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海の見える家

私がちいさい頃、母方の祖母は広島の呉という港町に住んでいた。呉は海上保安庁?の基地やちいさな造船所がある、くらしと海がとても近い町だ。

かつての祖母の家もまた海の目の前で、瀬戸内海をゆっくりと進む漁船のモーターの音や、船の汽笛の音が潮風にのってよく聞こえるような、ザ・「海の家」だった。まさに、『崖の上のポニョ』の宗介とリサ親子が住んでいたような、小高い丘の上のはしっこにある一軒家だったのだ。


そんな祖父母が呉の町に越してきたのは、母と母の妹がまだ小学生だったころだと聞く。
大阪からはるばる呉の町にひっこしてきた祖父母は、親族で経営していた洋服屋を継いだ。アパレル経験ゼロで見知らぬ土地で洋服を売ることは、やはり相当にたいへんだったそうだ。堅気な祖父と2人3脚、文句も言わずに歯を食いしばって頑張っていたらしい。

吉本ばななのように、人よりもすこしだけ第六感が冴えている私の祖母は、その特徴を活かして次にくるヒットアイテムを当てることもあったそうだ。まだ当時は画期的だった色のついたジーンズ(少女時代のGeeのMVみたいなアレ)が跳ねてかなり儲かっていたらしいが、親族経営あるあるのゴタゴタに巻き込まれてしまい、私が生まれるすこし前かすぐ後にその店は畳んでしまった。その洋服店を私は一度も見たことがない。

でも祖母の「海の見える家」は孫の私が生まれてからもしばらくはありつづけた。私たち家族の週末ルーティンは、車で2時間ほど走って祖母の家に泊まりにいくこと。とくになにをしにいくわけでもなく、ただ泊まりに行くだけのやつ。

当時の私は、車酔いをしてまで海しかない家にいくことがなによりも嫌だった。友達もいないし、ゲームもない。「またかよ」と思いながら、親に連れられてお泊まりをしていた。
祖母の家のリビングには大きな窓があり、そこによく母が立っていた。「海をみると落ち着く〜」と言いながら。犬の散歩には、家の下に通っている今は使われていない道路を使った。すぐ下が海というような切り立った道路で、地元の人がよくそこで釣りもしていた。

この週末、親から送られてきた旧道路の写真。
(向こうに見えるのはいつの間にかイケメンになっていた愛しき末の弟)



それからしばらくして、末の弟が生まれた。
里帰り出産をした母は、弟が生まれる直前と直後をその海の見える家で過ごした。生まれたての天使のようなかわいい弟が、海の見える大きな窓の前で大きな毛布にくるくると巻かれる様子は今でも思い出す。すごくかわいがられていた。嫉妬するほどに。

弟が生まれてから数年が経ち、祖母は妹夫婦と一緒に住むことになった。引っ越しだ。当時は私も幼くて、祖母の家がとにかく新しく広くなることにしか興味がなかった。「海の家」を捨てることなど、なんの抵抗も未練もなかったのだ。祖母が妹夫婦と住めば、必然的に従姉妹とも会える。一石二鳥じゃないか、としか思っていなかった。

結局、その「海の家」は取り壊されることになった。
そしてその後は近所に住んでいた祖母の友達の娘夫婦が越してきて、あたらしくて味気ない家をせっせと建ててしまった。今は海の家のかけらもなく、一家で呉に行くこともすっかりなくなってしまっている。

しかし大人になった今ならわかる。私の小さい頃の記憶や、感性の土台はほぼあの場所で形成されているということを。
自分の根っこは、ほぼあの海の家で育まれたものなのだ。磯のにおい、遠くで鳴る船のモーター音、海沿いを走る車、海風のぬるさ。海沿いに住んでいたわけでもないのに、私がいつでも海を恋しく思うのは、まちがいなくあの祖母の海の家で過ごした人生最大の暇な時間があるからなのだ。

家の中の記憶だけではない。
道すがら親が車の中で聞いていたラジオや音楽も、私の音楽の趣味に大きく影響を受けている。疲れ果ててうつろな夕方の時間帯に流れていたラジオAVANTIやサザンオールスターズ、松任谷由実、スティービーワンダー、ビリージョエルなど。当時は聴き過ぎて耳にタコができるかと思っていたが、今は盤石な自我の基盤として、大人となってサバイブしている私を支えている。気温や天気が当時と似ているときは今でも、車の中でかかっていた曲を聴いている。

これはつい最近弟から聞いた話なのだが、毎週のように母親がわたしたちを連れて祖母の家に行っていた理由は、母親の育児疲れによるものだったのだそうだ。毎週でも祖母の家に行かなければ、「やっていけなかった」と。

年が2個しか離れていない、ほぼ猿のような、うるさくてすばしっこい子供の育児疲れを、私の両親は祖母の家で癒していた。なかば現実逃避のようなかたちで。
それを聞くと、「行きたくない」と駄々をこねる私の手を引いて真顔のまま母親が車を運転していたこと、大きな海の見える窓に立っていた母親の横顔の意味あい……なにもかもが変わってくるような気がした。あの海の家は、いろんな意味で、「なくてはならない」場所だったのだ。

そんな親の苦労やつゆ知らず、私はたいくつな祖母の家で、遊んだり、食べたり、寝たりしながらダラダラと過ごしていた。なんならみずみずしい感性さえ育てていた。育児って盛大なバグだ。
それを決して子に悟られまいとした、そして子に当たろうとしなかった親の寛大さにあらためて思いを馳せる。


今はなき、あの海の見える家。本当は、私たちにとってなくてはならない拠り所だったのだ。本当は壊してはいけなかった場所。それでも、それを誰も止めることができなかった。誰もが惜しみながら、あの家は壊されていった。

大人になってから気づくことがあまりにも多い。
あの立地の良さ、海がもたらす心の平穏、海がどれほど私たちの精神的な拠り所になっていたのか。

「私がもっと大きかったら、私が住んだのに。」

そういうことを母親に未練がましくいうと、「仕方ないよ。過ぎたことなんだから」と言われた。母も名残り惜しさを引きずっているように見えた。

で、何が言いたいの?と言われてしまっては元も子もない。海の日で思い出す話はそれだ。

とりあえず、私にとって「海の見える家」は自らのアイデンティティにもつながっている。
将来はもちろん広島に住むけれど、どこに住んでも海が見える場所に住みたいと思う。なんなら、ポニョのような家がいい。

はあ、広島帰りたい。おやすみ。

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