いだ。しかも横山正太郎が死んだのは十年前のことであって、今日よりも道理が明らかでなかった時だから、彼がそうするに至ったのも多少はわからなくはないが、今日は当時と比べてさらに開明が進んだわけだから、このような行いに至ることは考えにくい。かつ、社会を論じる有識者・記者らは当然、片岡氏らの行動の筋道を察せるはずだが、そうせずにむしろ横山正太郎の行為を賞賛するというのは、論者は無駄に外面だけ文明開化を装って、精神のほうはいまだ時代遅れの悪習を脱せていないと言うべきだ。これもまた横山正太郎とともに憐れむべきものである。


 以上を改めて論じれば、政府は人民の「天」ではない。人民は正しい道理を「天」とすべきである。その天は言い表せないほど無限に広大である。ゆえに人民は政府に受け入れられなくても少しも縮こまることはなく、根本に立ち返って正しい道理の天のもとに立ち、自ら判断して自ら実行すれば何事でもできるのである。政府に対して国会開設を望み、それを政府が受け入れないならば、人民は全国の人民に提案・協議して自ら国会を開設することを目指すべきだ。政府が人民の願望を受け入れないのに、なお願望するというのは、自らの行動を改められないわけで、無知で愚かと言うべきである。そんなのでは国会を望んでも実現はできない。ゆえに私はただただ日本人民に、政府を天とするような悪習を脱却し、大いに自らを改めて、真に国会を実現すべき道を求めることを希望する。


〔底本:『植木枝盛集 第三巻 新聞雑誌論説1』〕

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