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インタビューの醍醐味

むかし、というか小さいころ、この「醍醐味」という言葉を使う大人に密かな憧れを抱いていた。

「だいごみ」というのは、響きからしてなんだか熟年のウイスキーのようなコクを感じる。チーズだかなんだか知らないけれど、とにかく長い年月を経てじわじわと出てきた「うま味」のような、おいしそうな深いものが隠されているイメージがあった。

ウイスキーやチーズが似合う「イイ大人」が使う言葉だと思っていたから、今でも醍醐味という言葉を使うのはすこし気が引ける。なんというか、何かの醍醐味を語るほど私は世の中を知らないし、大人じゃないと思ってしまう。

けれど、インタビューだけは、「醍醐味」という憧れの言葉を使いたくなる。インタビューは実にコクの深い、おもしろい行為だ。

先日、お仕事で学生の頃(大学1年)からずっとお世話になっている会社で社員インタビューをさせてもらった。

ベンチャーで、社員の年齢もまだ若い会社だけど、とにかく奇跡的なまでに嫌な人がいない、世にも珍しい会社だと思う。サークルに馴染めず、それどころか大学在学中に知り合ったコミュニティにことごとく馴染めず、気づいたらいつもひとりでいたような私でも、なんだかんだ4年間も居続けられている場所。それが全てを物語っていると思う。ここでほぼ過ごして、私の中にも染み付いているものがある。少なからず今の自分に大きな影響を与えた場所だ。

そんな会社で私がライターになりたい、書くことが好きだという話をすると、ぜひ自分の名前でインタビューやってみなよ書いてみなよと言ってもらった。

やさしい人たちにやさしいチャンスをもらい、社員の人にインタビューをすることになったのだ。

チャンスを与えてくれた会社のためにも、貴重な時間をもらった社員の人のためにも、そして私の将来のためにも、とにかく何がなんでも良い記事にしたい。今までにない熱量を込めて用意をして、全力で望んだ。

このインタビューは「実践」の場所でもある。
実践とはつい先月まで通っていたライティングスクール、バトンズの学校で受けた講義を実践する場所だ。
学校ではインタビューの講義を何度か受け、実際に課題で受講生同士でインタビューもした。でも、仕事としてインタビューをするのはこれがはじめてた。

講義の時も思ったが、インタビューは実に面白い行為だと思う。
面接ではないので相手の人を追い詰めなくてもいいし、何より私が好きで普段からしている「その人の人生の話を熱心に聞く」ということに、対価が発生するのが不思議で不思議でたまらない。むしろ「お金をもらえてラッキー」という感じなのだ。もちろん、記事にする上で相応の編集や工夫はするけれど。
こんな楽しいことがあっても良いのか?と思うのだ。

インタビューは即興芸だ。質問を投げて何が返ってくるかわからない。
でもそれも楽しい。そして、インタビューは、自分の人生とは全く違う時間を過ごした人たちの「ふつう」と自分の「ふつう」を比べて、その距離感を確かめる行為に近い。普段私は他人と同時に自分という人間にもとても興味があるから、そうやって他者と自分を比べて違いを見出し、そこからまた会話のキャッチボールをすることが楽しくてしょうがないのだ。

うまく言えないけれど、とにかく、普段やっていることとさして変わらないことをしている。それを合法的に、しかもまるまる1時間、密室で、静かな場所で、聞きたいだけ話を聞けることが嬉しくて楽しくてたまらない。

こんなにおもしろいものが誰かのためになり、誰かを喜ばせ、誰かの内省や言語化のお手伝いになり、挙げ句の果てにはお金をいただけるだなんて、そんな都合のいいことがこの世にあるなら私はこれだけずっとやっておきたい。そう思うほどにインタビューはおもしろい。



インタビュー(取材)当日までにかなり用意をして、その人の事前情報を調べてから話を聞きにいく。その事前準備も大好きで、今回の社員インタビューもすでにその人が発信してくれているもの(SNS発信やnote、どこかでのインタビュー、社内であればSlackでの過去のやりとり)をくまなく目を通して望んだ。本来であればそんなストーカーじみた行為は避けるべきことなのだが、取材という名目であればそれも許される。

取材日までは直接話すこともない。私はただただ、その人の日々の足跡をたどるような気持ちで既出の情報を追っていく。そこからあれやこれやと妄想したり、「この人はこういう傾向があるな」とか「こんな感じだろう」という良い意味での先入観を持つ。「人間性」というものに無限の興味があるタイプにとって、こういう作業を合法的にできること自体が楽しくてしょうがない。
本人ですらこんなにチェックされるとは思ってもみなかっただろう既出のコンテンツを見ながら、本人でさえも気づいていないかもしれない行動パターンや癖を検討する。これも全ては、取材当日のためだ。いろんな情報をセットして、こうじゃないかと思いながら、それを本番でぶつける。それがインタビューというものなのだそうだ。

相手の想定外の打ち返しや、細かい身体の動きなどに即座に反応して、都度質問やリアクションを変えていく。意外と、あたまを使う行為だ。そこがおもしろい。勝ち負けはないし、別に相手を試すとかそういう意味はないのだけど、カードゲームをしているような気分になる。一枚一枚手札を切って、相手の反応をたしかめて、その様子で話を深堀したり、気持ちよく語ってもらったりする、会話の旅。

前回のインタビューでは「もっとあれやこれを深堀するべきだった」というポイントはあったものの、そこそこに対話はできたんじゃないかなと思う。
文字起こしの時間も私は好きで、「この人のこのパワーワード最高だったよなあ」とか、「こんな素敵な面白い考え方をするこの人のことを、早く世の中に届けたい!」という思いに溢れてくる時間もまた、幸せだ。

まだまだ私はインタビューライターとしては駆け出しで、だからこそ楽しめているのかもしれない。慣れたら落ち込んだり、嫌になることもあるかもしれない。けれど今は、ただただ純粋に楽しめている。この気持ちを大切にしていたいなと思う。

インタビューの醍醐味、それは、その時間だけは人間への飽くなき興味と愛情を全開にしながら、目の前にいる人間に深く向き合い、対話をすることが全面的に許されている点ではないだろうか。
そしてその愛情や興味を全て、自分の好きな言葉に乗せて、自分やその人でさえも知らない誰かに広く伝えられること。

インタビューの独特なあの時間に生まれる人間同士のやり取りの濃さこそが、私が普段の生活に求めている濃さなのだ。これくらい、私はもっと他人の話が聞きたいし、人生の話をしてほしいし、全部語ってほしい。そしてそれを受けて自分がどうアメーバのように変化していくのかを見ていたい。
自分との違いを知ってあつくなったり、理解できなくて戸惑ったり、知らない世界にぶちあたって呆然としたいのだ。このやりとりの濃さこそ、私が日頃から望んでいるものなのだ。人間との対峙の仕方なのだ。
誰に望まれなくとも、お金が支払われなくとも、私はインタビューがしたい。そう思う。

明日も別の社員インタビューが控えている。きっと相手の意思決定がわからずキョトンとしたり、深く共感したり、親近感を抱いたりしながら、相手のことをもっと好きになるのだろう。もっと好きになりたい。

感情のジェットコースターを、楽しんでくる。

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