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井の中の蛙、大海を知らず。

たかがSNS、されどSNS。

 坂本龍馬ゆかりの地で、典型的なムラ社会による、よそ者の排除機能が働き、地域おこし協力隊の移住者が、失業の危機に瀕する事態がSNS上で話題となっている。

 地元新聞の内容によると、口約束で賃貸契約を交わしていないとのことだが、それが本当であれば、法的に対抗する術がない状態となり劣勢な気はするも、開業に際して店側が何らかの出費をしている場合、事実上の契約と捉えられる可能性もあり、そこが争点になりそうではある。

 とはいえ、東京都の某一般社団法人の会計不正問題にあったように、NPO法人と行政が癒着した結果、行動力のある若者が潰されるような不文律が蔓延っているのであれば、日本からGAFAのような新興企業が登場しない理由は自明の理だろう。

 私は地方移住に際して、金融資産所得のみで経済的に独立できる状態を、事実上の前提条件としていたのも、その地域のコミュニティがあったとしても、そこに属することなく生活が完結するならば、同調圧力のかけようもなく、村八分もクソもないからである。

 そもそも、デジタルネイティブ世代は、現実世界と画面上の仮想空間の双方にコミュニティを有し、その境界が曖昧だったり、インフルエンサーのように画面の世界の方が比重が大きいニュータイプが一定の割合で存在する。

 インフルエンサーの拡散力は凄まじいもので、時に世の中を突き動かす脅威となり得る。そんなSNSに「たかが」を前置してしまう辺りに、デジタルネイティブ以前の世代が、画面の中の世界を甘く捉えているように映る。

よそ者なりのやりようはある。

 よく町内会に加入して、会費を支払わないとゴミが捨てられない問題がイメージされるが、一般論ではあくまでも町内会の集積場が使えないだけであり、ゴミの収集と処理は行政サービスの一環で行なっているため、役場で相談すれば、行政で設置している集積場(大抵は役場)を教えて貰える筈である。

 そもそも住民税を支払っているのだから、必要最低限の公共インフラの利用が、小さなコミュニティの不文律によって、拒否されることはあり得ない。

 一応、私のように定職に就かずに隠居する前提であれば、基本的に時間はあるため、最寄りの町内会用集積場の収集時間を把握しておき、パッカー車の音が聞こえたら、収集中にノコノコとゴミ袋を持って現れ、収集員に手渡ししてしまえば、集積場を利用することなく、最短経路でゴミ出しができるため、やりようはある。

 屁理屈のようにも思う方も居るだろうし、役場が朝の何時までに出せと指定しているのだから、図々しいにも程があるなんて意見もあるかも知れない。

 しかし、役場が時間を指定しているのは、後出しした分際で回収されていないと苦情を入れて、自分の都合で回収させるよう仕向ける輩を抑止するためであり、収集員に駆け込みで手渡しをすることの弊害は、素人目では「時間守れよ」の感情論以外に思い浮かばない。

 ゴミ芸人が執筆する本にも手渡しする奴の描写があることから、少なくとも東京都区部某所では、そこまで珍しい光景ではないのかも知れないが、そもそも都内で町内会費を払わずとも、集積場を利用していた身としては、駆け込んでいるだけのように映る。

 因みに今回の移住先は、集合住宅内にゴミステーションがあり、賃貸物件の管理費用に内包されているため、つつがなく集積場を利用できており、上記はあくまでも、典型的なムラ社会とは知らずに転居してしまった際に取り得る、いち強硬手段の思考実験に過ぎない。

時勢に応じて自分を変革しろ。

 上記の見出しは坂本龍馬の名言である。要するにいつまでも旧態依然のまま、あぐらをかくなと言ったところだろうか。当該地方出身の英雄と誇っておきながら、遺した言葉には無頓着では、シニカルな笑いが起きても不思議ではない。

 私は東北人ではないが、伊達政宗の名言である「まともでない人間の相手をまともにすることはない」は、座右の銘としている。お笑いでサンドウィッチマンが気に入っているのも、伊達ちゃんのルーツが政宗の女系子孫である影響が1mmくらいもないかも知れない。

 それはさておき、時代の変化に応じて、自分を変えて行く重要性は、不変の真理のようにも捉えられる。アドラー心理学の「課題の分離」にも繋がる部分ではあるが、大抵の対人関係のトラブルは、他者を強引に変えようとする図々しさによって発生し得るものである。

 コミュニティの不文律を侵害したと思い込んで、よそ者を変えようとする有権者と、数々の理不尽や不条理に対抗して、ムラ社会や行政を変えようとする移住者。互いに自分の意思では変えられない、他者を変えようとしていることでトラブルが発生している。

 しかし、どちらが善でどちらが悪かは、時代によって変化する。

 コンピューターの基礎理論を説いたアラン・チューリングさんは、第二次世界大戦で、ドイツ軍が使用する暗号通信機(エニグマ)を、傍受した暗文を解読するために、コンピュータの基礎となる機械を開発したことで、大戦の早期決着に寄与し、戦争犠牲者を減らした功労者だ。

 しかし、当時重罪だった同性愛によって、戦後程なくしてイギリス政府によって逮捕され、41歳で自決してしまった。当時の法律に則り、不当に扱われたことで、天才の芽を潰してしまった。

 境遇は違えど、Winny開発者の金子勇さんも、世間からの不当な扱いによるストレスからか、高等裁判所で逆転無罪を勝ち取った後、程なくして急性心筋梗塞で亡くなってしまった。

 彼らが時代を先取りし過ぎて悪とされてしまった。逆説的にインターネットで情報が即座に共有される、情報社会が浸透しつつある昨今では、時代に取り残される情報弱者が悪者扱いされても不思議ではない。

 現在はちょうどその過渡期で、結果として前時代的な田舎者が、狭いコミュニティで幅を利かせているだけのおっさんと、近未来的な移住者が、その理不尽や不条理に泣き寝入りせず、SNSを駆使して立ち向かうことで衝突しているに過ぎない。

 本来この世界は広く、そして美しい。狭いと思っているのなら、それは世界ではなく世間であり、井の中の蛙そのものではないだろうか。誰もが他人と過去を変えようとせず、自分と未来を変える方向に向かえば、少しは息が詰まるような、この日本社会の風土は変わるのだろうか。


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