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因果関係で満足すると本質を見失う。

余談。

 私が橘玲さんの著書をそれなりの頻度で読むこともあってか、今後の日本社会に対しては悲観的であり、毎日2,000字を目安に自身の考えを垂れ流す形でありのままの思想をアウトプットするように努めているから、楽観視するような内容を記載した記憶もなければ、読み返して楽観できた試しがない。

 多くは悲観的な予測をもとに資産運用で将来に備えることや、種銭を確保するためには質素倹約な生活を心がけるなどの主張を、その時々の状況に応じて抽象的に表現しているに過ぎない。

 長文の割には内容が薄くて何が言いたいのか分からないと思われた方は恐らく既に読んでいないだろうが、自身の脳内で答えの出ない抽象思考がループして夜も眠れない健気な青年に陥らないよう、思ったことをそのまま垂れ流す形でアウトプットして脳を疲れさせて錯覚的にスッキリさせつつ、記した情報を後から振り返った際に核となる考え方がポロッと表出していたりするのを発見するために書き記しているだけであり、結局のところ自分のためなのである。

理解した気になって満足する大人。

 世の中の大半の物事は、因果関係から分かった気になっているだけであり、本質を理解していないと強く感じている。私も例外ではない。

 義務教育の場で様々な疑問を感じたように記憶しているが、周囲の大人から納得できる回答が得られた記憶は残念ながら殆どない。数学ではマイナス同士を掛け算してプラスになる理由を聞き、理科で電子とは結局何なのかを聞き、社会で日本の首相を国民が直接選べない理由を聞き、総合でコンピュータの動作原理を学校教諭に聞いた。家庭ではお金持ちとそうでない家庭の違いは何なのかなど、様々な「なぜ」を大人に聞いてみたが、結局モヤモヤしたままだった。

 子供の直感から湧き出る疑問は確かに頓珍漢な内容が多い。大人は甘く見ている側面があるかも知れないが、大人と違うのは因果関係から「こう言うものだ」と分かった気になるだけの経験値がないため、時に本質を突くような鋭い「なぜ」が出てくるのだと思う。子供時代に言語化出来なかったモヤモヤの正体が、大人になってようやく言語化できるようになったのである。

 生命科学者が皇后陛下と会談した際に「タンパクとは何か」と質問された際に答えられなかった逸話があることからも、ほぼ全ての大人は因果関係から分かった気になっているのである。そう考えると、子供のなぜなぜ期は天才的である。そこで私は以下を改めて自問自答した。

GDPとは何か。

 国内総生産で、1年間に国内で生み出された経済的付加価値の総量が教科書的な答えである。因果関係でも消費が増えればGDPが増えるものだ。とそれっぽい説明で何人かは騙せそうだが、正直なところ聞きたかったのはそれじゃない感が強い。

 ニュースで500兆円ちょっとを推移していた日本のGDPは疫病によって5%下落して、30年前の水準に逆戻りしてしまったとか、あたかもGDPが低下すると貧しくなり、第一位の米国や、第二位の中国が豊かで幸せな社会で、このままではドイツに抜かれた後、インドにも抜かれて日本は没落していく一方であるかのような不安を大衆に煽っているが、そもそも全体の付加価値が減って何がどのように困るのだろうか。

 バブル崩壊で付加価値が減ったことで、右肩上がりが前提の資本主義経済が立ち行かなくなったことで日本企業は経営に慎重になった。そのタイミングに直面した就職氷河期世代は時期が悪かっただけで、高学歴にも関わらず正規雇用に就けない人が続出。若年期のキャリア形成に躓き、非正規雇用という名の社会の枠組みから外された存在として苦労し続けているうちに気付いたら50歳を超えている。

 それ以降の世代も一部の勝ち組とされる上位層を除いて、低賃金や失業のリスクを背負い社会を支えているにも関わらず、ブラック企業に使い潰されては心身が壊れ、社会的に再起不能となったり、上がらない賃金と上がり続ける年金や社会保険料、学費の影響から20代の半数の資産保有額が10万円に満たず若者の貧困が深刻化している。

 高度経済成長期からバブル崩壊前までの、良い学校を出て、良い企業に入り、がむしゃらに働くだけで十分な賃金や退職金、厚生年金によって相応に報われた現代日本のマジョリティ層とは時代が違い、奨学金という名の借金を借りてまで良い学校に入っても職に就けずに返すアテがない可能性があるし、かつて良い企業と言われていた広告代理店、商社、銀行、テレビ局に就職しても手取り20万円に毛が生えたレベルかつ激務で自殺に追い込まれた人だっている。

 そのうえ、雇用も企業も定年まで保たれるか分からないどころか、定年がいつなのか、退職金や年金がいくら貰えるのかすら不明瞭。江戸時代の五公五民に負けず劣らずな重税で貯蓄もままならないのに財政は逼迫。老後資金は2,000万円不足するから自助努力で備えるように国がメッセージを出す始末である。

 それでもなんとか付加価値の総数は横ばいもしくは微増して、2008年以降は人口が減少。一人当たりGDPは増加している筈だが、国民の暮らしは何故か貧しくなっている。

 GDPと言う指標そのものが貨幣経済を前提としているものだが、以前にも記したように村社会特有の相互扶助的性質による人的資源や物資の交換。売春、薬物などの違法なものや、ビットコインなどの既存の価値観に無かったものの全てを貨幣経済の尺度で計測することはできない。

 つまり、GDPで算出した数字は一見するとファクトに思えるが、経済活動の切り取り方によって数字が操作可能なフィクションでしかなく、GDPそのものには大した意味がないのである。大衆はそれに踊らされているに過ぎない。

 「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う」は伊藤惇夫さんの名言だが、GDPは後半部分と同じ匂いがしてしまうのは私だけだろうか。



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