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しまむらGの炎上騒動から考える、ホワイト社会の行き着く先


男女平等、但しオッサンは除く?

 先日、しまむらグループで子供用品を取り扱うバースデイにて、現代美術家とのコラボ商品の一部が、男性差別を助長しかねない表現で炎上し、販売中止に追い込まれる結果となった。

 Tシャツや靴下には「パパはいつも寝てる」「パパは全然面倒見てくれない」「パパはいつも帰り遅い」と、一昔前の寛容な時代なら、単なるおっさんイジりとして許されていたかもしれない内容だが、やれSDGsだ、ジェンダー平等だと謳われている昨今では、時代錯誤感が否めない。

 発売元のXのプロフィール欄に「全国の子育てママ・パパを応援していきます!」と記されているのも、個人的には芸術点が高いと感じるが、仮にブラックジョークとして通すにしても、同じ文面でママVer.とパパVer.を作るべきで、これが真の平等と言うものだろう。

 ある意味、表向きは男女平等を謳っているが、おっさんならサンドバッグにしても良いという、社会の暗黙の了解が許されなくなった意味で、日本はもはや男尊女卑ではなく、むしろ女尊男卑社会であることが可視化された一件のようにも捉えられる。

アーティスト作品としては合格

 そもそもコラボした現代美術家が、社会風刺をジョーク的発想で作品にする創作スタイルなのだから、炎上リスクが付き纏うのは、企業として当然把握した上で、発売に至るのか、至らないのかを決めるべきであって、前者で突き進んだ結果、炎上して取り下げるのはポリシーねぇなと思ってしまう。

 芸術というのは表現の場であって、個人の思想が色濃く出るのだから、賛否両論あって然るべきなのは、岡本太郎氏の今日の芸術で挙げられている「うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」からも窺える。

 私は美術館巡りが好きだが、繁忙期に行くと、印象派の代表格であるパブロピカソの絵を、「子どもみたい」と一蹴する大人を、それなりの頻度で見る度に、この人たちは教養がないんだなぁと残念に思う。

 彼の若い頃の作品を知っていれば、誰もが綺麗で上手いと思える絵を、描けるだけの技量を有しているにも関わらず、その先に自分が求める答えがないことを察して、あのスタイルに至った。

 他人の目を気にしない子どもは、大人と違って「綺麗に描こう」とか、「上手く描こう」など考えず、何の邪心もない状態で自己を表現する。それこそが芸術の本質だと気付いたからこそ、敢えて大人が子どもみたいな絵を描くことを試みたのだろう。と思いを馳せながら印象派の作品を見ると、趣がある筈だ。

 単純にきれい、うまいと思える作品は、大多数の人が不快に思わない反面、八方美人が誰からも好かれないのと同様に、誰の印象にも残らず、埋没化していく。それは果たして表現のあるべき姿なのだろうか。

 学生時代、都道府県毎に行われる教育美術展で銀賞を取り、全国区には行けなかった2位じゃダメな私が考える芸術は、時に観た者を不快にさせては弾圧や袋叩きに遭い、精神的に血まみれになることを覚悟してでも、己の思想、信念を貫くのが表現であり、芸術のあるべき姿だと考えている。

 本件は、ある種の社会問題として提起する起爆剤となっている意味で、世論的には作者の感性を疑う見方が圧倒多数かもしれないが、アーティスト作品として捉えると、紛れもなく役目を果たしているため合格だと個人的には思う。

ブラックジョークを真に受ける社会

 独断と偏見で今回の炎上騒動から、世間を俯瞰すると、社会(主にマスメディア)が、自主規制で角の立つ表現を排除していった成れの果てのようにも思う。

 大衆はオブラートに包まれた、当たり障りのない情報以外を受け取る機会が、極端に少なくなったことにより、ブラックジョークそのものが通じなくなって、真に受けてしまう時代になっているのではないか。

 また失われた30年で、経済的に余裕がなくなったことで、実生活からもゆとりが消え、全体の傾向として思考が短絡的になっていることも、都合よくタイパやファスト文化と言い換えているに過ぎないのではないか。

 私は模型だった頃のきかんしゃトーマスを観て育った影響もあってか、ブラックジョークが好きで、口と意地が悪い。ついでに身も蓋もないオチと顔芸も嫌いじゃない。

 第一話はア○パンマンボイスなトーマスの「起きろよ怠け者!」から始まり、新作で干された唯一の人格者であるエドワードを除けば、登場人物がクズ揃いな子ども向けテレビ番組が、20年前まで地上波で放送されていたのだから、いかにここ数年で世間が表面上ホワイト化して行ったのかが窺える。

 クズ揃いな機関車たちが「このノロマ!」「ポンコツ!」「役立たずの虫ケラ!」と、罵り合っている作品を物心付く前から見て育ち、ブラックジョークに慣れている身としては、普段から相手の言うことは話半分で、軽く受け流してはヘラヘラしている。接客業で気を病まなかったのは、そうした影響もあるだろう。

 常に他人事だから、ブラックジョークが平気で言える側面もあるが、時にブラック過ぎて洒落にならず、親世代の上役に顔を真っ赤にして怒られたこともあった。とはいえネタにしている時点で、どうせなら口から泡吹いて倒れるまで怒らせたら面白かったのに…by鬼畜ロボ程度にしか思っていない。

 社会がホワイト化した影響で、大多数の人がブラックジョークを真に受けるようになってしまった社会は、衛生面で過剰に清潔さを求めるようになったことで、却って子どもの免疫力が低下してしまっている状況に通じるものがある。

 社会全体で潔癖さを追い求めた先には、受け手によっては不適切に映るかも知れないが、社会にとって必要な表現の場が失われかねない意味で、果たして正しい方向性なのか、考えさせられる。


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