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地方社会と鉄路の岐路

 広島は路面電車が縦横無尽に走る、日本では数少ない主要都市であり、なかでも京都市電からの移籍車両が印象的だ。この車両はおよそ半世紀前に譲渡された、昔ながらの1両の電車で、当時とそう変わらぬ姿のまま、今でも現役で運転されている。

 かつて全国の主要都市を縦横無尽に走っていた路面電車は、高度経済成長期におけるモータリゼーションの進展により、道路上で邪魔もの扱いされ、多くは地下鉄やバスに代替される形で姿を消していった。

 しかし、ブキャナンレポートで主張していたように、車社会を前提とする道路計画は物理的・財政的に不可能で、大量輸送システム(鉄路)が必要であることは、京都市がオーバーツーリズムに悩まされている現状を見ても明らかだろう。車両が広島に残っているだけに、市電の廃止が悔やまれる。

 昨年には宇都宮LRTが新規開業したことで、日本でも一周回って路面電車が復権する機運が醸成されている。一方で、鉄道では採算悪化や自然災害により、廃線もやむなしと言った論調に終始している。

 先人たちが地方社会の明るい未来を信じて敷設した鉄路を、我々の世代が尤もらしい理由を並べて廃止してしまって、本当に良いのだろうか。広島を走る元京都市電を見るたびに、そんなことを思い浮かべる。

 また昨今、公共交通機関では人手不足を理由にした減便が相次いでいる。そもそも公共交通である鉄道やバスの運賃には上限規制があり、採算が合わないからと簡単に値上げできない一方で、多くが民間企業や、公営でも独立採算制で運営されており、公共性とは相反する営利性が求められる経営構造の矛盾を抱えている。

 売り上げは人口とともに年々減少する。利益を出すには経費削減する他なく、人件費も例外ではない。結果として、従事者の待遇が改善されずに見劣りして働き手が不足。やむを得ない減便が機会損失となり、更に売り上げが減る悪循環。

 その被害を真っ先に被るのは、公共交通を最も必要としている交通弱者だ。車社会を前提とした道路計画がいつか破綻するのは先述した通りで、公金で作られた高規格な道路ばかりを好んで使い続けると、鉄路は廃れ、やがて道路が維持できなくなった自治体から消滅していくのだろう。

 後世に住む場所を選ぶ自由を残すためにも、環境負荷の少ない鉄道を積極的に利用し、鉄路を維持することが、人口減少時代における地方社会の行末を決定づける気がしてならない。


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