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今の日本は頑張ろうという気になれない


強い日本を取り戻すは政治家の世迷言

 昨今、自動車業界での認証不正問題が立て続けに起きているが、「時代に合わない基準」だと、国交省に対抗したトヨタは、早期に生産再開した同業他社と異なり、未だに再開の目処が立っておらず、いかにも社会主義的なパワープレイを感じる。

 私は以前から、この国に起業家が少ない理由として、ライブドア事件や、Winny事件のように、既得権益を脅かす存在を徹底的に叩き潰してきた過去から、イノベーションを起こすよりも、既得権益にぶら下がった方が得だと、社会や大人たちが暗に示していることで、若者のチャレンジ精神を削いでいるからだと主張していた。

 本件はまさに、国の傲慢なお上意識や、杓子定規な役人根性によって、自分たちの気に入らない、都合の悪い抵抗勢力に、不条理な制裁を科していて、これでは事実上の社会主義と捉えられても、致し方ない対応に思える。

 しばしば政治家の謳い文句で、「強い日本を取り戻す」と言っているが、そもそも就職氷河期と言われたロスジェネ世代以降、戦後復興から高度経済成長、バブル期に至るまでの、過去の栄光を知らない。

 ロスジェネ世代の定義が1970〜84年生まれとなっていることから、2024年現在、既に最年長は54歳。現役世代のほぼ全員が、バブル崩壊後の平成不況、後の失われた30年を過ごして来た、万年不況で生きてきた世代に他ならず、イメージできない好景気の強い日本を、取り戻すもクソもないだろう。

 つまり、高齢化した政治家が謳う「強い日本を取り戻す」キャッチコピーそのものが、高齢者の高齢者による高齢者のための政治を行っていることを暗喩しており、ただの世迷言に過ぎない。無論、現役世代には、どうしようもない、淀んだ雰囲気が蔓延っている。

強権的な追い込み政策の行き着く先

 それだけに、地道にボトムアップのカイゼンを繰り返したことで、今の繁栄があるトヨタの、かつてのトップであり現会長が「今の日本は頑張ろうという気になれない」と言わせるような社会の責任は大きい。

 国を代表する大企業のトップも務めた人が、頑張ろうと思えない世の中だとすれば、サイレントマジョリティである我々パンピーの意識は、既にこの社会を一個人が頑張ったところで、どうこうなるレベルでないことくらい、火を見るよりも明らかだろう。

 私は鉄道員の出自もあり、強権的な追い込み政策の行き着く先が、どれほど悲劇的な結末を迎えるのか、理解している気でいる。

ミスの隠蔽や過少申告、あるいは改善意見までもが表に出ない、恐怖政治体質
(中略)
社員への追い込み政策によって、現場にはどうしようもない、よどんだ雰囲気が蔓延している。その結果、社員が鉄道マンとしての責任感や誇りを失い、それが事故当日に(客室に乗り合わせていた)運転士が逃げる要因ともなった。

福知山線5418M 一両目の真実|吉田 恭一

 表向きは民主主義、三権分立を謳っているが、有罪率99%の人質司法に加えて、議院内閣制の構造上、立法と行政は分立しておらず、権力者の暴走が許されているのが我々が生きる日本社会ではないだろうか。

 つまり、行政機関への反抗勢力には容赦しない恐怖政治体質と、重税を負担させる現役世代への追い込み政策によって、国民にはどうしようもない、よどんだ雰囲気が蔓延している。

 その結果、日本人としての誇りを失い、労働生産性が上がらず、経済成長もせず、将来を悲観した若者は、この社会で子どもを産み育てようとは思わなくなり少子化が加速。人口減少で現役世代ひとり当たりの業務量が増大。

 それにも関わらず、老害は昔の意識のままで、必要な措置が講じられず、若い世代に過大な負荷を掛けることで成立する、若者に過酷過ぎる社会に。そして、どうしようもない、よどんだ雰囲気へとループする。

 その結果、一昔前だったらあり得ないような不祥事や事故が、平気で起きる社会と化し、結果として、誰かの命が奪われる大事件に発展する。

小さな世界に閉じこめると、いじめが始まる

 「なんだこの自浄作用がない腐った組織は…」これはかつて、私が鉄道員として、同業他社に鞍替えした際の、ファーストインプレッションでの違和感を、ドロップアウトしてから振り返って言語化したものだ。

 中途入社組で同業から来た(=比較対象がある)のが私だけだったことから、この違和感は共有せず、心の内に秘めていたが、2005年の大惨事を繰り返さないためにも、ゼネラリストを前に決して首を縦に振らず、抵抗勢力側に位置していた。

 往々にしてインフラ系の業種は労働組合が強いことから、私のような反権力色の強い、気骨のある人間は労働組合に重宝される。しかし、鞍替えした同業他社ではそれがなく、むしろ双方向からの嫌がらせにより、気骨が折れる展開となった。

 年功序列、終身雇用の大義名分のもとで、会社組織という小さな世界に閉じこめられている、典型的な狭い狭い村社会のソレで、兎にも角にも異物である私を排除したかったと思われる。

 小さな世界に閉じこめると、いじめが始まるのだ。そんなオッサン達の視野の狭さを想像すると、オッサンたちの血税で成り立っている社会保障制度に、ただ乗りしている今となっては憐れみすら感じる。

 自戒の念を込めて、単純作業しかしていない非大卒が蔓延る、業種の特性もあるのかもしれないが、そもそも読書週間のある人が、職場内で1割にも満たなかった。つまり多くは思考停止状態である。

 手前味噌だが、私は上場企業3800社超が掲載されている会社四季報を読破するたびに、株式投資という切り口で多種多様な会社が、それぞれの思惑で営利事業を営んでいる、この社会の広大さをしみじみ感じていた。

 だからこそ、視座が違う。何か意思決定を行う際、組織にとってどうあるべきか、利害関係の調整などは枝葉末節に他ならず、重要なのは、社会にとってどうあるべきか?でしょうに。

 それらを末端に居ながら自発的に考える人間を、社会全体で邪魔者扱いしては排除し続け、思考停止人間ばかりを量産した結果が、今の日本は頑張ろうという気になれず、優秀な人から順に日本を見捨てて海外に出ていく状況を生み出しているのではないだろうか。日本社会の病理は根深い。


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